茅ヶ崎のシンボル「えぼし岩」、名前の由来や当時の写真は残っているか?
ココがキニナル!
茅ヶ崎のシンボル“エボシ岩”、第二次大戦後の米軍駐屯兵の射撃の的となり、今の形になったらしいです。以前から名前はエボシ岩だったのでしょうか。以前の写真なんかありますか。(ハマっこ3代目さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
江戸時代末期から、「えぼし岩」と呼ばれていたようです。「図説 市民の半世紀」という文献に、射撃前の写真が載ってました。
ライター:河野 哲弥
戦前の画像を求めて
対応頂いた同市役所の文化生涯学習課によれば、市が編集した『図説 市民の半世紀』という文献の中に、かつての「えぼし岩」を撮影した写真があるという。
さっそく、見せて頂くことにする。
茅ヶ崎市役所本庁舎、外観
1935年頃の「えぼし岩」 (転載許可済み、以下同)
実は「姥島」全体は、1923(大正12)年に発生した関東大震災のときに、海面から1メートルほど隆起したようだ。その12年後の姿が、このモノクロの写真となる。
その後太平洋戦争が始まると、辻堂から茅ヶ崎の海岸は、米軍による日本本土攻略の「主上陸」地点の候補地となったようだ。
しかし終戦を迎えると、この海岸沿いの土地は接収され、米軍演習場となった。そして、朝鮮戦争や日本が東側諸国に占領された場合の奪還を想定した、各種「上陸作戦」の訓練が行われたのである。
赤い丸が「姥島」、三角のエリアが射撃場として使われた区域
このとき「えぼし岩」は、格好の射撃目標となってしまったようだ。上図オレンジの三角形は、「オーボー第一区域」という、的を直接見て射撃を行う「直接射撃場」を示している。黄色の三角は「オーボー第二区域」で、主に砲弾など、放物線を描いて着弾させる「間接射撃場」である。
では、「えぼし岩周遊船」の時に撮影した画像からアングルの近いものを選別し、両者を比較してみよう。
現在の「えぼし岩」の姿
確かに投稿にあったように、頂上の部分が削られて、丸くなってしまった感じがする。確認のため、両画像を重ねてみると…。
削られたと思われる部分(イメージ)
もちろん、正確に同じ場所から撮影した訳ではないし、カメラレンズの画角などにも左右されるため、この図はイメージである。
しかし、向かって左側のすそ野近辺など、頂上以外にも失われたと思われる部分が、少なからずあるのかもしれない。
また、市が行った最新の測量結果によれば、その高さは約12.4メートルとのこと。(出典・「茅ヶ崎市都市計画基本図」)
「えぼし岩」に関するほとんどの史料には、その高さを「14メートル」や「15メートル」と記しているものが多いので、ここで喚起をしておきたい。
おわりに
1952年日本は独立を回復し、59年には茅ヶ崎海岸は日本へ返還された。当時のアメリカ軍の基地は公園などに整備され、「えぼし岩」は、湘南を代表する地域資源として活用されはじめた。
辻堂海浜公園に見る、「えぼし岩」をかたどった車止めの例
「えぼし岩周遊船」の利用客に聞くと、多くの方が、銃撃によって「えぼし岩」の形が変わったという事実を知っていた。しかし、「頂上付近だけ」という認識がほとんどであった。
しかし、今回の取材を通じて、それ以外の場所も削られた可能性を示唆することができた。また、市と確認を進める中で、正確な高さについての新しい事実を公表できる機会が持てた。
改めて、投稿者や関係者各位に、感謝の意を述べたいと思う。
―終わり―
hondairieさん
2012年02月11日 16時55分
戦後の写真じゃなくて戦前ですよねいやまあ、日露戦争後ではあるけど