保土ケ谷スポーツセンターの裏山にある監視カメラが設置された立入禁止の謎のエリアの正体は?
ココがキニナル!
保土ケ谷スポーツセンターの裏山に立入禁止の『謎のエリア』がある。階段と公園?の様なものが目視でき、監視カメラがある。多摩丘陵の緑地の可能性もあるがビール坂で分断されている。(choberyさん)
はまれぽ調査結果!
以前所有していた野村不動産から、神奈川県に寄贈された普段は立入り禁止の土地。水田を作り生態系を再生させるプロジェクトなどが行われている。
ライター:小方 サダオ
親子むしとり大会が開催!(つづき)
そして前出の取水口の場所に、スタッフの方に案内してもらった。
水田の場所の上へと階段を上る
古びた階段を上り、蛇行する山道の先には、レンガ造りの蓋のされた井戸のような設備があった。
山道の途中の古びた街灯
歴史を感じさせるレンガ造りの設備
湧き水の取水口の可能性があるという
地下へと続く井戸のような設備
この階段を上ると、看板のあった柵に出る
さらにその手前には何らかの礎石(そせき=建築物の土台)があったが、壹崎さんに伺うと「その場所がビール工場の取水地であったため水神様を祭る社の跡なのかもしれません」と説明してくれた。
水神様を祭る社の土台の可能性があるという
ところで投稿の「多摩丘陵での緑地の可能性」に関しては、いるか丘陵ネットワーク事務局の担当者によると、多摩丘陵と三浦丘陵はつながっている(多摩三浦丘陵と呼ぶ)ため、横浜全域は多摩三浦丘陵に入り、桜ヶ丘緑地もその範囲に入ることになる。
桜ヶ丘緑地周辺は湧水の宝庫
現在も桜ヶ丘緑地では、湧水を用いて水田が作られているが、以前からこのあたりの山からは良質な湧水が評判で、その湧水を使い、ビールが作られていたのだ。
『保土ケ谷区史』によれば「1893(明治26)年に東京麦酒がこの地で湧水(芝ケ谷の水)を活用したビールの醸造をはじめ、後に大日本ビール(現アサヒビール)が買収してビールと清涼飲料水リボンシトロンを製造するようになった」
大日本ビールの工場
「1916(大正5)年には大日本ビールの工場に隣接して日本硝子工業保土ヶ谷工場が設立され、お隣のお得意様向けにビール瓶やサイダー瓶を生産するようになった。日本初とされる王冠栓もこの工場で製造されたようだ」
日本硝子工業保土ヶ谷工場
横浜ビジネスパークのあたりにあった日本硝子工業の工場『保土ヶ谷区明細地図 昭和43年』
「さらに1920(大正9)年に大日本ビールと日本硝子工業は合併し、この工場は日本最大の製瓶工場として発展する。後に日本硝子工業は再び分離して独立、ビールや清涼飲料の製造は中止された。戦後も操業は続けられ、最盛期には640人の従業員を抱えていたという」とある。
東京ビールのラベル
そのビール工場とビール瓶工場があったことの名残が、ビール坂と名づけられた坂に残っている。
ビール坂
ビール坂から望む、昔大日本ビールが建っていた場所
ところで桜ヶ丘緑地のビール坂をはさんだ隣りにも緑豊かな山があり、そのふもとには神明社(しんめいしゃ)が鎮座している。
桜ヶ丘緑地(青矢印)とビール坂(緑矢印)
神明社の湧水
桜ヶ丘緑地の隣りの山
ふもとには1000年以上の歴史のある、神戸町の鎮守・神明社が鎮座する
そこで神明社を訪れ、湧水について神職に話を伺うと「社殿の裏山に入った際、山中から湧水が出ており、その水は桜ヶ丘緑地の湧水と同じ地層から湧き出ているものと思われます」と答えてくれた。
山腹の二輪草などの珍しい花が咲いている場所が水源地であるという
この山も湧水が豊富なようだ。
また社殿内では境内地下70メートルから汲み上げた井戸水を利用して「清流 人形(ひとがた)流し」という、知らず知らずのうちに積もった心身の穢れを取り除くための儀式が行える場所がある。
神職によると「普段から心身をきれいにしたい、との思いの人が訪れ、朝ビジネスパークのサラリーマンがお参りに来ることもあります」とのことだ。
境内地下の井戸水を利用した「清流 人形流し」
