横浜の古道を歩く 吉田道その2 ―鎌倉道中道編―
ココがキニナル!
市内に残る「古道」を調べていただけませんか?「えっ!普段歩くこの道が?」「こんな崖っぷちの道が?」など。家の裏の小道が昔は重要な街道だったとか、凄く浪漫があります。(よこはまうまれさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
江戸時代、鎌倉への近道観光ルートだった「吉田道」。その後編は中世に東国武士たちによってつくられた鎌倉道のひとつ、「中道」と合流。そしてついに市境を越え、現代の鎌倉観光の人気エリアへ突入する。
ライター:結城靖博
新橋を越え、「いざ鎌倉へ!」
前回の旅は「いたち川」の上に架かる「新橋(にいはし)」までで終わった。そしてここは、吉田道(よしだみち)と「鎌倉道中道(かまくらみちなかつみち)」の合流点であった。
新橋の手前にある交差点から進行方向を望む
橋を渡った先に吉田道がさらに続く。そしてその道は、イコール鎌倉道中道でもある。また、写真手前の左へカーブする先は、吉田道と分岐して北上する鎌倉道中道だ。
鎌倉時代、東国の武士たちが「いざ鎌倉へ!」と馳せ参じた鎌倉道。中道はその「上・中・下」3本あった主要道のひとつだった。
いっぽう鎌倉武士たちは、東国へ向かって「いざ出立!」と、兜の尾を締めてこの川を渡ったという。
「いでたち」から「いたち」に転訛した「いたち川」(「㹨川」「鼬川」とも書く)
ここまで吉田道を南下してきた筆者はといえば、当然ここは「いざ鎌倉へ!」だ。
というわけで、新橋を渡る
橋を渡るとすぐに大きな歩道橋の架かる交差点が見えてきた
環状4号線と交差する笠間交差点だ。交通量が多い!
歩道橋の上から進行方向を望む
斜めに交差する環状4号線に比べて、この先進むべき道はずいぶんと狭い。
にもかかわらず車の数は相変わらず多い
しかし排気ガスに耐えつつしばらく進むと、左手に古道にふさわしい史跡を発見
上部に不動像が据えられた道標だ
白塗りが一部剥げていて読みづらいが、「今泉村不動江之道」と書かれている。
「今泉村不動」とは、ここから南東方向に直線距離にして約3km先にある鎌倉・称名寺(しょうみょうじ)の今泉(いまいずみ)不動尊のことだ。道標の造立は1710(宝永7)年。
道標のすぐ先に法安寺(ほうあんじ)への参道があった
ただこの寺院は、門前に関係者以外進入禁止と掲げられていたのでスルー。
数分ほど歩くと、今度は右手に、また素敵な光景を見つける
路傍に整然と並ぶ4基の庚申塔と1体の石仏(左端)
「笠間の庚申塔」と呼ばれている。江戸時代、笠間は鎌倉観光の旅人たちの宿場町として栄えた。魔除け・厄除けの意味を持つ庚申塔や石仏が多いのはそのためらしい。
庚申塔群の先をまた数分進むと、左手に「青木神社」の表参道入口がある
笠間の総鎮守である青木神社は、1335(建武2)年建立の古社だ。「これは寄らないわけにはいかない」と、左折する。とはいえ、まっすぐな参道を進むと、その先に長~い高~い急階段が待ち構えていた。
正直、一瞬上るのをためらう
が、気合を入れ直して前進。
すると階段途中に段数表示があり、「頑張れ」と励ましてくれて
上りきると「御苦労さま」とねぎらってくれた
優しい神社である。
社殿も古社にふさわしい風格が漂う
ただ、古道と関連する史跡は特に見つからなかったので、参拝後しばし休んでから、また長い階段を下る。
古道に戻って数十メートル進むと青木神社入口交差点がある
吉田道はここをさらに直進するのだが、交差点を左折したところに数基の石塔があると事前資料に書かれていたので左に曲る。
すると1分も経たないうちに道路の左脇に、少々悲しい状況の石塔3基を発見。
そこはゴミ集積所の横。危うく見過ごすところだった
とはいえ中央の石塔正面には、「今泉不動明王道 是ヨリ一里」と刻まれている。やはり称名寺へ至る道標だった。
石塔を確認すると、すぐに青木神社入口交差点に戻る。実はこの交差点は、ちょっと重要なポイントなのだ。なぜならここが横浜市と鎌倉市の市境だからだ。
