開港前の横浜、旧海岸線を探し歩く旅! 西区~中区編
ココがキニナル!
横浜港が埋め立てられる以前の、旧海岸線を探す旅をお願いします。金沢、磯子、中、西、神奈川、鶴見の各区の何か海岸線の名残の様な物を見つけて欲しいです。(タッカーさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
西区~中区の旧海岸線を踏破。過去の横浜駅西口の姿を知り、波止場の名残りや防波堤の一部を見つけて、海を失った土地の記憶を巡った。
ライター:細野 誠治
中区・後編 本牧十二天と、豊かだった海
中区の海岸線探しも後編、南部へと突入。住所も小港町や本牧へと舞台を移す。
千代崎川を過ぎると横浜市中部水再生センターへ。
センターは旧海岸線の真ん中に建つ。写真右辺りが境界となる
本牧ふ頭やシーメンスクラブは海の上
中部水再生センターを、ぐるりと回ると本牧十二天が姿を現す。ここはご存じの方も多いだろう。
かつて海沿いの切り立った崖はマンダリン・ブラフと呼ばれた
今も残る、海沿いの“黄色い崖”
今回のキニナルに重なる情報が数多く書かれている
ここから先、旧海岸線は産業道路と首都高・湾岸線に重なってゆく。
湾岸線合流までの旧海岸線は、本牧ゴルフのある通り
本牧鼻(本牧元町)辺りで旧海岸線は産業道路・湾岸線と一致する(クリックして拡大)
踏破を続けてきて筆者も大分、慣れてきた。過去との境界部分には川が渡されていることが多い。本牧原の大鳥中学校の脇に川(用水路)を見つける。
この川が境界となっている
いくつもの暗渠が枝分かれした用水路脇を進むこと500メートルほど。錦橋付近で川が海へと向かい東に折れ、見えなくなる。その場所に、名残を見つけた。
「八王子の護岸」の碑があった。この場所に昔、護岸が設置されていた
今はこの一塊のみが残されている
その先には海苔会館がある
かつて本牧は、海苔の養殖が盛んだったそうだ。
横浜市中央図書館の資料で見つけた、1958(昭和33)年の本牧の海
ほんの50年と少し。目の前に海が、確かにあった。
にぎやかだった西区から中区、堀川までの道筋。横浜のミッドタウンを過ぎると、失ってしまった海への郷愁の色が強く感じられるように。
まるで海岸線への、巡礼の旅のようだ・・・。
海苔会館からは1本、内陸へと歩みを進める。
本牧車庫前の道が旧海岸線
そして「本牧鼻」の切り立った崖が、海と陸地を隔てていた
道なりで産業道路に再び合流をする。右折後、すぐに本牧市民プールだ。
ここでも海の名残を感じる。
プール正面口右手にレリーフがある
『海を失った市民のために』と書かれている。
三渓園前の海。1955(昭和30)年ころまでは潮干狩りや海水浴ができた
迅速測図でも砂浜が確認できる(クリックして拡大)
筆者の辿っている道筋は、約130年前のもの。当時、三渓園はまだ存在していない(三渓園の造園は1906<明治39>年)。
当時と変わらないのは恐らく、地層の表れた崖くらいだろう
やがて産業道路が終わりを迎え、本牧通りに合流するころ。
三渓園から間門の信号の間、旧海岸線は産業道路の左右を緩やかに蛇行する
本牧通りに入って、住所が根岸町に。人通りが多くなってきた。
間門の信号から300メートル地点。JR根岸線とぶつかる
ここから先は根岸線沿いの道が、最も旧海岸線に近い。
左に根岸線を見て西へ。海の気配は希薄だ
JR根岸線「根岸」駅まであと300メートル地点。この場所で中区が終了する。
本牧通り「日石前」信号から先は磯子区になる
西区の旧海岸線、踏破距離は約12km。二度目の旅が終わった。
取材を終えて
かつての海岸線を探る旅、2回目は「華やかな開港の海」と「失ってしまった、生活の一部だった海」を見るものでした。
想いを乗せる海と、馳せる海
どちらの海もハマっ子にとって、かけがえのない海だ。
街と同じく海も、ひと時も止まらずに変わり続けている。それが横浜の海なのだ、と筆者は思いました。
皆さまにとっての海は、一体どのような海でしょうか?
(いつか読者と、話してみたい)
そんな筆者の調査も、いよいよ次回が最後。磯子区~金沢区編をお楽しみに!
ヨコハマ海岸探偵局、細野誠治でした。
今回歩いた場所(クリックして拡大)
—終わり—
※今回の取材において、国立研究開発法人農業環境技術研究所の
「歴史的農業環境閲覧システム」を使用させていただきました。
http://habs.dc.affrc.go.jp/index.html
参考文献
『日本の古地図7 港町』(発行:株式会社講談社)
『横浜西区史』(発行:横浜西区史刊行委員会)
『グラフィック西 ——目で見る西区の今昔——』(発行:西区観光協会)
『横浜中区史』(発行者:中区制五〇周年記念事業実行委員会)
『中区歴史年表』(発行:横浜市中区役所)
『中区 歴史の散歩道 横浜の近代100話』(発行:神奈川新聞社)
『ペリー来航~横浜元町一四〇年史』(発行所:元町自治運営会)
『横浜港史 資料編』(発行:横浜市港湾局企画課)
tanukiさん
2016年02月12日 07時46分
面白かったです。暖かくなったら私もこの通りに歩いてみようと思いました。
rsmさん
2015年09月29日 12時20分
歴史的農業環境閲覧システムを使って素晴らしいと思いますが、あの地図は明治初期、中期に制作されたことに注意して頂きたい。「旧海岸線は、海と沼を遮る堤防のかたちをしている。」とありましたが、その堤防の形の物は人工的な土手です。桜木町から新橋間の鉄道開業の為に明治3年から高島嘉右衛門が埋築(横浜野毛海岸石崎並より神奈川青木町海岸間)でした。歴史的農業環境閲覧システムの地図はその後にできました。よく見れば、地図にその鉄道路線が見えます。「現在の横浜駅は、ちょうど旧海岸線上に横たわっているのが分かる」のですが、現在の横浜駅はまだ浅い入江でした。「平沼橋から川崎方面を望む風景を描いた浮世絵」には当時の入江が見えます。その浮世絵の主題は横浜道で、いまの浅間下交差点の近くから東海道から分かれて、横浜に向いました。埋め立て前の海岸は浮世絵に見える橋と東海道との間にありました。
OKKUNPAPAさん
2015年09月25日 15時19分
吉田新田は?川の流れや横浜市教育委員会にある程度資料があると思いますが…