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みんなのキニナル

    戸塚駅周辺では。多数のマンションが建設中です。タワーマンションが林立する武蔵小杉駅周辺でも開発が継続しています。次に建設ラッシュが起きそうなのは何駅でしょうか?

    ほわりんさん

    瀬谷にある田園釣り堀が気になります!ドラマ、映画とかにも出ていて芸能人もたくさん来ているようです!取材してきてください!

    はまっこさん

    市営バスが大型二種免許の取得から支援する養成バス乗務員の採用を始めたそうです!どういう研修があったりするのか気になります!

    はまっこさん

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みんなのコメント

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横浜のココがキニナル!

横浜市にある文化財の宝庫三溪園、その三溪園を作った原三溪さんってどんな方だったんですか?キニナルので取材お願いします。(にゃんさんのキニナル)

はまれぽ調査結果

本名、原富太郎。生糸の製糸業,・輸出業で財を成した実業家だが、その私財を、文化・芸術の保護や震災復興などに充てた文化人でもある。

ライター:河野 哲弥 (2012年12月23日)

何はともあれ、三溪園へ

横浜市中区にある国指定名勝の三溪園は、JR根岸線の根岸駅からバスに乗り、本牧下車・徒歩約7分の位置にある。
日本庭園としての造形もさることながら、園内にある17棟のうち10棟が国の重要文化財に指定されていることでも有名な、「和」の空間である。
 


同園のランドマークともいえる、「旧燈明寺三重塔」


そんな同園の敷地は、もともと原家の私有地で、それを1906(明治39)年に一般開放したのが、原三溪という人物であったらしい。
一体どのような人物だったのだろうか、三溪園を訪ねてみることにした。



青木富太郎が原三渓を名乗るまでの経緯

お話を伺ったのは、財団法人三溪園保勝会広報担当の吉川さんと、学芸員の清水さん。
以前、別の記事でもお世話になったことがあり、「はまれぽ」についてもよくご存じとのことで、取材を受けてくださることになった。
 


保勝会の吉川さん(左)と清水さん(右)


まずは原三溪の生い立ちから説明していただくことにしよう。
同氏の生まれは岐阜県で、生まれたときの名前は青木富太郎とのこと。聡明であった富太郎青年は、18歳のときに上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)で学ぶことになるが、同時に学生でありながら、跡見学校(現・跡見学園)の助教師を務めるほどであったという。
 


原三溪のポートレート(画像提供・三溪園保勝会)


そのころ、跡見学校に通っていたのが、後に原三溪の妻となる原屋寿(やす)である。屋寿の祖父、原善三郎氏は当時、横浜で屈指の生糸売込み業を営んでいたそうだ。

一説によると、鼻緒が切れて困っていた屋寿を偶然富太郎氏が助けたことが、二人のなれ初めと伝わっているらしい。しかし、「才覚のあった富太郎氏を、同校の創始者である跡見花蹊が見込み、原家との縁を取り持ったのではないか」と、吉川さんはいう。いずれにしても、富太郎氏が23歳のときに原家の婿養子となり、原富太郎を名乗ることになった。
 


取材当日の三溪園にはこんな姿も(ご両家承諾済み)


さて、善三郎氏は当時、本牧三之谷の地に広大な別荘の土地を所有していた。こういった場所に一種のサロンを作り、政治家や文化人と交流するのが、その時代のステータスとなっていたのである。

やがて富太郎氏が31歳になると、善三郎氏は死去し、この土地とともに原家の家業を継ぐことになった。富太郎氏が近代的な事業経営に乗り出すのは、このとき以降である。日本の伝統的な商習慣からの脱却を目指し、当時としては破格の退職金をもって番頭たちに退職を請い、1900(明治33)年には同店を原合名会社に改組した。

吉川さんによれば、「それまでの婿養子としての肩身の狭さもあって、新たな時代の事業を興したいという思いが強かったのでしょう」とのこと。

その一方、1902(明治35)年頃から、三之谷の別荘の地を本宅として造園を手がけていった。はっきりとした年代は分かっていないそうだが、この土地を三之谷の地名から「三溪園」と名付け、自らも原三溪を名乗ることになったそうだ。
 


1902(明治35)年、本宅として建てられた「鶴翔閣」
 

建物内には、かつての居住空間の雰囲気が残されている


では、どうしてこの三溪園に、重要文化財クラスの建築物が移築されるようになったのだろう。
引き続き、保勝会に話を伺ってみることにしよう。



原三溪氏の過去をひも解いていると、あの大物著名人の出会いがあった!次のページ≫
 

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