交差点は「くの字」の市境界線上の角に位置する(© OpenStreetMap contributors)
この先へ足を踏み入れると、「横浜市限定」というこれまでの古道シリーズのルールを破ることになる。
だが吉田道の場合、前回記事の冒頭で述べた通り、この先終点まではそう遠くない。「せっかくだから」という単純な理由で、ついに今回、境界線突破の道を選ぶことにした。
新橋からここまでの距離は、わずか700メートル程度。徒歩10分とかからない。下のマップの赤いラインがその行程だ。
(© OpenStreetMap contributors)
大船の市街地を縦断する
「青木神社入口交差点で市境を越える」と言っても、正確には、しばらくの間吉田道は市の境界線上を進むことになる。
交差点から先、道路の右手は横浜市栄区、左手は鎌倉市だ
とはいえ、それはせいぜい100メートルほどの区間。
最初に現れる信号、資生堂前交差点の手前辺りで市境界線は写真の右方向へそれる
つまりこの辺りから先は、完全に鎌倉市だ。
そして100メートル足らずで次の信号、大船郵便局前交差点に至る
ここで郵便局手前の狭い道へと右折する。この道のりが正しい吉田道とは言い難い。大船駅前の都市開発によって、本来の古道はあいまい化しているからだ。とりあえず事前資料を頼りに、少しでもそれらしい道をたどるほかない。
郵便局横の脇道は細い水路をはさんで車道と遊歩道に分かれている
この水路は砂押川(すなおしがわ)。この先大船駅の地下を通って、柏尾川まで続く。
遊歩道は100メートル足らずで行く手をはばまれる
遊歩道の突き当たりを左横から見る
遊歩道の向こうに見える横縞模様は、「芝浦メカトロニクス」の大きなビルだ。
いっぽう、遊歩道側から砂押川越しに左手を見ると、
小さな橋が架かり、その先は郵便局の裏手に沿って道が通じている
実はかつて吉田道旧道は、この郵便局裏手の道から芝浦メカトロニクスの敷地内を通って、青木神社入口交差点付近までつながっていたらしい。
見方を変えれば、この郵便局裏手の道から旧道が再開するともいえる。なので、郵便局を左手に見ながら南下を続ける。
まもなく最初の信号に突き当たる。交差点名は不明
この交差点を右折すれば大船駅前付近にたどり着くが、筆者はさらに前進あるのみ。
その先は、途中右手にこんな看板と遭遇したりして
2つ目の名称不明の交差点と交差する
その交差点を越えるとグッと道幅が狭くなり
やがて3つ目の信号がある交差点に
ここは思案のしどころだ。素直に考えればその先にデニーズの看板が見える左カーブの太めの道を進むところだが、どうも古道っぽくないので…
左カーブ手前にある、さらに道幅が狭まるこの道を選択
そこは車がやっと1台通れる程度の道なのだが
やがてたどり着いた交差点の左角に、なにやら、ある
正面に回ると「離山富士見地蔵尊」の標柱
その昔、地形が3つの離れた山で形成されていたことから離山(はなれやま)と呼ばれ、そのうちの「地蔵山」がこの辺りにあったという。
標柱の左側面には「旧鎌倉街道中ノ道」の表記も
「奥の」ではなく「手前の細道」を選んで正解だったことが、ここで判明する。
「よっしゃ!」と思いつつ前方を見ると・・・
また道が二手に分かれている
ここでも直感を頼りに右側の道を選択。ちなみに、斜めに横切る太い道は「松竹離山通り」だ。「松竹」はあの映画会社の松竹。戦前から2000(平成12)年まで、この地には「松竹大船撮影所」があった。
右側の道に入ると、また住宅地の中の狭い道がほぼまっすぐ続く
途中、斜めに横切る道と交差するが、ここは迷わず直進
相変わらず狭い道が続くが、その途上昔ながらの赤いポストを発見
赤いポストを見ると、鎌倉らしさが濃くなってくる。鎌倉には、この旧型ポストが今も随所に残るからだ。
その先左手に白壁が続き
白壁をたどって左に折れると、成福寺(じょうふくじ)の山門が現れる
美しい茅葺(かやぶき)の門だ。
成福寺は鎌倉唯一の浄土真宗のお寺だという
