京急日ノ出町駅の近くに滑走路があったって本当!?
ココがキニナル!
京急の日ノ出町駅から伊勢佐木町方面に、まっすぐ伸びるバス通りがあります。その道は滑走路だったと聞きましたが本当でしょうか?(Yokoyokoさん、リキさん、角さん)
はまれぽ調査結果!
かつてアメリカ陸軍の滑走路は長者町七丁目よりもう少し黄金町寄りの所に存在した!現在は住宅や飲食店が建ち並び、通りとしては残っていなかった。
ライター:永田 ミナミ
資料をあたる
横浜都市発展記念館で問い合わせてみたところ、職員の吉崎さんから「それなら」といくつかの資料と、さらに横浜市史資料室の米軍接収当時に詳しい羽田さんという方を紹介していただいた。そして、ついに滑走路の位置が正確に記された地図を入手することができたのである。
「昭和の横浜(横浜市史資料室編)」
「昭和の横浜」に見開きで掲載されていた地図に、滑走路があった飛行場の敷地がはっきりと書かれていたのである。そしてその地図は、横浜市史資料室に問い合わせて入手することができた。
地図左上の一部を拡大したもの。緑色部分が滑走路のあった飛行場(着色記者)
過去の地図を消すとこうなる(Googleマップより)
後日、横浜市史資料室の羽田さんに話を伺うことができた。日ノ出町駅裏山に飛行機が衝突したという事故については「すべてではないが当時の資料、日本の新聞、米軍発行の『星条新聞』などを見ている限りではそういう記事を目にしたことはない」ということだった。
そもそも、接収時の資料は米軍のものも含めて集めているが、滑走路のあった飛行場についての資料は少ないという。写真も3枚ほどしか確認できていないそうだ。
取材を終えて
河目さんの情報は正しかった。現在は店舗や住宅、飲食店が建ち並ぶ一角に、かつて滑走路があった小さな飛行場は確かに存在した。羽田さんにも確認したが、飛行場は第八軍(陸軍)のもので、主にセスナなどの軽飛行機が発着していたという。
ただ、その場所は当初の予想とは異なり、日ノ出町駅から伊勢佐木町に向かってではなく、黄金町駅方面、若葉町3丁目あたりに、大岡川にやや平行するようにして走っていたのである。
「中区史」に載っていた飛行場の写真
戦後、アメリカに多くの土地を接収されていた時代の痕跡はほとんど残っていないし、これからも誰かが何かをしなければ確実に消えていってしまうだろう。今われわれにできることは、こうして戦後の横浜に関する疑問に答え、調べ、そして残していくことである。
― 終わり―
Sさん
2017年08月19日 16時16分
そもそも最初の段階で平地から丘陵に向かって飛んだり丘陵から下りたりすることが無いのはすぐ思いつくはず、海に向かって開けている地形考えたらまず疑問に思うでしょ
あすまさん
2017年08月16日 12時26分
http://user.numazu-ct.ac.jp/~tsato/webmap/map/gmap.html?ll=35.441623,139.626456&z=16&data=history&t=gsiortusa10Googleマップを使って過去の地形図や空中写真を見る で1947年の航空写真に写っています
マッサンさん
2016年05月15日 15時54分
いまも飛行場が現存していたならば、米軍オスプレイが離着してたなんてことも……。