“寺尾”という地名が鶴見区と神奈川区にまたがっている理由は?
ココがキニナル!
鶴見区の東寺尾と神奈川区の西寺尾はどうして東と西に分かれ、別々の区になってしまっているのでしょうか?(リーフさん)/南寺尾が無い?どおして?又、起点は何処?(エル2さん)
はまれぽ調査結果!
お寺を起点に寺領を元にした町だった! 区政施行よりもはるか昔からある地名で、名前よりも旧村域を元に区界が引かれたため、2つの区をまたいでいる
ライター:田中 大輔
地名の由来に迫る
まずは、寺尾の名前の由来を調べてみよう。
今回は、『横浜の町名』の初版で原稿を書いた横浜地名研究会会長の桜井澄夫(さくらいすみお)さんに話を聞いた。
桜井さんは、「地名研究で“テラ”という音がお寺以外を指す例を思い付きません」と話す。なので、寺尾の寺は素直にお寺の意味と考えて差し支えないようだ。
また、「○○尾という地名は多くあり、山並みや山裾に見られるもの」ということで、つまりは尾根の尾というわけだ。
西寺尾の丘公園の頂上付近から。小高い土地は“尾”の特徴
「寺に続く尾根」だから寺尾と名付けられたと考えられるこの辺りの地名。
では、肝心のお寺とはどこを指すのだろうか。
1830(文政13)年に完成した『新編武蔵風土記稿』の西寺尾村の項には、村名の起こりはハッキリしないと前置きした上で、仙鶴山松蔭寺(しょういんじ)にあった古図によればかつて正統庵と呼ばれたこの寺院はもっと大きく、寺領(寺が所有する領域)も広かったはずだ、としている。
よって、この松蔭寺こそが寺尾の寺に当たると記されているのだ。
現在も東寺尾にある松蔭寺の山門。今は殊更に大きなお寺ではない
ただし、桜井さんは「現在の研究では松蔭寺が有力視されていますが、正統庵が松蔭寺であるかは異論もある。100%確定しているわけではありません」と言う。
それでも、いずれかのお寺にまつわる地名であると考えるのが自然なのだそうだ。
すでに解決!? 寺尾の起点と、南寺尾がない理由
実を言うと、ここまでの説明でキニナルにある質問に答えるだけの材料は出そろっている。ひとつずつ確認していこう。
まず、3つの寺尾の起点になる場所。
これは言わずもがな、現時点では松蔭寺と推測されている。実際、松蔭寺は東寺尾の西側にあり、位置関係も筋が通っているように見える。
ただし、桜井さんが言うように今はなくなってしまったり、よそへ移ったお寺が起点になっていた可能性もある。
松蔭寺の前で撮影。お寺も少し高い位置にある
続いて、南寺尾がない理由は、起点が必ずしも町域(当時の寺領)の中心になかったのではというものだ。
実は、『新編武蔵風土記稿』の馬場村の項によれば、かつては寺尾村というひとつの村で東西北の三村に分けたと書かれている。馬場村もそのときに作られたそうだから、以前は寺尾の一部だったのだろう。
かつては辺り一帯をまとめて「寺尾村」と呼んでいたようだ
当時の寺尾村と現在の町域は全く同じではないだろう。
ただ、現在の町域(≒かつての寺尾村)が寺領を元にしたのであれば、起点であるお寺の位置は動かしようがない。
その範囲も、例えば街道のこっち側からあそこの川まで、というような決め方ではなく、お寺の治めていたエリアということだから、範囲そのものに意味があったということだ。
つまり、南寺尾がないのは、たまたま寺領がお寺の南側に伸びていなかったからなのかもしれない。
現在の西寺尾は松蔭寺の南側にも回り込んでいて、南寺尾と言われても納得できる位置だ。
だが、西寺尾の西側にある松見町は1963(昭和38)年に西寺尾(当時の西寺尾町)の一部を含んで新設されている。つまり、それまでの西寺尾は今以上に西に広がっていて、西寺尾の名前にふさわしい町域となっていたのだ。
区制施行なんてつい最近。長い歴史を持つ町
最後に、寺尾が神奈川区と鶴見区にまたがっている理由について。
神奈川区も鶴見区も1927(昭和2)年の区制開始時から存在する区だから、横浜に初めて区界の線が引かれた時から2つの区にまたがっていることになる。
先ほどから『新編武蔵風土記稿』がたびたび登場していることからも分かる通り、区制が施行されるはるか前からこの地名は存在したのだ。
神奈川区と鶴見区の境。撮影場所は東寺尾で看板の向こうは西寺尾だ
馬場村の項に寺尾村が分裂した話があったが、同じ項に「正保の頃迄も當村は分らざりしに・・・」とあるので、正保年間(1645~1648年)には寺尾村として存在していたということが分かる。
また、現在の馬場3丁目辺りにはその昔、寺尾城というお城があったという。
信州の諏訪氏によって築城されたとされ、その時期は1436(永享8)年ごろと鶴見区のサイトにある。それが事実だとすれば、このときには寺尾という名前はあったということになり、中世まで遡ることができる。
さらに、松蔭寺から見つかったという古図は、建武元年とあるので1334年のもの。
この図に寺尾の地名があったとは書かれていないが、すでにその元になったお寺はあったことになるので、命名時期はさらに遡る可能性すらある。
今も住宅街にひっそりと建てられている城址の石碑
3つの寺尾村は1889(明治22)年に横浜市が設置された時点で橘樹郡に属し、東寺尾村が生見尾村(うみおむら)の、北寺尾村が旭村の、そして西寺尾村は子安村、白幡村との合併で誕生した子安村の大字となった。
1911(明治44)年には三村合併の子安村のうち、合併以前の旧・子安村のみが横浜市に編入し、旧・西寺尾村は旭村へ再編入。
その後、1927(昭和2)年、すなわち区制が施行された年に横浜市の一部となり、三村合併によって子安村の村域はすべて神奈川区に含まれることになったので、西寺尾だけが東、北と分かれて神奈川区の町になったという経緯を経ている。
区界を引くときに「同じ寺尾だから一緒にしよう」という発想よりも、旧村域を優先するという決定がなされたと考えられるわけだ。
取材を終えて
地名の由来や歴史を探ってみると、分かることは意外と多い。
寺尾の意味を知り、その寺がどこにあるのか考え、いつからある地名かを探る。
自分に縁のある町の歴史を知りたいと思ったら、有名な人物や事件とともに地名について調べてみると思いもよらない発見があるかもしれない。
地名の奥深さを改めて感じさせられる取材であった。
―終わり―
Danielさん
2016年01月24日 16時35分
色々とすっきりとしました。ちなみに馬場町ではなく馬場です。
ポスポスさん
2014年11月25日 16時16分
寺尾に関しては私も気になっていました。なるほど~とおもしろく読ませていただきました。ムクスケさんもおっしゃるように東寺尾には北台、中台、東台とあるのも気になっています。
ムクスケさん
2013年09月26日 17時04分
東寺尾には、さらに東寺尾北台、中台、東台があります。なぜこの3町だけ東寺尾○丁目に連ならなかったのでしょうか。これもまた不思議・・・。以前、東台に住んでいたことがあるので疑問に思っていました。今回のキニナルでの解明に含まれるともっと面白かったのにと思いました。