東神奈川の二ツ谷の近く、半分くらい川の中に建っている謎の家、なぜこんなことになってしまった?
ココがキニナル!
二ツ谷の近く、家の半分くらいが、川に突き出ているのですが、何のためにこんな建て方をしたのでしょうか?また大雨で流されたことはないのでしょうか?(ねこぼくさん/まさしさん)
はまれぽ調査結果!
戦後の混迷期に乱立したバラックを改築した可能性あり。流されたことがあるかは不明だが川の水量が増え避難勧告が出たことも
ライター:小方 サダオ
バラックが多かったこの一帯
さらにIさんに、町の歴史に詳しい横山さんを紹介してもらった。
「あの川沿いには戦前には米屋などがあったよ。川岸の川上のほうには“フジイ米店”、川下のほうは、“土管店”などがあった。狭い土地だったから数軒しか建物は建ってなかった。しかし1942(昭和17)年ごろになると、このあたりの家は空襲で燃えるから、と政府の命令で家が壊され、我々は強制疎開させられた」
1935(昭和10)年ごろの横山さん手書きの地図。川岸にはフジイ米店、榊原土管店などがあった
「そして戦後、このあたりの近くまで米軍に接収された。その残された土地を使って、疎開から戻ってきた一部の人達は、トタン屋根を針金で結んだだけの、粗末なバラックを建てて住んだ。地主の承諾も得ず、小さなバラックがたくさん建っている状態になった」
投稿にあった川岸のあたりにもバラックが建っていたのか、筆者が尋ねると、こう答えてくれた。
「私の家はあの川岸より鉄橋を隔てたところにあったので、あのあたりのことはよく覚えていない。しかし鉄橋の周りにはバラックがたくさん建っていたのは記憶しているので、あそこにも並んで建っていた可能性はある。
滝の川の川岸のバラックが多かったあたり
「私の家の道路をはさんだ向かいもバラックだったよ。それが1955(昭和30)年ごろに魚屋になった。またその隣の鉄橋の下もバラックで、後でアジア系の外国人が経営する飲み屋になった。結構繁盛してたよ」
飲み屋があったという場所
筆者が「川にせり出す家」となった理由を聞くと、横山さんがこう推理してくれた。
「私は後になって住人がバラックを増築した結果、後ろの川にせり出す形になってしまったのではないのだろうか? と思う」
横山さん宅の向かいの、バラックだったという鮮魚店は、後に川にせり出した家屋になったが、去年改築されて住居になっているという。バラックを改築して川にせり出す家になった、という横山さんの推理は正しいかもしれない。
バラックから違法建築の魚屋になった経緯の土地に建つ住宅。鉄橋の向こう側が問題の川岸
記憶に定かなことだけを、の姿勢で誠実に話をしてくれた横山さん
昔この川岸に住んでいた人を探すと、Iさんとその姉が話を聞かせてくれた。
住み始めた時期に関してIさんの姉は、
「私たちは初めあの川岸の反対側に土地を持って住んでいました。しかし1950(昭和25)年に、あの川岸に引っ越しました。56年くらい住んでいて、その後引っ越しました。新築の2階建てで、中は6畳分くらいしかありませんでした。建築時に大工さんが大きさの見積もりを間違えたらしく、『狭いから川の方に出しちゃえ』という感じで建てたと聞きました」
またIさんは家の平面図を描きながら、次のような話を聞かせてくれた。
Iさんの書いてくれた家の平面図を再現
「1階と2階合わせて10人が住んでいたことがあった。だから増築することにした。でもその分税金も増税されて親はそれを払っていたそうだよ。ある時、立ち退きに関して河川課がやって来て職員が、『台風の時に上流から材木を流してやろうか!?』なんて嫌味を言ってきて、親が言い返したりしてたのを憶えてるなぁ」
また、今も川岸に住むSさんからは川岸の土地の特徴について話をしてくれた。
「私の父がここに引っ越してきたのは、1950(昭和25)年です。その時はすでにここは川にせり出した家でした。しかし川のこのあたりには、古い護岸にへばりつくように、川上から流れついた土砂が溜まっていて、岸から数段階段を下りると、土地のようになっていました。
この土砂は鉄板で囲まれる以前は高さがもっとあり、中州のような土地を形成していた
そこはしっかりしていて、布団を干したり洗濯をしたり、子供たちはベーゴマで遊んだりしていました。だから土地代わりに支柱を立てやすかったのかもしれません。その後溜まったゴミなどを取り除くために“川ざらい”があったため、その土砂はなくなってしまいました」
筆者が行政の対応に関して伺うと、
「40年くらい前までは、会合を開いては『よそへ行ってくれ』などとうるさく言ってきました。しかしその後はうやむやになったようです。うちは7年前にキチンと立て直しました」と答えてくれた。
これらの住居は法的に問題ないのだろうか
これらの建物は建築物として合法なのだろうか? 違法ならばこれまで何か対策をしてきたのだろうか?