身体の悪い所を撫で、人形に息を吹いたあと、清流に流す
数々の人形が浮かぶ、清流の池
また境内には、この井戸水を汲める「お水取り」という場所もある。
昔も今もこの付近の山の湧水は人々に恩恵を与えているようだ。
すると境内で水神社の社を発見した。
桜ヶ丘緑地の水神社の社の跡に関して宮司に伺うと「桜ヶ丘緑地の水神社の社の跡と神明社の関係は定かではありません。しかし現在野村不動産(NRI横浜ラーニングセンター)のある場所には、岡田(岡田とは以前の神明社の宮司の名前)稲荷という社が建っていました」と答えてくれた。
神明社内の水神社の社
境内に建つ稲荷社
また宮司に湧水に関して伺うと「横浜の水道の取水地が、現在の山梨県南都留郡にある道志川となる前は、豊富な湧水が流れ込む帷子川にダムを作り、取水地とする計画がありました」と教えてくれた。
そこで『横浜水道百年の歩み 横浜市水道局』を調べると「1870(明治3)年にイギリス人の技術者・ブラントンが、横浜の近代水道建設案を提案した。結果的に財政的問題から採用されなかったが、給水源として、横浜から12マイル(1マイル=1.6km)離れた川井村(現在の旭区のあたり)付近に源を発し、横浜と神奈川のほぼ中心で海にそそいでいる、今の帷子川を計画」
「水源に必要な高度65フィート(1フィート=30.48cm)は、この川の横浜から約6マイル離れた仏向寺村(現在の保土ケ谷区仏向町のあたり)付近で得られる」と書かれている。
横浜の水道の給水源となる可能性のあった、帷子川
横浜の水道の給水源の候補に挙がったほど水量が豊富であった帷子川。その水源の一つとして、桜ヶ丘緑地から旭区にかけての同じ地層から川に流れ込んでいた湧水も含まれていたであろう。
取材を終えて
保土ケ谷区の『もっと知りたい保土ケ谷 ほどがやの湧水』というウェブサイトの、保土ケ谷の湧水を調査するグループ「わき水みつけ隊」の報告によると、1999(平成11)年の時点で帷子川の源流について調べた結果、発見した湧水の多くは、前出の神明社など寺社内から発見されたものも多いようだ。
豊富できれいな湧水が出て、近くには寺社も多い・・・。
神保さんの表現した「横浜のパワースポット」が、異なった意味で筆者にはしっくりきた。
桜ヶ丘緑地から湧き出る湧水
―終わり―
取材協力
かながわトラストみどり財団
http://ktm.or.jp/index.html
NPO法人小網代野外活動調整会議
http://www.koajiro.org/
エアバスさん
2015年09月26日 22時06分
私のコメントに余り賛意を得られていないが、簡単に言って、大日本ビールという表記の訂正(大日本麦酒へ)と、リボンシトロンが現在、後継のポッカサッポロに引き継がれている商品名であることの明記は必要だと思う。
はまっこ1960さん
2015年09月14日 00時02分
地元ですが、桜ヶ丘緑地と呼ばれているのは知りませんでした。その桜ヶ丘緑地の縁を沿うように細く急な坂道がありますが、その緑地が鬱蒼とした不気味な雰囲気?な為、その坂道は首吊り坂と呼ばれていました。今でも言うんですかね。子供の頃、旭硝子の終業のサイレンをよく聞いていたのですが、「ALWAYS 三丁目の夕日」を観た時にそれを思い出しました。興味深い記事をありがとうございました。
エアバスさん
2015年09月08日 02時07分
リボンシトロンは、現在、ポッカサッポロフード&ビバレッジ(旧・サッポロ飲料)で販売されている飲料です。アサヒもサッポロも、もとは同じ大日本麦酒だったのだが、独禁法がらみで分離するときに、サッポロが受け継いだのだと思う。したがって、大日本麦酒(これが正確な表記)がアサヒビールの前身にはちがいないが、サッポロビールの前身でもあり、この大日本ビール(現アサヒビール)という書き方は、リボンシトロンを語るときには、少し妥当性を欠くのではないだろうか。サッポロの回し者みたいですが、社員ではないので。正しくは、大日本麦酒(アサヒビールとサッポロビールの前身)ということになりますか。