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ビールの香りが漂っていた!? 幻の駅「キリンビール前駅」の歴史を教えて!

ココがキニナル!

昭和20年ごろ、京浜急行の生麦~京急新子安間に開業した当初は「キリンビール前」という駅名から改名した「キリン」という駅があったが駅名を改めてから数年足らずで廃止。真相を教えて(ねこぼくさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

1932年に「キリンビール前駅」開業、戦時下「ビール」は贅沢品だったため1944年に「キリン駅」に改称。戦況の悪化により終戦前に営業休止、1949年に廃止

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ライター:ほしば あずみ

幻の駅ふたたび



かつて京浜急行の「生麦駅」と「京急新子安駅」の間に「キリンビール前駅」があり、「キリン駅」に改名して数年足らずで廃止となったらしい。
現在の生麦~京急新子安間は、走行時間約2分だ。その間にもう1駅存在した?

なんだか、以前調査した鶴見臨港鉄道「本山駅」を思いだす。現在のJR鶴見線で鶴見駅~国道駅という、走行時間2分という距離の間にあり、12年だけ営業した幻の駅だった。
 


今も駅が残っていれば例の「
パタパタ」上部もこんな感じ?(イメージ)


さっそく京浜急行電鉄株式会社の社史である「京浜急行百年史」をひもといてみると、以下の記述を発見。

1932(昭和7)年7月25日に「キリンビール前」として開業。1944(昭和19)年10月20日に「キリン」と改称。戦時中に営業を休止。1949(昭和24)年6月30日付で廃止。
 


社史「京浜急行百年史」、京急の前身の社史「京浜電気鉄道沿革史」と「京浜遊覧案内」


年表上は17年間存在したことになるが、「戦時中に営業を休止」というあいまいな表現がキニナル。
終戦を迎えるのは1945(昭和20)8月15日だから、「キリン駅」と改称してから1年たらずで駅は休止し、戦後も営業再開しないまま廃止に至ったということになる。だとすれば、営業は実質13年弱だ。
なお、「キリン駅」と改称されたのは、戦時下において「ビール」は贅沢品であり、呼称への使用を控えたためである。
 


キリンビール前駅の位置関係(Googleマップより)

 


生麦と京急とキリンの関係を歴史から眺める



明治時代から、山手天沼(現在の中区千代崎、諏訪町付近)にあった麒麟麦酒(キリンビール)のビール製造工場は、1923(大正12)年の関東大震災で倒壊。生麦の埋立地に移転したという経緯がある(参考:フランス山階段脇にある謎のトンネルはいったい何?)。
 


1926(大正15)年6月に発行された京浜電鉄ニュースより(横浜中央図書館所蔵)
 

生麦周辺の拡大


今でこそ埋立地帯で、キリンビール工場のイメージがある生麦周辺だが、京浜電気鉄道(京浜急行電鉄の前身)が生麦駅を開業した1900(明治33)年当時は、生麦海岸が広がる風光明媚な地だった。

1910(明治43)年に京浜電気鉄道が発行した「京浜遊覧案内」は当時、自然主義派の作品『蒲団』などで知られる田山花袋(かたい)と並び称せられていた紀行文家、遅塚麗水(ちづかれいすい)の書いたもの。沿線の観光案内であると同時に京浜地帯への移住も勧誘する、いわばガイドブックの『るるぶ』とライフスタイルマガジン『湘南スタイル』を合わせたような紀行文である。
 


『京浜遊覧案内/遅塚麗水編』(横浜中央図書館所蔵)


生麦停留所の項は「扶疎(ふそ)の松並木と参差(しんし)の漁荘とは、在りし昔の海道の姿をここに留めたり・・・(訳:松並木の茂るさまと趣ある漁師宿が点在する様子が、昔ながらの海辺の暮らしをしのばせる)」と格調高く書き起こされる。

京浜電気鉄道は、「京浜地主協会」を設立して、沿線開発を目指していた。
空気がきれいで魚介が美味しいと京浜地帯への移住を勧め、協会の仲介で移住すると運賃割引などの優待があるとしている。
生麦駅に隣接する約4万9600平方メートルは、1914(大正3)年5月から売り出された「初の分譲地」だった。
 


「京浜急行百年史」より、分譲地「生麦住宅」の区画図。海岸線が迫っている
 

Googleマップに重ねると、区画の名残が現存しているのがわかる(Googleマップより)


現在は民家やマンションが密集し往時の面影はないが、「生麦住宅」は、京浜電気鉄道が手がけた沿線開発事業の先駆けとして成功をおさめた。
同時期に、生麦の遠浅の海も埋立て事業が進められていた。

1807(明治3)年から大正年間にかけて、失敗や権利の譲渡を繰り返しながら、生麦は順次埋め立てられていった。
『なまむぎ今は昔(1993年/230クラブ新聞社刊)』によると、キリンビール工場のある埋立地のあたり一帯は、「戸沢シンケ」と呼ばれていたという。「戸沢」は人名と思われるが不詳、「シンケ」は「新開地」のことであろうとされている。新たに埋め立てられたところという意味だ。
 


『なまむぎ今は昔』より、生麦浦の埋立の様子