「浜の箱根」と呼ばれた港南区の大久保池跡には、いつまで池があった?
ココがキニナル!
大久保池跡って、いつまで池があったの?(ひろくんさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
正式名は「久保池」で江戸時代に灌漑(かんがい)用の溜め池として作られた。戦後その役目を終え、1960(昭和35)年、宅地造成の際に埋められた。
ライター:橘 アリー
「大久保池跡」とは、上大岡駅から徒歩10分ほどの港南区大久保2丁目にあるバス停の名前で、現在、周辺に池らしきものは見当たらない。
「大久保池跡」のバス停
まずは、港南区役所に、いつ頃まで池があったのか問い合わせてみた。
すると、大久保池については、「港南歴史協議会」という団体が編集・発行した「こうなんの歴史アルバム」に載っているので、そちらに問い合わせてみてください、とのこと。
「こうなんの歴史アルバム」(港南歴史協議会)
「港南歴史協議会」とは、「港南区の街の生い立ち・歴史」を維持・伝承することを目的として活動している特定非営利活動法人(ホームページ)。
ちなみに、本の表紙の写真は、その池沿いの歩道で撮影したものなのだそうだ。
さっそく連絡をして、お話を伺うことができた。
田んぼに水を引くための貯池だった!?
お話を聞かせていただき、現地も案内してくださった
(右が事務局の茅野眞一さん、中央は田代哲さん、左は長谷川敏雄さん)
「バス停の名前は『大久保池跡』となっていますが、池の名前は大久保池ではなく『久保池』が本当です」と茅野さん。
実は、現地にあった池の名前は「久保池」が正式らしい。
現在の大久保は、もとは久保村と呼ばれていた。1927(昭和2)年に横浜市に編入する際、当時の中区に久保町があったため、そこと区別するために「大」の字を付けて大久保となったのだという。
「久保池は、江戸時代、この周辺にきれいな水が湧いていたので、それを利用して田んぼに水を引くために作られた溜め池でした。現在の上大岡駅の周辺は、開発されるまでは田んぼだったんです」
上大岡近辺に水田があった頃の様子(出典:港南歴史協議会)
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もとは水田地帯だった上大岡周辺も、1930(昭和5)年に現在の京浜急行が上大岡に開通したことで、駅周辺の水田がほとんどなくなってしまった。
1929(昭和4)年頃、湘南土地住宅が計画した構想図(出店:港南歴史協議会)
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また、戦時中には久保池の周辺にあった料理店が学徒動員のための寮になっていたこともあり、戦後、この周辺に社員寮がたくさん建てられるようになったという。
このような土地開発にともない、水田がなくなったことで、久保池は灌漑(かんがい)用の溜め池としての役目を終えた。
1956(昭和31)年、横浜市撮影の上大岡近辺の航空写真(出典:港南歴史協議会)
1960(昭和35)年に、池の南西側の山斜面を崩して東芝の独身寮を建てる際、その土で久保池が埋められたそうだ。その後、現在のような住宅地になっていった。
久保池が埋められた経緯が分かったところで、現地を案内していただきながら、池があった頃の様子を伺った。