かつて横浜にあった日本最大規模の貧民街といわれた「乞食谷戸」とは?
ココがキニナル!
横浜市にはかつて、乞食谷戸と呼ばれた大規模なスラムがあったようですが、どんな人がどんな暮らしをしていたのでしょうか。また、今ではどのような街になっているのでしょうか。(みうけんさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
明治のころ横浜にやって来た浮浪者がこの南太田周辺に住み、紙くず拾いを始めた。スラム街の状態になったため、公団などにより住居が整備された
ライター:小方 サダオ
文献に書かれた当時の谷戸の姿とは?
通称「乞食谷戸」と呼ばれたころのこの地域に関しての資料をいくつか入手した。まずは 1903(明治36)年に出版された、横浜の風俗や習慣を記した民俗学の本『横濱繁盛記』には次のように書かれている。
「南太田町の久保山のふもとあたりに数十棟の板葺の長屋が立ち並び、ここを乞食谷戸と呼んでいた。始まりは 1881(明治14)年、横浜に浮浪してきた、菅原虎吉(すがわら・とらきち)という者が紙くず拾いをはじめ、この山腹に住むようになった。そして同じ考えの人たちが集まり、人口が500人以上になった。それぞれの長屋の坪数などは、3畳から6畳くらいまでと不規則だが、十数件の長屋を持ち貸している、一ノ瀬栄吉や園田作蔵などの家主は、2間くらいの家に住んでいる」
『横濱繁盛記』横浜郷土研究会著
「紙くず拾いの人たちは、朝早くから出かけ、集めたものを問屋に売る。一日30~50銭の収入だが、人並みの暮らしはできているという。彼らは『宵越しの銭を持たない』という生き方ではあるが、貯蓄心もある。部落間の団結力は強く、不幸なものがあれば共同で精一杯助けるが、"お互い様"であるので、恩を売るようなことはしないのだ。そのため悪事を働く人は少なく、下賤(げせん)な世界ながら天国とでもいえるのだ」とある。
つづいてタウン誌「浜っ子」によると、「1893(明治26)年、斉藤芳次郎(さいとう・よしじろう、通称・三楽)という、侠気(きょうき)と稚気(ちき)、善と悪を合わせたような性格の、東京出身の理髪職人がいた。その彼が久保山に慈善堂(じぜんどう)という乞食を収容する長屋を建てた。
そして赤いビロード製の服と赤い帽子を被った奇抜な格好で、横浜中を歩き乞食を集めては『洗心』をスローガンに掲げさせ、乞食から足を洗わせるために、職人やくず拾いになるための仕事を世話するなどの慈善事業を続けた。そして自分自身の巨大な銅像を建設するという思いが半ばの時に亡くなる。『社会福祉の祖』とも称えられた」と記述されている。
「餓鬼大将」と称された三楽の姿を描いたチラシ
久保山に建つ新善光寺の境内に三楽の像がある
明治時代、巨大な銅像を建てるはずが、結局2メートル足らずの石像になってしまった
そしてこの地域は関東大震災の義捐金をもとに設立され、住宅供給を行う財団法人・同潤会によって、住宅の改良事業「南太田町不良住宅地区改良事業」が行われることとなる。
「南太田町不良住宅地区改良事業報告」によると、「1923(大正12)年の大震災においてこの地区は被害が大きかったため、住宅の改良や供給がなされた」とある。
「南太田町不良住宅地区改良事業報告」(財団法人・同潤会)
改良前の状態(下)と改良後(上)を比較した写真。上は同潤会アパート群だ
同潤会はアパートだけでなく住宅も供給した
一枚上の写真の左側と同じと思われる場所を発見した
同潤会アパートの間取り図
さらに「歴史学研究会」編集の『歴史学研究』には、「1901(明治34)年の4月にペスト(※編集部注:伝染病の一種)が発生したため、不潔な場所を少なくするためとの理由で『大清掃法』を施行し、貧民の集まるこの地域の消毒作業などを行った」と書かれている。
それでは稀有な運命をたどったこの地の今の状態はどうなっているのだろうか? 現地を訪れてみた。
谷戸の現在の様子は?
京浜急行線南太田駅徒歩2分。平戸桜木道路を「ドンドン商店街入り口」で曲り、久保山のふもとの蛇行する道を保土ケ谷方面に進む。道沿いには新興の住宅地が建ち並ぶが、時折昭和の残り香を漂わせる古い住宅を見かける。しかし写真にあるような”貧しい人たちが住んでいたバラック”といった感じのものは見当たらない。
左右二つの山の間が谷戸だ
平戸桜木道路にある「ドンドン商店街入り口」
山へと続く道と谷戸の道に分かれる
急に蛇行する谷戸の道
しかし裏通りにある入り組んだ細い道を奥へと進むと、新興の住宅に挟まれるような形で、物置と見間違いそうな小さな平屋建ての住宅を発見できる。これらがくず拾いの人達が住んでいた家なのだろうか?
物置と見間違いそうな平屋建て住宅
坂の途中に建つ長屋づくりの平屋建て住宅
奥行きのある作りになっている