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本牧って昔はどんな感じだった?(後編)

ココがキニナル!

今は悲しいマイカル本牧の輝いていた時代と、米軍に接収されていた時代をプレイバックしてください。(中区太郎さんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

マイカル本牧はバブルの時代に誕生し、そしてその後消滅した。後編の今回、その経緯を見ていきたい

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ライター:松崎 辰彦

マイカル本牧が輝いていた時代



1989(昭和64~平成元)年、年号が昭和から平成に替わり横浜博覧会が開催されたこの年、マイカル本牧はオープンした。敷地面積約3万平方メートル、延床面積約12万平方メートルという巨大な空間を抱えたこの大規模ショッピングセンターは、地域の人々の期待を受け、米軍住居跡地に誕生したのである。
 


マイカル本牧(横浜市史資料室所蔵広報課写真資料)


そのコンセプトはスペイン風──というものであった。1番街から12番街まで独立したビルで形成され、多くのビルがペデストリアンデッキ(立体的な歩行者専用通路)でつながっていた。道路もイスパニア通りなどと命名され、それらしき雰囲気を演出した。
 


スペイン風に命名された


開業1年ほどは、多くの人が訪れて繁栄した。1番街がスーパー、6番街が映画館、7番街がホテルといったさまざまな機能を備えた街並みに、たしかに人々の消費意欲は高まり、地域経済は活性化した。

しかし1991(平成3)年にバブルが崩壊し、期待していた鉄道は開通せず、人々の足は途絶えた。その後、マイカル本牧は失速を止める方法を見出すことができず、2011(平成23)年に大型ショッピングセンターであるイオンに吸収合併される形で消滅した。

 


イオンに吸収されたマイカル本牧


現在、マイカル本牧はイオン本牧として存続しているが、地域経済の中で着実に生き残る道を選んでいると見え、いたずらな華やかさとは無縁のようである。

マイカル本牧が輝いていた時代、地域の人たちは何を考えていたのだろう。米軍接収時代を描いた前回の記事に引き続いて、本牧の来し方を見てみたい。



世界のブランドが集まっていたマイカル本牧



「(マイカル本牧設立後の1996〈平成8〉年に)ニチイが社名変更してマイカルになったんです。米軍住宅が出ていった後、マイカルが来て地価も上がるしみんな大歓迎でした。しかしコンセプトのスペイン風というのが本牧に合わなかった、そして鉄道も来てくれず、交通アクセスが失敗した。それにこの不況でしょ? 普通の不況は2~3年で終るのに、この不況はいまだに続いている。それでとうとう、2007(平成19)年ごろに手を上げたんです」

こう説明してくれたのは、本牧で「美奈登鮨」を経営する鶴田理一郎さん。『横浜港シンボルタワーで、本当に「本牧カレー」は売っているの?』にも登場いただいた、横浜本牧観光協会会長である。

1963(昭和38)年にこの地に開店し、みずからを「本牧の生き字引」という鶴田さんに、マイカル本牧時代のことを聞いてみた。
 


鶴田理一郎さん。あの「根岸家」で料理人をしていたことも



美奈登鮨


「マイカルが来ることに難色を示す店もありましたが、大部分の住民は歓迎していました。テナントも元気がよかった。イタリアやパリなど世界のブランドが入ったんです。銀座や渋谷よりよいブランドでした」

品ぞろえはよかったのだ。また、「店員もおもてなしのエキスパートがいました。パリやイタリアでも通用するような粒ぞろいの人たちでした」と、人的資源も優れていた。



かつてHONMOKUは世界語だった



時代はまだバブルであり、マイカル本牧にもそれらしき話がある。
「実はマイカルで買ったスーツでクラブへいくと、特別扱いでした(笑)。グッチとか、そうした一流所をそろえていましたから」
日本のみならず、海外にも名前が響いていたという。

「海外で、現地の子どもに『ジャパンはどこかわかる?』と世界地図を前に聞くと、韓国やらシンガポールを指す子も多いです。しかし、『ヨコハマはどこ?』と聞くと、ちゃんと横浜を指します。同じように『ホンモクはどこかわかるかな?』と質問すると、しっかり正しいところを指さすんです!(笑)。実はこういう子どもは、横浜にいたことがあるわけです」
まさにHONMOKUが世界語だった時期があるのである。 
 


当時作られ、現在も動いている噴水


「マイカルには一流のバイヤーがいました。ホテルも一流の設計で、施工料より設計料が高いなどといわれました」
こうした栄華の時期を過ごしたマイカル本牧。しかしご存じのように、繁栄のときは長くは続かなかった。