日枝神社例大祭の神輿渡御、人柱の鎮魂のためって本当!?
ココがキニナル!
日枝神社例大祭の神輿渡御は、もともと昔の埋立地に埋められた『人柱』の鎮魂のために行われるものだったという話を聞きましたが、実際に人柱が埋められたと言う話は本当なのでしょうか?(甘党猿さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
人柱の事実は確認できませんでした。例祭の神輿渡御は、秋の収穫、一年の無事を神に感謝するために行われています。
ライター:ほしば あずみ
関外総鎮守、お三の宮日枝神社(南区山王町)。
その秋祭りである例大祭は横浜市内屈指の規模を誇る。「千貫神輿」という巨大な神輿が小型トレーラーで牽引されて伊勢佐木町界隈、一帯を練り歩く神輿渡御(みこしとぎょ)は圧巻だ。
周囲は交通規制がかけられる。昔は牛が牽いていたそうだ
この神輿渡御が人柱の鎮魂のために行われている? …おだやかでない話だ。
人柱とは、橋や堤防の工事の際に生贄(いけにえ)として人を生きたまま埋めるという伝説で、史実はともかく日本のみならず世界各地に伝承がある。
「かながわのまつり50選」にも選ばれているこの祭りに、何か秘密が隠されているのだろうか。
その謎は、どうやら神社の由来にも関係しているようだ。
吉田新田と日枝神社
以前、はまれぽで取り上げた「横浜って、そもそもどうして「横浜」って名前なんでしょう?」というキニナルで、関内や伊勢佐木町周辺はもともと釣鐘状だった入海を埋め立てられた土地である事を紹介した。
//hamarepo.com/story.php?story_id=73
釣鐘状の入海だった1600年代の横浜の様子
その際、こんな一文が。
「ちなみに、この入海が埋め立てられたのは江戸時代のことなのだが、それはまた別の機会にご紹介しよう。」
ここに、とうとうその機会が訪れたようである。
現在神社のあるあたりまで入海となっていたこの地を、幕府の許可を得て干拓したのが攝津出身の江戸で石材木材商を営んでいたのは吉田勘兵衛という人だった。
干拓事業は明暦二(1656)年からおよそ11年の歳月をかけた難工事であったが、埋め立てでうまれた新田は「吉田新田」と呼ばれ、横浜発展の礎となったとされている。
日枝神社はこの新田の鎮守として寛文十三(1673)年、江戸の山王社(現在の赤坂日枝神社)から分祀(ぶんし)、勧進(かんじん)されたのだ。
例祭の渡御コースは干拓地の中をぐるりと巡っている
日枝神社の総本宮は比叡山の麓にある日吉大社で、比叡山延暦寺の守護神として祀られた。
「日枝、日吉」とは「比叡山」の事なのだ。
神仏習合だった当事、神は仏の仮の姿であるという考えがあり、日吉の神は仏教では「山王権現」と呼ばれた。全国の日枝神社や日吉神社も、それにならい山王社、山王さんなどと呼ばれる。
お三の宮日枝神社のある地名が山王町なのはそのためだ。
お三の宮は、「さんのう」が転訛して「さんのうのお宮」→「お三の宮」になったといわれている。
だがその一方、「お三」という女性を祀ったから「お三の宮」なのだという説もある。
そしてそのお三こそが、人柱になった女性だというのだ。