墓地には「寅さんシリーズ」の御前様、笠智衆(りゅう・ちしゅう)のお墓もある
が、今回はそれを探す時間的余裕もなく、成福寺をあとにする。
寺院の右斜め前方にはJR横須賀線の踏切が待っている
踏切を越えて100メートル足らずで、少し大きな通りに突き当たる
この道を左に曲がれば、一路鎌倉中心地である。
交差点の名前は「水堰橋(すいせきばし)」
この橋の名も「いたち川」同様、転訛したものだという。かつて鎌倉へ入る東国武士がここで隊列を整え勢ぞろいしたことから「せいしく」橋と呼ばれ、さらに「水堰(すいせき)」に転訛したとか。ホンマかいな? いくらなんでも訛りすぎな気もするが・・・
でも、橋のたもとには「せゐ志くはし」と書かれた石柱が建つ
また、その右横には1727(享保12)年造立の観音道標が鎮座する
この交差点は、かつて鎌倉から戸塚へ向かう道と藤沢へ向かう道の分岐点だったそうだ。
青木神社入口交差点から水堰橋までは約2km弱。徒歩30分足らずの距離だ。
下のマップの赤いラインがその行程。オレンジのラインは、もちろんおおむねの推定にすぎないが、消滅した旧道のルートだ。
(© OpenStreetMap contributors)
北鎌倉の代表的観光ルートへ
水堰橋交差点を鎌倉方面へ向かって左折
この地点では、この道はまだ県道302号線だ。しかし、ここから100メートルほど先にある小袋谷(こぶくろや)交差点で県道21号、通称「鎌倉街道」と合流し、その後は同街道として鎌倉の中心地へと続く。
小袋谷交差点。ここは平日でも渋滞が常態化している
この道をもうしばらく歩くと、沿道に名高い寺院が点在する鎌倉の代表的観光スポットのひとつ「山ノ内(やまのうち)」エリアだ。
だが、あくまで本稿は「吉田道」の古道歩きがテーマ。ただの鎌倉観光案内にならないように、普通の観光ガイドでは見落としがちな場所になるべく焦点を当てていきたい。
というわけで、まずは小袋谷交差点から数分歩いた先にあるこの脇道を左折
よく見ると、道の向こうに踏切がある。
この踏切の名前は「権兵衛踏切」。いかにも鎌倉っぽい
踏切を渡ったらすぐ右折し線路沿いの道を進む
写真左手の赤い洞窟門はいかにも歴史的な何やらっぽいが、実はジンギスカン料理店の入り口だ。さすが鎌倉。
線路沿いを200メートルほど歩くと、左手に参道らしき脇道が
青木神社を思い出しつつ、参道へ向かい階段を上る。
左右に九十九(つづら)折れする階段を上りきると鳥居が見える
ここは山ノ内の鎮守・八雲(やぐも)神社だ
足利公方を補佐した上杉氏が京・祇園社を勧請した社で、社殿は江戸末期の造立だ。
だが、ここで筆者が注目したいのは、境内右脇にあるこの場所だ
中央に埋まる石は「清明石」。今は結界に囲まれているが、この石を故意に踏めば足が悪くなり、知らずに踏めば丈夫になるとか。
日々生死と向き合う鎌倉武士は、一見旧時代のものと思える陰陽師(おんみょうし)の力に頼るところが大きかった。平安時代の陰陽師のスター「安倍晴明(あべのせいめい)」は、彼らにとって未だ特別な存在であり、今も鎌倉の各所にその痕跡を残す。
ちなみに八雲神社の「清明石」は、安倍晴明が厄除けの祈りを込めたものといわれ、元々別の場所に当ったものが、話せば長い数奇な運命を経て、現在この場所に安置されている。
鎌倉街道に戻って1分ほど歩くと、右手の電柱に「光照寺(こうしょうじ)」の案内板がある。
この寺院もぜひ見ておきたいものがあるので右折
途中小さな橋を渡って、さらに進むと
まもなく右手に光照寺の寺門が現れる
この寺院で見ておきたいのは、門をくぐってすぐ左脇にある小さな史跡。
・・・だったのだが、史跡と呼ぶには妙に真新しい
事前資料で見た写真とは相当印象が違う。もしかしたら、近年新しくしたのだろうか。
とはいえ、この石柱に書かれた「おしゃぶきさま」は、鎌倉時代の山ノ内を知るうえで重要な言葉なのだ。
「おしゃぶき」とは、「咳き込む」を意味する「しわぶく」が転訛した言葉だ。つまり「おしゃぶきさま」とは、「咳の神様」という意味。だがなぜ「咳」なのか?
