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山一帯が墓域? 京急富岡駅前の山中にある墓所群と謎の史跡とは

ココがキニナル!

京急富岡駅東口を降りると、向かいにそびえる山。上るとたくさんの墓地や一軒家、畑のほか、Googleマップを見ると「経塚」という歴史的なものがあったり・・・。気になります(ねこみくさん)

はまれぽ調査結果!

山中に墓所群がある理由は、富岡の地形と江戸時代の村の状況にあった。ちなみに「経塚」は仏教の末法思想に基づいたタイムカプセルのようなもの

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ライター:小方 サダオ

富岡の歴史について(つづき)
 


次に文献でも富岡という街について調べてみることにした。『武州富岡史話』によると、「江戸時代の富岡は旗本領(主君が家臣の武士に与えた領土)として始まった。江戸時代の農村には、名主、組頭、百姓代という役人がいて、領主や代官に代わって村を納め、年貢の円滑な納入の役目を果たした」とある。
 
江戸時代の平均村高(村の生産高)が400~500石のところ、当時の富岡は百姓家数が92軒で村高は約336石。まずまずの生活水準であったことが分かる。
また、富岡には「漁師頭」という村役人がおり、漁民を代表して漁場の策定、出漁期や漁村について村落間の調整役を担っていたとの記述もあった。
 


漁師と百姓が多かった富岡村

 
また、村の地形については、「富岡は三方が山、一方が海に囲まれた孤島のような村。他村との往来は船もしくは峠道。物資の輸送ルートは海である。年貢米の輸送を始め海産物や薪の搬出は海路。こうして広い世界とつながってきた」とある。
 


江戸時代の海岸線。経塚のある山(青枠)
 

江戸時代の海岸線と現在の地図を重ねたもの

 
「天保の頃の村絵図によると、村の幹線道路は旧海岸通りと中通。寺社はいずれも丘陵地の中腹に建てられ、東南向きの山麓には民家と畑が集中し、平たん部の大部分を田が占めている」
 


平地は田(青枠)畑(緑枠)で占められている

 
「具体的には八幡宮の前から小学校通りにかけて、平地一帯はすべて田が占め、畑は傾斜地に集中し、狭い土地を有効利用している。江戸時代耕地として可能な土地はほとんど利用されていて、残る周辺部の起伏の多い土地は、山林や萱(かや・屋根材などに使用される植物)場となっている」とある。
 
先ほどの酒井さんのお話のとおり、平地の大部分が田で占められていたため、民家は山麓、寺社は丘陵地に建てられることになったようだ。 
 


経塚のある山(青枠)。1947(昭和22)年の航空写真

 
寺院と墓地に関しては「富岡の寺院の創建年代は16世紀半ば17世紀半ば、安土桃山以降江戸時代にかけてだ。郷土の歴史も安定期になり、村の鎮守を復興し寺院を建立して、先祖の菩提を伴う人たちが現れた。江戸時代の相模国における一村平均の寺院数は約3ヶ寺、富岡は85軒の檀家に6ヶ寺と家数に対して寺数が多い」
 
「檀家制度とは、寺院と武士、農民との接触が増えるにつれ、寺院を経済的に援助する家が現れた。江戸時代にはすべての人々にキリシタン禁制のために強要された。寺がその人の身分を請け負う。富岡でも一族ごとに特定の寺との間に寺檀関係を結び、今日まで続いている。1ヶ寺あたりの檀家数はきわめて少なく、墓地ははじめ、山裾とか丘の上とか人里から離れたところにあった。しかし檀家制度の成立とともに、寺に付随した墓所に変わった」とある。
 


経塚のある墓地(青枠)(昭和45年中区明細地図)

 
山麓や平地は民家や田畑で占められていたため、お墓は人の住まない山の上に作られた。さらに寺の数が村民の数に比例して多かったため、山に多くの墓地が点在する姿となったのだ。