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もうひとつの東海道、「古代東海道」ってどこを通っていたの?

ココがキニナル!

古東海道(もしくは古代東海道)というのが瀬谷(もしくは町田市、大和市)にあったらしい。一般的に知られている東海道と何が違うのかきになる!(紀州の哲ちゃんさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

古代東海道は、律令制度の時代の“行政区画としての東海道を通る官道”を指す。一般的に知られる東海道は江戸時代に制定されたもの。

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ライター:橘 アリー

時代によって変化していった古代東海道のルート

律令制下では、馬の乗り継ぎシステムである「駅馬(はゆま)・伝馬(てんま)」という制度があった。これは、諸国の国府(国の中心地)と都を結ぶ道である駅路に、原則として30里(約16km※)ごとに、駅家(うまや)を設けるというものである。
※当時の1里は、およそ533.5mと推定されている

駅路は、その重要性によって大路(だいろ)・中路(ちゅうろ)・小路(しょうろ)に分けられていて、大路には20疋(匹)、中路には10疋、小路には5疋の駅馬が置かれていた(ちなみに、東海道では箱根駅伝が有名であるが、この制度が、現代のマラソンの駅伝という言葉の語源となっているようである)。
 


7世紀末から771(宝亀2)年の東国の駅路(「神奈川の東海道」より)


古代東海道は、年代によっていくつかのルートに分かれている。図で見ると下のようになる。前述の国府と駅家(駅)の位置が、古代東海道がどのようなルートを通っていたかを知る手がかりになるのだという。
 


図1:古代神奈川の駅路(
神奈川東海道ルネッサンス推進協議会のホームページより)
<クリックで拡大>


一番古い古代東海道のルートは下図の通り。この道は、771(宝亀2)年以前の正式な道であるようだ。図1中にあるピンクの■(1)~(3)は、この場所に国府があったとするそれぞれの説の場所を示す。ちなみに、現代の日本橋がある「武蔵」はもともと「七道」のうちの「東山道」に属していたが、771(宝亀2)年に「東海道」に編入された。
 


771(宝亀2)年以前のルート


足柄峠→坂本駅(南足柄市関本)→小田原市高田((2)足下国府説)→小総駅(小田原市国府津)→箕輪駅(推定地b・・・平塚市域)→平塚市四之宮((3)大住国府説)→某駅(藤沢?)→鎌倉郡衙→某駅(葉山?)→横須賀市走水→上総国


771(宝亀2)年からの正式なルートは、足柄峠から平塚市四之宮((3)大住国府説)までは771年までと一緒で、そこから奥州街道の方へ抜けていく道である。平安時代の中ごろまで正式なルートであったようだ。
 


771(宝亀2)年~平安時代中期のルート


足柄峠→坂本駅(南足柄市関本)→小田原市高田((2)足下国府説)→小総駅(小田原市国府津)→箕輪駅(推定地b・・・平塚市域)→平塚市四之宮((3)大住国府説)→浜田駅→夷参(いさま)駅→奥州古道→上野・下野


横浜市内を通っていたという「古代東海道」とは、さらにその後のルートのことを指す。これは平安時代中ごろからの正式なルートで、足柄峠から浜田駅までは前のルートと同じ、そこから矢倉沢街道(図1参照)を通って下総へ抜けていく道である。
 


平安時代中期以降の、横浜市を通過するルート


足柄峠→坂本駅(南足柄市関本)→小田原市高田((2)足下国府説)→小総駅(小田原市国府津)→箕輪駅(推定地b・・・平塚市域)→平塚市四之宮((3)大住国府説)→浜田駅→店屋(まちや)駅→都筑郡衙→小高駅→下総


この中で、店屋駅の辺りが現在の東名高速の町田インターの近辺で、都筑郡衙(ぐんが/郡の官人が政務を執った役所)のあたりが、東急田園都市線江田駅の南のあたり、現在でいう横浜市青葉区の荏田西周辺であるそうだ。