それは、ここ山ノ内が鎌倉幕府の「北の関所」だったことに由来する。「関→咳」。民衆は「関」を「咳」に転訛して、ありがたいパワースポットに変えたのだ。
それにしても鎌倉って、やたらと転訛が多いなぁ。
また鎌倉街道に戻って数分歩くと、右手に「十王堂橋」と書かれた小さな橋の親柱がある
橋の周囲を見回すと左手は暗渠(あんきょ)だし、右手は雑草の茂みの中に細い用水路が見え隠れするばかり。
しかし、この場所を軽く見てはいけない。十王堂橋(じゅうおうどうばし)付近にこそ、前述した鎌倉幕府の北の関所があったからだ。今では、橋の名にその記憶を残すばかりだが。
十王堂橋を越えると、すぐ左手にJR北鎌倉駅が見える
ここまで来れば、当然メインの観光スポットは円覚寺(えんがくじ)だ。けれども、筆者がぜひチェックしておきたい場所は、ほかにある。
「そこ」は事前資料の地図では鎌倉街道をはさんで駅のすぐそばにあるはずなのだが、街道沿いには見つからなかった。
そこで駅の向かいに建つ交番右手の細い路地を入ってみる
すると古風な民家に突き当たり、路地は右に折れ
その先右手の民家の前に、目的のものを発見した
それは石を2、3個重ねただけの素朴な石塔だ
しかし、これは「おちゃぶきさま」と呼ばれ、古くから地元の人々に崇められてきた。光照寺の「おしゃぶきさま」と似た名称だが、やはりこれも「関→咳」と転訛して「咳の神様」とされている。台座に湯飲み茶碗があるが、風邪をひいたらお参りし、治ったらお礼にお茶を献じるという仕来りが、今も生きている。
コロナ禍のことでもあるし「おちゃぶきさま」にしっかり手を合わせてから、ふたたび鎌倉街道へ戻る。
北鎌倉駅の横には美しい円覚寺の白鷺池(びゃくろち)が控える
円覚寺開堂の日にこの池に縁起の良い白鷺が舞い降りたことから、その名が付いたという。
横須賀線の踏切を越えると、円覚寺の参道が続く
鎌倉五山第二位の名刹・円覚寺だ。が、ここは簡単に取材を許可してもらえるところではないので、本稿ではここまで。
北鎌倉駅を過ぎた辺りから少しずつ道はなだらかな上り坂になる。
数分歩くと、右手にまたお寺の参道らしきものが
ここは「縁切り寺」として知られる東慶寺(とうけいじ)だ
武家社会となり女性の地位が急速に低下した鎌倉時代の開山以来、明治に至るまで尼寺として虐げられた女性を救済してきた寺院だ。
自由に出入りできるので境内の中へ。写真正面は本堂
本堂内も開放されていて、本尊・釈迦如来坐像の神々しい姿を間近に拝することができる
境内には雑草が伸び放題の場所などもあるが
これは豊かでたくましい自然環境をつくり「大地再生」に取り組む意図的な処置だという。
また同寺院の墓地には、小林秀雄・高見順・鈴木大拙・和辻哲郎・西田幾多郎など、そうそうたる文人の墓がある。が、筆者は個人的理由から…
日本に太極拳を普及させた先駆者、楊名時(ようめいじ)師家の墓を詣でる
鎌倉街道へ戻りさらに先へ進むと、
また数分で、右手に寺院へ通じる道を発見
ここは鎌倉五山第四位の浄智寺(じょうちじ)だ。
参道に入ると、左手に「甘露ノ井(かんろのい)」がある
鎌倉十井(かまくらじゅっせい)のひとつで、不老不死の効能があるという伝説が残る。とはいえ今は道路工事で水脈を痛め、飲み水としては適さない。
甘露ノ井の先に「寶所在近」の扁額を掲げる美しい惣門(そうもん)が見える
浄智寺は、この山深い景観が魅力だ。
惣門をくぐるとまもなく立派な鐘楼門(しょうろうもん)が立ちはだかる
上層部に鐘楼が吊るされている唐様の鐘楼門は、鎌倉では珍しい様式だという。だが、この先やはり自由に出入りできないので、同寺院の取材もここまで。
とはいえ、境内で特に人気な江ノ島鎌倉七福神のひとつ「布袋尊(ほていそん)」は、ぜひ紹介しておきたい。
こちらは十数年前の鎌倉散歩で撮影した筆者のプライベート写真
布袋さまは寺院裏手の谷戸(やと)に安置されているのだが、とてもユーモラスなお姿だ。撫ぜるとご利益があると言われるまん丸のお腹は、黒光りしていた。
鎌倉街道に戻って進行方向を望むと、目の前は踏切
ここで古道はJR横須賀線と交差し、この先は線路の左手を進むことになる。このあとまだまだ寺社巡りが続くので、この辺で立ち寄ってきた場所を整理しておこう。
(© OpenStreetMap contributors)
上のマップの赤いラインが水堰橋からここまでの行程だ。紫のラインは寄り道ルート。
水堰橋からの距離は1.3kmほど。寄り道なしで歩けば15分ちょっとだ。まさかこの名所だらけの観光エリアで、寄り道しない人はいないと思うが。
終着点を目前にして、最高の古道スポットへ!
