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阪東橋の道路脇、橋がないのに3つも橋名がつめこまれた謎の石柱は何?

ココがキニナル!

横浜銀行阪東橋支店すぐそばの公園「富士見川公園」。その公園を横断する道路があってそこある石柱に「万治橋・南吉田橋・駿河橋」と表記されています。これはキニナリます!(takedaiwaさん)

はまれぽ調査結果!

以前は運河だった富士見川公園は、万治橋・南吉田橋・駿河橋という橋が架かっていた。公園を造る時に名残として石柱に名前が残されたようだ。

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ライター:橘 アリー

以前は運河だった



最初に、富士見川公園の場所が、以前はどんな場所だったのかについて。

この地域に関する資料によると、公園が造られる前は、この場所は新富士見川という運河だった。元々、この場所は江戸時代初期までは入海(いりうみ)で、1667(寛文7)年に完成した吉田新田の一部が新富士見川である。

 

新富士見川は青線のように、公園と道路を貫いて流れていた
 

新富士見川は、吉田新田の中に造られた運河の一つだが、過去記事の「根岸線桜木町と石川町界隈はかつて川だった!?」にもあるように、この運河の掘削工事を行ったのは、伏島近蔵(ふせじま・ちかぞう)という人物。

 

伏島近蔵(『伏島近蔵一代記』より)
 

伏島近蔵について簡単に触れておくと、1837(天保8)年に群馬県で生まれ、19歳で父を亡くし、また、兄の商売が失敗して困窮した生活を送っていた。そして、1865(慶応元)年に横浜に移り住み、英一番館(えいいちばんかん:江戸時代後期に作られた商社)に勤務して蚕種(さんしゅ・蚕の卵)の売り込みで大きな利益を上げた。

その後、独立して商売は順調だったが、イタリアへ渡って、蚕種の直接販売を行うが失敗し多額の負債を抱える。帰国後、埋め立てのための土砂採掘や宅地開発を見込んだ不動産事業で成功し、関外地区の多くの公共土木工事を手掛けるようになる。

そして、1896(明治29)年に、私費を投じて新吉田川を完成した。その翌年、それまであった富士見川を埋め立て、新富士見川の開削を行い、新富士見川は1898(明治31)年に完成したようだ。

 

新吉田川・富士見川・新富士見川の位置関係(『川の町・横浜』より)
 

これらの運河の掘削と埋め立ては、地域貢献のために伏島近蔵の提案により行われた。もともと、水田利用に造られた吉田新田だが、横浜開港当時になると水運としての需要が高まった。そこで、埋立地内の河川の流れや、水質の悪い水の停滞を解消し、物資の輸送など水上交通の便を図るために有益な水路を設けた。

そして、同時期に、新吉田川や新富士見川などに11の橋が架けられたという記録があり、新富士見川が完成した際に「万治橋」「南吉田橋」「駿河橋」が架けられたと思われる。

 

駿河橋から見た、新富士見川(『伏島近蔵一代記』より)
 

なお、新富士見川近辺には、建物建設などに必要な材木店が軒をつらねていたようだ。

 

材木のイメージ(フリー画像より)
 

明治時代から大正時代にかけて市街地が広がっていった横浜は、横浜開港当時には大岡川沿いに幾つかの材木店があった。新富士見川が出来たことにより、海から掘割川を上り、新吉田川から新富士見川を通って大岡川へと続く水運が開けた。そのため、新富士見川沿いにも材木店が出来たようである。

 

1923(大正12)年の地図。根岸湾(左)からの水運ルート例(『川と海から郷土を考える』より)
 

戦前には、東京の木場や千葉県から、筏(いかだ)に丸太を乗せて運んでいたそうである。

 

「駿河橋」から見た新吉田川(『伏島近蔵一代記』より)
 

伏島近蔵は、横浜の発展に大きく貢献したことにより1940(昭和15)年に「駿河橋」横に、記念碑が建てられた。

 

赤丸が記念碑。中央の橋は「駿河橋」(1961〈昭和36〉年の写真『伏島近蔵翁』より)
 

ちなみに、写真の人物は『伏島近蔵翁』の著者である加藤一太郎氏。

 

現在の記念碑は南区の日枝神社の境内に設置されている
 

その後、「万治橋・南吉田橋・駿河橋」は、関東大震災により焼失し、その後、震災復興橋として架け替えられた。



復興で架けられた橋の様子は?



震災復興橋については、横浜市橋梁課でお話を伺った。

 

地図を開きながら、ご説明いただく
 

写真左から橋梁課の三浦真紀(みうら・まき)さん、守谷俊輔(もりや・しゅんすけ)さん、飯塚陽生(いいづか・ようせい)さん。資料をもとにお伺いしたところ「万治橋・南吉田橋・駿河橋」は、共に震災復興橋として架け替えられたが、「万治橋」と「南吉田橋」は横浜市が施工し、「駿河橋」は国が施工したとのこと。

 

関東大震災からの復興の様子が記されている『横浜復興誌』
 

「駿河橋」は、新吉田川と新富士見川の間に架かっていた橋だったが、幹線道路上の橋でもあったので国が施工したそうだ。

 

赤丸が駿河橋(『1966(昭和41)年の南区明細地図』)
 