神奈川土木事務所・管理係長の江藤さんに話を伺った。
神奈川土木事務所
現地の写真を見せると、「これは河川の不法占用です。1965(昭和40)年に制定された"河川敷地占用許可準則"が制定される以前に建てた建築物でしょう。また"建築確認申請"が必要ではなかったころに建てたものかもしれません。もし法律の整備がなされていなかったころの建築物だった場合は、強制的に撤去などができず、持ち主に合法的な建築物に修正してもらうように、お願いをするしかありません」
川に家が建つ河川整備前と、整備後の帷子川・尾張屋橋付近(横浜市下水道局)
続けて江藤さんは話してくれた。「私は対策のためにこの場所を訪れたことはありませんが、過去の職員が撤去のお願いに行った可能性はあります。支柱を立てられている護岸を修理する必要性など、重要な理由が出てくれば強制代執行を行う可能性はありますが、滝の川は流量の少ない小規模河川のためその可能性は低いでしょう」
問題の家々は、河川の不法占用とともに、現行の建築基準法に違反した建築物である可能性もある、という。そこで“建築確認申請”と建築基準法の制定時期について調べてみた。
建築基準法に関する本には、建築基準法は1950(昭和25)年5月24日にが制定され、これ以降の建築物には建築確認が行われるようになった、とある。
わかりやすい建築基準法(大成出版社)
それではこの川岸の家はいつごろ建てられたのだろうか? その建築年を調べるため、法務局神奈川出張所で登記簿謄本を取ってみた。すると最も川上に建っていた物件は、1955(昭和30)年に新築されたものと分かった。
法務局・神奈川出張所
この辺りの家屋群は1955(昭和30)年に同時期に建てられたものなのかもしれない。しかし前出の戦後に建ったという証言を考えると、戦後1945(昭和20)年くらいから1955(昭和30)年にかけて建ったとも考えられ、建てられた正確な時期はいつなのかわからない。建築確認の制度が制定後、建築できたのは、基準が制定直後だったこと、また社会が寛容だったからなのではないだろうか。
最も川上にあった物件の登記簿謄本
1955(昭和30)年に新築と登記されている
取材を終えて
横山さんの紹介で当時同級生であった、Tさんと夫人にお話を伺った。Tさんは前出の“バラックから違法建築に変わった魚屋”を経営していた方だ。
あの川岸の初期の姿について伺うと、
「あれらの建築物はバラックを勝手に建てた人達が、後に家屋を広げた時、川にせり出して作ってしまったものだよ。当時は役人も、戦後の混乱した時代だったので、建築が違法でも対応はやさしかったんだ。1947(昭和22)年ごろ、私の家もバラックだった。後に建て替えて魚屋を営み、5年前まで現役で働いていた」と答えた。
これらの物件は河川を不法占用した違法建築物件である可能性があるという。もちろんそれはそれで問題であろう。しかしこのような昭和の歴史的な暗い面影を残す建築物が、人を惹きつける魅力を持っていることは否定できない気がする。
実際この地が、「居酒屋ゆうれい」という邦画のロケ地として使われ、下の写真のアングルからの風景が登場していることも、それを証明しているのかもしれない。
物憂げな風情を残す、必死に生きようとする人間臭さのにじみ出たその姿が、人の住む建築物としての独特な魅力を発しているのではないだろうか。
「あのころはみんなこうして頑張っていたのよ」という、おばあちゃんの声が耳に残った。
滝の川のかかる“土橋”から見た風景
―終わり―
取材協力
フジリサイクル http://www15.plala.or.jp/fujirecycle/
しらいしさん
2018年01月01日 14時27分
傾いてる中で茶色い家の傾き方が……何年か前から前を通る事がありますが、最初に見た時よりもより傾いている気がします(^_^;)
NKD45さん
2017年05月01日 07時47分
風情も何も違法建築なのは明らか。
強制撤去はできないにしても、
脱法リフォームは認めずこれ以上
こんな危険な建物が延命されないよう
行政には厳しく監視してもらいたいです。
ダボスさん
2017年04月26日 23時47分
こういう昔ながらの風景を叩き壊して東京資本のショッピングモールやタワマンばかり建てるから横浜は益々つまらない街になる。