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神奈川区六角橋のスーパー駐車場にある、2体の七福神の正体とは?

神奈川区六角橋のスーパー駐車場にある、2体の七福神の正体とは?

ココがキニナル!

六角橋の業務スーパーの駐車場一角に、大きな布袋様と福禄寿の石像がある。この石像、業務スーパーが出来る前、かなり古くからあったそうです。誰が何のために設置したの?(ねこぼくさん)

はまれぽ調査結果!

六角橋の業務スーパーの敷地には元々銭湯があった! そして、布袋尊と福禄寿は、かつての銭湯の経営者が商売繁盛を祈念して、銭湯の入り口に設置したものだった。

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ライター:結城靖博

どうしてここに石像が置かれているのか?


 
当然ながらのこの疑問、まずは業務スーパーさんに訊くのが早かろうと、さっそく店内に突撃。すると折よく店長と遭遇したので、2体の石像について尋ねてみた。
だが答えは「あれについては、この土地を管理している『サンゴ地所』さんに訊いてください。我々にはわかりません」とのこと。
 


「サンゴ地所」の連絡先はありがたいことにビルの外壁にあった

 
「サンゴ地所」には、後日あらためて取材を申し込むこととして、もうちょっと周辺の取材を続ける。
 
 
 

近隣の花屋さんから貴重な証言を得る


 
業務スーパーと同じ通り沿いに1軒の花屋さんがあった。その店先に、お店の方らしき男性がいたので声をかけてみた。するとここで、とても貴重な証言を得ることになる。
 


花屋さんの名前は「はなさわ」。店内からは、かぐわしい花の香りが漂う

 
やはり男性はこの店の店主だった。お名前は澤(さわ)さん、お年は63歳。ここで生まれ育った方で、代々続く店はもう80年ぐらい営業しているという。
澤さんは語る。
「実は昔、業務スーパーがあったところは『藤の湯(ふじのゆ)』という銭湯だったんです。業務スーパーになったのは10年ぐらい前。その前は確か『スーパーフレッシュ』とかいう名前の別のスーパーでした。それができた時に、銭湯から今の建物に建て替えられたと記憶しています。で、あの2つの石像は銭湯だったころ、入り口の前に置かれていたんですよ。ところがビルが建ったので、今の位置に移されたんです」
いつごろから銭湯の入り口にあったのか伺ったところ、
「そうね、少なくとも60年前まではすでにあった。つまり、私が物心ついたころには、しょっちゅうあの石像によじ登って遊んでいましたから。この辺の子どもたちはみんなそうしてましたよ(笑)」
澤さんは、わざわざ銭湯の入り口と石像の位置関係まで図に描いて教えてくれた。
 


澤さんが描いてくれた図を清書した

 
全然清書になっていないが、まあ、だいたいこんな感じ。
銭湯は通りに対して斜めに建っていたのだという。なぜかと訊いたら、「たぶん扉を開けると番台があるから、それが通りから見えないようにするためじゃないの?」とのこと。

ありがたい証言をいただいた。ただ、石像がいつからあるのか、なんのために作られたのか、それはわからなかった。また、「藤の湯」さんのかつての経営者の連絡先も不明とのこと。

だが「かつてそこに銭湯があり、その銭湯の入り口に石像が置かれていた」という記憶は、その後やはり同じ通り沿いの、いかにも昔からありそうな石油・プロパン・燃料屋さんの「石井商店」の方からも確認できた。
 


店先の鉢植えに下町風情を感じる

 
取材に応じてくれた男性はまだ40歳前後と見受けられる方だったが、子どものころ、30年ぐらい前にはあそこに確かに銭湯があり、入り口に大きな石像が2つあったと証言してくれた。
 
 
 

「藤の湯」の謎を追うべく「親松の湯」を訪ねる


 
かつてこの白楽周辺には、6軒ほど銭湯があった。だが、いまやたった1軒しか残っていない。その銭湯の名前は「親松の湯(しんまつのゆ)」。以前、はまれぽでこの貴重な銭湯について突撃取材をしている(『白楽の昭和の香り漂う銭湯「親松の湯」に突撃!』)。



今回は、その失われてしまった銭湯のひとつ「藤の湯」について、ここならなにか情報が得られるだろうと思い「親松の湯」を訪ねることにした。
 

業務スーパー(旧藤の湯)と「親松の湯」の位置関係

 


建物を覆うかのような一本松が印象的な「親松の湯」

 
突然の訪問だったが、3代目店主の堀正義(ほり・まさよし)さんは快く取材に応じてくれた。そして、「藤の湯」について尋ねると、古い資料を家の奥から引っ張り出してくれた。
 


1976(昭和51)年度の神奈川県下の浴場組合員名簿
 

名簿の某ページを開くと、そこに「藤の湯」があった

 
つまり、今から40年少し前までは「藤の湯」は存在していたのだ。ただ、経営者の名前が、線で消されて変わっている。
これについて、堀さんが記憶を辿ってくれた。
「『藤の湯』はある時期からオーナーさんと経営者が別になり、オーナーは伊藤さん、実際の経営は桜井さんが途中からやっていたんだと思います」
当時の方々と連絡はつくのか、尋ねると、
「桜井さんが今住んでいる地域は聞いていますが、連絡はとれませんね」
なるほど。だが、だんだん謎に近づいてきた気がする。

ちなみに、現在60歳の堀さんも「藤の湯」の入り口の石像はよく覚えているという。
また、「あの通りは今の横浜上麻生線から見て手前が広く、奥に行くと狭くなっているでしょう。手前のほうは戦災で一回焼け野原になり、復興時に道路が拡張されたそうです。『藤の湯』があった場所はその辺りになるから、戦後に建てられたのかもしれませんね」とも教えてくれた。
ということは、あの2体の石像も戦後にできたものなのだろうか?
 


この辺りは広いのだが、奥に行くと急に狭くなる通り

 
堀さんは最後にポツリと言った。
「銭湯だけじゃなく以前から住んでいた人もいなくなって、この辺りの昔のことはもうなかなかわかりませんよ」

「親松の湯」をあとにすると、もう1ヶ所別の場所を訪ねた。斎藤分町の中にある善龍寺(ぜんりゅうじ)だ。
 


善龍寺は浄土真宗本願寺派の寺院

 
天長年間(824~834)に創建したとも伝えられる歴史ある寺院なので、地域の古い記憶について話を聞けるかもしれないと思ったからだ。
 


だがこの日はちょうど月に一度の定例法座が開かれていた

 
本堂からは読経の声が聞こえてきた。とても突然の取材に応じられるような状況ではない。そこで、後日あらためて電話をしてみた。けれども同寺からは、「宗旨と関係がないのでわかりません」とあっさり返答されただけだった。