赤丸の右側が新吉田川で、左側が新富士見川。地図の川名が富士見川となっているが、新富士見川の間違いのようである。

「駿河橋」は、起工が1925(大正14)年8月で竣工が1927(昭和2)年5月。橋の種類は、架け替え前も鉄製で、版桁橋(ばんげたきょう:横に架けた鉄の桁で橋を支える構造)である。なお、橋名の由来については、資料として残っていないので残念ながら不明。

 

戦後の「駿河橋」の様子。傾斜がなくまっすぐな橋であった(提供:橋梁課)
 

震災復興橋は、モダンなアール・デコ調の親柱が特徴であるが、「駿河橋」の親柱がどのような様子だったのかは『横浜復興誌』に記載が無く不明である。

次に「南吉田橋」は、起工が1927(昭和2)年2月で竣工が同年10月。橋の種類は以前は木製であったが、架け替えたものは版桁橋である。

 

戦後の「南吉田橋」の様子。この橋も傾斜のない真っ直ぐな橋(提供:橋梁課)
 

橋名は、隣接する南吉田町という町名に由来しているようだ。

 

こちらが「南吉田橋」の親柱のデザイン(『横浜復興誌』より)
 

続いて「万治橋」。『震災復興誌』では「萬治橋」という漢字になっており、起工が1927(昭和2)年11月で、竣工が1928(昭和3)年7月。
橋の種類は、「南吉田橋」と同じで、以前は木製であったが、架け替え後は版桁橋である。

 

戦後の「萬治橋」の様子(提供:橋梁課)
 

「萬治橋」も親柱に特徴がある。

 

こちらが「萬治橋」の親柱のデザイン(『横浜復興誌』より)
 

なお、戦後の「萬治橋」の写真では、上の部分の灯具が見当たらない。これは、戦中戦後と年月が経って行く中で、何らかの事情で無くなったと思われる。

3つの橋が架かっていた新富士見川は、地上の交通網が発達するまで、重要な水上交通網としての役割を担っており、そこに架かる橋も人々の生活に欠かせない存在であった。しかし、横浜市営地下鉄工事で1972(昭和47)年に新吉田川が埋め立てられたのに続いて、翌年1973(昭和48)年に「新富士見川」も埋め立てられ、跡地は「富士見川公園」となった。

運河は埋め立てられ、水運を担っていた役割はなくなったが、地下に鉄道を通し、地上を公園とすることによって、新しい町の設備として生まれ変わった。

 

造られた当時の「富士見川公園」。路面に石が敷かれているのが分かる(『中区史』より)
 

『中区史』によると、1974(昭和49)年の造られた当時「富士見川公園」は、園内には770本の樹木が植えられ、市電の敷石500枚が使われていたようだ。1994(平成6)年に改修工事が行われ、現在は樹木も少なく、市電の敷石も見当たらない。道路脇に「万治橋・南吉田橋・駿河橋」の名前が記された石柱のみが建っている。

最後に、なぜ公園にこの石柱がたっているのか、公園の管理を行っている中土木事務所に問い合わせたが、いつ石柱が建てられたのか、理由など、資料が残っていないので分からないとのことだった。

そこで、地域の情報に詳しい「南吉田まちづくり委員会」の和田さんに聞いてみたが、やはり、いつ、この石柱が建てられたのかは分からないそうである。しかし、石柱に使われている石は、「万治橋・南吉田橋・駿河橋」のいづれかの橋の親柱に使われていた石であり、ここに橋があった名残として建てられた、と伝え聞いているそうだ。



取材を終えて



今回の取材で、橋があった名残として石柱に「万治橋」「南吉田橋」「駿河橋」という橋名が残されたようだと分かった。

これらの橋か架かっていた新富士見川には、“富士”という文字が使われている。
現在、この平坦な場所から富士山を眺めることはできないが、川が造られた当時は、視界を遮る高い建物ものもなく、富士山が見えたようである。


―終わり―


参考文献
『川の町・横浜』
『中区史』
『横浜復興誌』
『かながわの橋』
『横浜の橋』
『橋の空間演出』
『かながわの川』
『大明治人伏島近蔵』
『伏島近蔵翁』
『伏島近蔵一代記』
『川と海から郷土を考える』
 
 

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  • 懇切丁寧な取材、ありがとうございました!街の風景に溶け込んだ何気ない石柱に、いくつもの想いが込められていた…そのヒストリーに驚きました。「いつ石柱が建てられたのか、理由など、資料が残っていない」とのこと。ほかの名前由来記事などでも、いくら調べても結局は分からない、そういったケースが多々散見されてますね。建てられた、あるいは名前をつけた当初の経緯や想いなどが、資料や口伝としても残っていかない…なんだか残念でもったいない気が改めてしました。でも、その時間の経過とともに埋もれつつあった「街中片隅歴史ストーリー」を、今回のようなしっかりとした調査で少しでも多くの方々が触れられた、その契機になったものかとも思います。有難うございました。

  • 横浜橋の記事に続いて興味深い内容でした。国道16号線上の阪東橋公園付近の信号機には「駿河橋」の名が付いていますが、この記事を読んでその由来が判りました

  • 昔は川が多くあった地域だったんですね。今思うと、あらためて、すごいなと思いました!

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