踏切を渡ってすぐ右手の歩道脇に、うっかりすると見落としそうな石碑を発見。
「安部清明大神」と刻されている
字体や石の様子からそれほど古いものとは思えないし、「安倍」ではなく「安部」となっているところも気になるが、ここに清明碑が建つのには、れっきとした理由がある。
源頼朝が鎌倉で最初に住んだ仮宅が、この辺りにあったという。そしてその館は、かつて安倍清明の護符を貼ったことで200年もの間一度も火災に遭わなかったとされる、山ノ内の有力者・首藤兼道(すどうのかねみち)の屋敷を移築したものだったのだ。
清明碑をあとにして数分歩くと、右手に味のある茅葺の山門が建つ寺院を現れる
ここ長寿寺(ちょうじゅじ)も足利尊氏の開基とされる歴史ある寺院だが、残念ながら山門は閉ざされていた。
長寿寺から100メートルも行かない右手に、今度は鳥居が見えてきた。
古色蒼然とした石段が印象的な、ここは「第六天社」
地域の氏神社であると同時に、建長寺(けんちょうじ)の鎮守神でもある。が、ここもまた鳥居が封鎖されている。門には「危険登るな」の文字も。確かに、石段を見るとわかる気がする。
また、ここにも安倍晴明碑があり、どうやら鳥居奥左側の石碑がそれらしいのだが、草木に覆われていて近づいてみても判然としない。
第六天社を鎮守神とする建長寺は、そこから目と鼻の先の左手だ
鎌倉五山第一位、臨済宗建長寺派の大本山は、今なお圧倒的な風格を漂わせている。「けんちん汁」の発祥地としても名高い同寺の境内は、円覚寺同様奥深く見どころも満載なのだが・・・
やっぱり簡単に取材はできないので、今回は総門まででおしまい
ここから覗くと重要文化財の三門は木々に隠れて屋根しか見えない(涙)。だがまあ、よかろう。なにせ今回は「吉田道踏破」が目的なのだから。
と割り切ってさらに先へ進むと、すぐまた右手に今度は円応寺(えんのうじ)が現れる
ここは、歴史の教科書でおなじみの鎌倉時代の仏師・運慶(うんけい)作といわれる重要文化財の閻魔(えんま)大王像で有名なお寺だ。
が、残念ながらここも門が閉ざされていた
円応寺の先、前方にはトンネルが見える
「巨福呂坂(こぶくろざか)トンネル」だ。かつて近くに「巨福呂坂切通し」があったことから、この名が付いた。写真右手の鉄格子は水道局の送水管路ずい道。
このトンネルの手前辺りを頂点にして、道は下り坂に変わる。
トンネルを抜けると、もう終着点も近い
右にカーブする道の左手に見える森の向こうは、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)だ。
カーブを曲がりきる手前左手に「二十五坊旧蹟」の碑が建つ
この辺りにかつて鶴岡に仕えた25人の僧侶たちの住居坊があった。こうした史跡から、明治の神仏分離令以前、鶴岡八幡宮が神社ではなく寺院だったことがわかる。
坂をほぼ下りきった辺りの左手に鶴岡八幡宮の「車祓所」が見える
ああ、いよいよ旅もほとんど終わってしまった・・・と、思うのはまだ早い。その前になんとしても見ておきたい場所があるのだ。
車祓所から数十メートル先に現れたこの右手の脇道
なんの表示もないが、また直感を働かせてこの道を入る。
分け入るとまもなく上り坂となり、やがて左手に古色濃厚な木造の鳥居と石段が
石段を上ると、そこにはさらに古色を帯びた鳥居と社殿があった
ここは「青梅聖天社(おうめしょうてんしゃ)」だ。「聖天」はインドに由来する神様で、日本に伝わると夫婦和合の神として崇敬された。
鎌倉時代、将軍がこの社の前の季節外れの青梅を食したところ、たちまち病が癒えたとの伝説を残す。
脇道に戻ってさらに坂を上ると、すぐ左手に次のような光景と出合う。
庚申塔や道祖神など、数えると台座だけの1基を含めて12基あった
まさにこの道こそ、かつての「巨福呂坂切通し」の残道だったのだ。
残念ながら石塔群の先数十メートルで、道は行き止まりとなる
だが、行き止まりの場所に建つ民家が刀剣砥ぎ師の家であることも、いかにもな風情だ。
この道は、鶴岡八幡宮のにぎわいのすぐそばに位置しながら、鎌倉の1000年近い歴史を「空気感」として今に伝える、「古道・吉田道」イチオシの寄り道ルートである。
鎌倉街道に戻ると、あとはもう旅のゴールへ向かうのみ
上の写真、まっすぐ進めば若者がひしめく小町通り。左にカーブした先は若宮大路(わかみやおおじ)の終着点、鶴岡八幡宮の「三の鳥居」だ。
筆者は左へ曲がって鶴岡八幡宮・三の鳥居でゴール!
