横浜に旧日本軍の軍事施設跡は残っているの?
ココがキニナル!
横浜の旧日本軍の軍事施設跡残っているの?東京湾にはいっぱい要塞があった様ですが。(nagatoshiさん/浅田真央子さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
横浜市にも旧日本軍の施設がいくつか残っていた。戦争遺跡は地域の歴史や平和について考えるきっかけとなることから、保護活動が行われている。
ライター:吉澤 由美子
富岡総合公園に残る「元横浜海軍航空隊・隊門」
富岡総合公園は昔、日本海軍の基地「横浜海軍航空隊」だった場所。戦後は米軍に接収され通信基地や、補給基地として使われていた。
桜並木に残る横浜海軍航空隊の門
返還されたのは1971年、跡地は三分割され、そのうちの小高い丘を抱えた部分が、1975年に富岡総合公園としてオープンした。
この場所には、『富岡総合公園には以前どんな施設があったの?』でも紹介したが、鉄筋コンクリート三階建ての兵舎と大きな格納庫、射撃練習場などがあった。
格納庫はガレージとして公園の隣にある第一機動隊で使用されている
今はのどかな公園として市民に親しまれ、桜の季節には多くの花見客を集めている。
戦時中は病院船として活躍した氷川丸
山下公園前の横浜港に係留された氷川丸は、優雅な船体フォルムと内装のアールデコ装飾が見事な博物館船。
いつもカモメがびっしりとまっている
日本有数の豪華客船だった氷川丸は、第二次世界大戦中、病院船として海軍に徴用されていた。
病院船は、傷病者や難船者を救助するための船。国際法で戦時中も安全が保証されており、軍事目的の使用は禁止。そのため病院船であることがすぐわかるよう、氷川丸は白い船体に緑のラインと赤十字マークをつけ、夜間も赤十字マークを照らしながら航海を行った。
氷川丸は病院船として3万人もの患者を日本に運び、戦後は引き揚げ船として2万8千人を日本に輸送。その後も不足していた物資を運ぶなどの役目を行い、客船として復帰したのは1953年。
そして氷川丸は1960年に客船としての役目を終え、博物館船として横浜港のシンボルになっている。
取材を終えて
戦争の遺構は、「負の遺産」。そのため、最近まで注目を集めることなくひっそりと存在していた。
戦争体験を伝えられる世代が年々減少してきた現在、戦争遺跡は後世に平和への思いを伝えるものとして見直され、保存活動が行われはじめている。
日吉台の地下壕指令長官室跡
「戦争遺跡は、地域の歴史を知り、平和について考えるきっかけをくれるもの」日吉台地下壕保存の会の喜田さんがおっしゃった言葉が心に残った。
― 終わり―
横浜市の野島公園ページ
http://www2.nojima-park.org/summary/
国立文書館 アジア歴史資料センター
http://www.jacar.go.jp/
野島掩体壕の資料「第三〇〇設営隊戦時日誌」などを閲覧可能
日吉台地下壕保存の会 ホームページ
http://hiyoshidai-chikagou.net/
見学会などのお問い合わせ案内もこちらです
日本郵船歴史博物館 日本郵船氷川丸 船の歴史 氷川丸ページ
http://www.nyk.com/rekishi/knowledge/history_luxury/01/index.htm
さすらい日乗さん
2015年04月09日 14時48分
金沢区にいる時、仕事で東急車両の本社棟に入ったことがありますが、全く昔の海軍技術廠のそのままで、時々映画やテレビの撮影に使われると言っていました。
えみりさぱぱさん
2014年06月02日 10時28分
こどもの国も弾薬庫の跡があると思いましたが……。父に聞くと、学徒動員というかそこに働く人が川に落ち、死亡したという話でした。
ぎるこさん
2013年07月16日 09時19分
日吉に住んでいますが、こんな戦争のあとが未だに残っていることにビックリしました。