ログイン/会員登録

こんにちは、ゲストさん。

ログイン/会員登録する

ログインすると、すべてのコンテンツを
ご利用いただけます。

YOKOHAMA FREEWAY 428 ルミネ横浜店B1正面入り口に4/20〜5/6期間限定オープン!
はまれぽ.com無料掲載について
イベントカレンダー2018年4月

Question みんなのキニナル投稿

投稿の中から、はまれぽ編集部もキニナルことを調査してお答えします!
ぜひ投稿してみてね。(200文字まで)

投稿はこちらから

みんなのキニナル

    自衛隊横須賀病院を取材して下さい。

    ホトリコさん

    2017年12月から約半年クローズしていた県立川崎図書館が2018年5月15日に溝の口で再スタートするのですが、公式サイトによれば「日曜日休館」だそうです。社会人の方も学生さんも日曜日はお休みの方が多...

    ヤマダさん

    戸塚のヤギさんについて

    kodama_koさん

もっと見る

あなたはどう思う?

過去のアンケート結果はこちら

2018年の横浜DeNAベイスターズの予想順位は?

今年は優勝でしょ!
昨シーズンより順位アップの2位!
今年も3位かな~
もしかしたら・・・4位
ま、まさかの5位・・・
そんなはずはないと思うけど。・・・6位
興味なし

投票せずに結果を閲覧

みんなのコメント

横浜人にインタビュー
教えて○○さん!
はまれぽの記事がアプリでサクサク読める!! はまれぽアプリリリース!!

横浜のココがキニナル!

江戸時代にあった横浜唯一の藩「六浦藩」。本拠地の六浦陣屋跡地には藩主のご子孫が住まわれていると聞きましたが今もお住まいですか?六浦陣屋跡を史跡公園等に整備するなどの計画は?(たちさんさんのキニナル)

はまれぽ調査結果

藩主のご子孫は、しばらくは「子爵」として、現在は一般市民として跡地の一画にお住まい。跡地は、住宅地になっていて史跡公園などにする計画は無い。

ライター:橘 アリー (2013年05月15日)

横浜で唯一の大名

江戸時代の横浜は、江戸に近いために、領地(土地)の多くは幕府や旗本のものであった。そんな中で、現在の金沢区や平塚市などに広がっていた「六浦藩」は、横浜で唯一の大名の領地「藩」であった。

徳川家直属の家臣で、石高(※)が1万石未満の領主のことを「旗本」、石高が1万石以上の領主を「大名」と呼ぶ。なお、「大名」も、徳川家との関係によって分かれていて、六浦藩の藩主は、関ヶ原の戦い(1600年)以前から徳川家の家臣であった、「譜代大名」と呼ばれる大名である。
※「石高」は、米の収穫量を示すもので、1石は大人が1人、1年間に消費する米の量のこと。

「六浦藩」について詳しく知るため、神奈川県立金沢文庫の資料で調べてみた。
 


神奈川県立金沢文庫


六浦藩の藩主は「米倉氏」。もとは甲斐の国に支配地を持つ武将で武田氏に仕えていたが、武田氏が1582(天正10)年に滅亡した後は徳川家に仕えるようになった。

この時の当主である永時(ながとき)は、徳川家康から相模国大住郡堀山下村(現在の秦野市)200石を与えられて旗本となった。二代目の昌純(まさずみ)も、旗本として幕府に仕えていた。
 


「六浦藩」について書かれている本


米倉氏が、旗本から大名になったのは、三代・昌尹(まさただ)の時である。昌尹は、徳川家五代将軍・綱吉の「側用人(そばようにん)」に登用されたことにより、旗本から大名になるという破格の昇進を遂げた。「側用人」とは、将軍の側近くに仕えて、将軍からの命令を老中に伝え、また、老中からの上申などを将軍に取り次ぐなどする江戸幕府の職名である。

側用人になった昌尹は数年に渡って石高の増加を受け、1696(元禄9)年には若年寄(わかどしより)に昇進。その後1699(元禄12)年にも石高の増加を受け、合計1万5000石の土地を支配する大名になった。大名となった昌尹は、下野国郡賀郡本皆川村(しもつけのくにつがぐんほんみながわむら・栃木県)に陣屋(※)を置いて、皆川藩の藩主となった。
※「陣屋」は、石高が3万石以下で城を持つことができない大名が、屋敷や政治の拠点を置いた場所のこと。

そして、1722(天保7)年に、本皆川村から、金沢の社家分村(しゃけぶんむら)に陣屋を移し、藩名が「金沢藩」に変わった。金沢藩は、後に「六浦藩」と改名される。1869(明治2)年に、北陸の金沢藩と区別するために付けられたようだ。以後、1871(明治4)年の廃藩置県で藩が廃止されるまで、六浦藩は存在していた。

金沢藩領地分布図を書き写すと下の図のようになる。
 


米倉氏の所領分布図「図説横浜の歴史」をもとに作成
<クリックで拡大>


大名に取り立てられた後の米倉氏の系図は下記のようになる。
 


「幕末を生きた武士」(発行:横浜市歴史博物館・財団法人 横浜市ふるさと歴史財団)、
「図説・横浜の歴史」(発行:横浜市市民局市民情報室広報センター)より


米倉氏の最後の藩主・昌言は、廃藩置県により藩主の職を解かれ、1884(明治17)年に「子爵(5万石未満の大名などに与えられた階級)」の位を与えられた。その後しばらくの間、米倉家は子爵であったが、途中から子爵として家督の届出を行わなくなり、一般市民となった。

今回は残念ながら取材させていただくことはできなかったが、現在も、陣屋があった土地の一部に、ご子孫が住まわれているようである。以前は、六浦藩を紹介するテレビ番組などでも取り上げられたこともあったようだ。



陣屋跡の様子は?

六浦陣屋跡は、本などの資料には、米倉陣屋跡という名称で書かれている。その所在地は、京浜急行「金沢八景駅」の南側の、三方を山に囲まれた谷戸(山や丘などが浸食されてできた谷状の地形)である。
 


右手の山のふもとが陣屋跡地(瀬戸神社前交差点に架かる陸橋の上から)


金沢区役所で、陣屋跡を史跡公園などにする計画はあるか聞いてみたが、現在の陣屋跡地は、個人の住宅地になっていて公園にできるような広い空き地もなく、そのような計画はないそうだ。

一方で、隣接している権現山のガケ崩れ対策が行われている。この地域では、金沢八景駅東口近辺を整備してシーサイドラインを接続する開発計画が行われており、それにあわせて陣屋跡地に接している権現山・御伊勢山の公園化計画(御伊勢山・権現山緑地整備事業)も進められているようだ。
 


金沢八景駅前(写真は2012年のもの)


これらの計画は、ともに平成28年度完成を目指しているという(参考:金沢八景駅東口地区土地区画整理事業のパンフレット都市再生整備計画 金沢八景駅周辺地区)。

陣屋跡地を案内していただく・・・つづきは次のページ≫
 

最初へ

前へ

1

2

次へ

最後へ

はまれぽアプリ
App Store
Google play

おすすめ記事