むろんこの後、無事「吉田道踏破」を果たした感謝を込めて、本殿を参拝したことは言うまでもない。だが記事としては、ここでキリよく終わりとしよう。
古道と横須賀線が交差する踏切からゴールまでの道のりは約1.6km。ひたすら歩けば、ざっと20分ほどだ。下のマップの赤いラインがその行程。紫のラインは旧巨福呂坂切通しの残道である。
(© OpenStreetMap contributors)
そしてこれが本稿の全行程。約5.5km(© OpenStreetMap contributors)
さらにこれが戸塚の吉田橋から始まる吉田道の全行程だ。約11km弱。短いようで長い道のりだった
(© OpenStreetMap contributors)
取材を終えて
吉田道後編は鎌倉道中道をたどる旅となったが、同じ古道でも大船の市街地を縦断した前半と鎌倉観光エリアの県道21号線(鎌倉街道)沿いの後半とでは、ずいぶん様相が違っていただろう。
ただ、一般的な観光目的の北鎌倉散策なら、広大な敷地を持つ円覚寺や建長寺でたっぷりと時間を費やし、あじさい寺の名で知られる明月院(めいげついん)にだって立ち寄りたいところだ。
とはいえそれを敢えてしなかった今回の道中でも、裏道にひっそりたたずむ「おちゃぶきさま」や素通りしそうな「十王堂橋」、そして旧巨福呂坂切通し残道など、中世まで、否、安倍晴明も絡めれば平安時代までさかのぼる歴史の深さを垣間見る場所に数々遭遇できた。
そこはさすがに鎌倉である。
本稿が、普通の観光ガイドに頼らない「わたしだけの鎌倉」探訪の意欲を刺激する一助ともなってくれれば幸いだ。
ところで、旧巨福呂坂切通し残道を歩いているとき、途中の民家の庭先にいた初老の女性に「この先に古い神社がありますか?」と尋ねると、首をタテに振った後「ご苦労様です」とおっしゃっていただいたのが、とても印象的だった。
古き良き鎌倉人に出会った――そんな感覚に心を和まされた。
―終わり―
参考資料
『横浜の古道』横浜市教育委員会文化財課編集・発行(1982年3月刊)
『横浜の古道(資料編)』横浜市文化財総合調査会編集、横浜市教育委員会文化財課発行(1989年3月刊)
『改訂版 ステップ栄 歴史探検帳』本郷郷土史研究会編集、栄区役所総務部地域振興課発行(1994年11月刊)
『さかえkuさんぽ』横浜市栄区発行(2016年9月刊)
『中世東国史の中の 鎌倉古道』蜂矢敬啓著、高文堂出版社発行(1997年5月刊)
『横浜開港側面史』横浜貿易新報社編集・発行(1909年6月刊)
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よこはまうまれさん
2022年02月25日 13時20分
よこはまうまれです。今回も楽しく読ませていただきました。途中に出てくる離山の富士見地蔵は今は亡き祖父の家の前でした。デニーズ前の細道から横須賀線の線路に掛けての道は、まさに子供の頃従兄弟たちと遊んだ地域です!まさか古道だったなんて!あれから●十年してこんな形で再会するとは思いませんでした。感激です!
agostoさん
2022年02月23日 13時23分
なかなか面白かった。笠間十字路から鎌倉までのコースは、土地勘もあるところだが、、「巨福呂坂切通し」の残道があったとは知らなかった。歩いてみたい。