根岸にある『馬の博物館』ってどんなところ?
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根岸の馬の博物館について詳しく知りたいです!(maniaさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
中区根岸台の根岸競馬記念公苑にある『馬の博物館』は、日本における競馬の発祥や、人類と馬とのかかわりを学ぶことができる学習兼娯楽施設。
ライター:松崎 辰彦
『馬の博物館』へ行こう
JR根岸から「桜木町行き」バスに乗り、10分弱。「滝の上」のバス停で降りると、根岸競馬記念公苑が見える。
敷地面積2万4800㎡。横浜スタジアム(球場面積2万6200㎡)と比べてもさほど遜色ない広大な敷地の中にあるのが今回の調査対象である『馬の博物館』。馬の銅像がひときわ見事である。
根岸競馬記念公苑の中にある『馬の博物館』
中に入ると、さまざまなグッズが販売されている。馬に関連したアクセサリーやキーホルダー、そして書籍など、もうここで馬好きは心をつかまれてしまう。
さまざまなグッズが販売されている
書籍関係も充実している
主査学芸員の長塚孝さんに、お話を伺った。
お話を伺った学芸員の長塚孝さん。ポニーセンターにて
「『馬の博物館』は、公益財団法人馬事文化財団が経営する施設です。馬事文化財団が設立されたのは1976(昭和51)年4月、『馬の博物館』が誕生したのは翌1977(昭和52)年の10月です」
馬事文化財団はJRA(日本中央競馬会)の関連組織。馬に関する文化事業を手がける組織として発足した。
歴史をひもとくと、日本で最初に洋式競馬が誕生したのが、ここ根岸台である。1866年12月(旧暦・慶応2年11月)に外国人居留地の娯楽施設として根岸競馬場(1937〈昭和12〉年に「横浜競馬場」に改称)が完成し、翌月の1867年1月(旧暦・慶応2年12月)からレースが開催され、1942(昭和17)年に幕を下ろすまで、76年間の歴史を歩んだ。
かつての競馬場の様子。外国人が多い
入場者は当初は外国人のみだったが、後に日本人の参加も認められるようになった。
当時の競馬場は現在のような庶民の娯楽施設というよりも貴族の社交場としての位置付けが強く、近代化の象徴としてとらえられ、皇族もたびたび訪れた。
明治天皇も13回行幸され、1905(明治38)年には天皇より御賞典が下賜される「エンペラーズカップ」が創設された。これが現在の天皇賞である。
皇太子時代の昭和天皇が根岸競馬場を
訪問されたことを報じるアサヒグラフ
第二次大戦中の1943(昭和18)年に馬場は閉鎖され、終戦後は進駐軍の接収を受けるなど歴史の波に揉まれた横浜競馬場は、1973(昭和48)年に日本中央競馬会に払い下げられ、根岸競馬記念公苑ならびに『馬の博物館』として再生した。
──以上が『馬の博物館』の歴史である。
それではさらに歩みを進め、中を案内してもらおう。
日本に競馬が誕生したのは横浜だった
最初に足を踏み入れるのが第一展示室。ここでは幕末、日本に洋式競馬が導入された歴史を見ることができる。長塚さんによると、日本にはそれまで神社などで神事としての馬同士の競走はあったが、金銭を賭けるようなものではなかった。
第一展示室の様子。多くの資料で日本の競馬の歴史が理解できる
外国人居留地であったここ横浜にはいくつか競馬場ができたが、治安の悪化を懸念した江戸幕府は競馬場を1ヵ所にすることを在留外国人に求め、誕生したのが根岸競馬場であった。
日本に本格的な競馬場ができたことを説明するパネル
当初は治外法権の場として、イギリス・フランス人を中心とする外国人が出入りしていた競馬場だったが、1923(大正12)年に旧競馬法が施行され、日本人にも馬券が買えるようになった。
ただそれは当時の金額で一枚20円という、現代に換算すると15~20万円に相当する高額なもので、あくまで貴族の遊びという色彩が強いものだった。
当時の馬券。「金貳拾圓」とある
こうした歴史を、この部屋の展示で学ぶことができる。幕末から明治維新にかけて、欧米化の先端を走った横浜の特色を、十二分に感じることができる。