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横浜独自の「市民酒場」。誕生した経緯や現状は?

ココがキニナル!

大衆酒場を「市民酒場」と称するのは横浜独特だそうですが、今やその看板を掲げるのは3軒しかないとのこと。市民酒場と称するようになった経緯や現状を調べてください。(雲葉@since1992さんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

戦時中に大衆酒場を整理統合するために神奈川県が音頭をとって作った。最盛期は200件近い店舗があったが、今はわずか数店舗も残すのみ。

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ライター:松野 孝司

市民酒場の誕生の影に戦争あり



縄のれん、煮込み、もつ焼き、チューハイ、ホッピー…。大衆酒場というとこんなイメージだろうか。最近では1000円程度でベロベロまで酔えることから“センベロ酒場”とも呼ばれ愛好者が増えている。

三省堂の「大辞林」で大衆酒場を調べてみると「値段・料理・雰囲気などが庶民的な、大衆向きの酒場」とある。しかし、市民酒場は掲載されていない。大衆酒場を「市民酒場」と呼ぶのは横浜市だけなのか。試しに東京・立川市と福岡県・博多市のタウンページで調べてみたところ市民酒場での登録はなかった。

知人のセンベロ愛好家に尋ねると「横浜中区史」にその由来が掲載されているというので、さっそく調べてみた。
 


1985(昭和60)年に中区区政50周年を記念して発行された


同書は1985(昭和60)年に中区区政50周年を記念して企画された区史で、開港から現代までの歴史を網羅した一冊だ。総ページ数はなんと1200ページもあり、持ち運ぶだけでも骨が折れそうだ。よくよく調べてみると電子書籍化されており中区のホームページからダウンロードできるという。

早速ダウンロードして調べてみると、あったあった。市民酒場は市民編の991ページ。第二次世界大戦の戦火が激しくなった頃の市民生活について書かれた項に記されていた。その一部を引用してみよう。
 


市民酒場は市民の生活を記した市民編の中に掲載されていた


「(前略)この頃の三級酒を売る大衆酒場で一日平均売上げは問屋からの配給によって一升二・三合(2.16~2.34リットル)程度の売上げでは商売にならないため、ヤミ値で横流しや自家消費をするという現状であったので、県は市民酒場の構想を立てたのであった」

つまりは、戦時下の大衆酒場を整理統合するために神奈川県が音頭をとって市民酒場を作ったというのだ。

さらに読み進むと、

(1)3店を1組にして3店の共同経営でひとつの市民酒場にしていた
(2)市内200店。1日の来客を100人として一人一合を販売していた
(3)売上げ量によって1~3部で分類され、1部の店には一経営者当り3升、2部は4升、3部は100本と配給される量が決まっていた

などと記されており、どうやら3店が共同経営することより、酒の横流しやヤミ売りができないようにするというのが狙いだったようだ。



昭和初期に酒屋として創業した「諸星」



歴史的な背景は分かったので、いよいよ市民酒場の今の姿を見に行くことに。お邪魔したのは新子安にある「市民酒蔵 諸星」。

同店は昭和の初めに角打ちとして創業。ご存知のない方に簡単に説明しておくと、角打ちとは、店頭で酒を飲める酒屋のことで、簡単な肴も出す店もある。
 


「市民酒蔵 諸星」と店頭に掲げられた大きな暖簾が目印
 

場所は新子安の駅を降りて京急線の踏み切りを超えた駅前にある


現在の店主は三代目の諸星道治さん。元々は建築会社に勤務していたが、「祖父の代から続いて家業をやめるのは惜しい」と会社を辞め家業を継いだという。
 


三代目ご主人の諸星道治さん


「うちは市民酒蔵と言っていますが、市民酒場というのは元々酒屋だった店がほとんどです。亡くなった父から聞いた話ですが、戦後、酒屋として営業するか、飲食店として営業するか二者択一を迫られて、多くの店は飲食店を選んだそうです」

前述したように市民酒場は最盛期には200店あったというが、現在はどうなんだろう。

「一般的に市民酒場と呼ばれているのは、ウチと戸部の“常盤木”、神奈川の“みのかん”ぐらいでしょうか」
 


戸部の“常盤木”
 

神奈川の“みのかん”


代替わりして居酒屋や料亭などになり市民酒場を名乗っていない店もあるし、廃業した店も多いという。お店同士の横のつながりもなく、市民酒場を名乗っている店の数まではご主人も把握できないそうだ。