横浜生まれの大スター「美空ひばり」ってどんな人だった?
ココがキニナル!
今年は、美空ひばりさんの25回忌。横浜ブルグでも、8日から命日24日まで『ザ・スター美空ひばり~大人の音楽祭~』を行うようです。美空ひばりさんの足跡をレポートしてください(Ryo.ACさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
美空ひばりは横浜が生んだ史上最大のスター。52年の生涯で、多くの人を魅了した。
ライター:松崎 辰彦
投稿にある『ザ・スター 美空ひばり ~大人の音楽祭~』とは、1981(昭和56)年にフジテレビが放送した音楽番組『ザ・スター』を基にした映画。この中でひばりは 『港町十三番地』『東京キッド』『波止場だよ お父っつぁん』など29曲を歌っている。
『ザ・スター 美空ひばり ~大人の音楽祭~』のポスター
横浜ブルク13ではこのたび、地元横浜としての思いも込めてこの『ザ・スター 美空ひばり ~大人の音楽祭~』を上映、往年のファンを集めた。
横浜ブルク13があるTOCみなとみらい
美空ひばりが世を去ったのは1989(平成元)年6月24日。すでに四半世紀が過ぎようとしている中で、かつてのファンも高齢化し、ひばりを知らない人も増えつつある。ここで美空ひばりの足跡を振り返り、横浜に生まれた偉大な歌手の面影を見つめてみたい。
横浜に現れた天才少女
1937(昭和12)年5月29日、美空ひばりこと加藤和枝は横浜市磯子区滝頭に父・増吉、母・喜美枝の長女として誕生した。増吉は鮮魚店「魚増」を経営し、おしゃれで、仕事から帰るとギターで鼻唄を歌ったりしたが、素晴しい音感の持ち主だったという。喜美枝とは遠い親戚だが、増吉の女性問題でたびたび夫婦喧嘩を繰り返した。
磯子にある美空ひばりの生誕記念碑
1943(昭和18)年6月、増吉が出征するので壮行会が開かれ、その席で和枝は『九段の母』を歌った。その後、軍需工場などで慰問活動を行い、その存在を知られるようになる。
1945(昭和20)年9月、父が復員し、楽団を結成。
1946(昭和21)年11月、第1回オール横浜総合芸能コンクールに出場。
1946(昭和21)年11月のひばり
1947(昭和22)年、横浜の杉田劇場で漫談の井口静波(せいは)、音丸と初の興行を行う。同年10月、芸名を美空ひばりとする。
野毛にある美空ひばりの銅像
少女時代の美空ひばり(フリー画像より)
1948(昭和23)年、横浜国際劇場に出演。ボードビリアン川田晴久がひばりの才能を見込み、巡業に参加させる。
1949(昭和24)年、『河童ブギウギ』でレコード初吹き込み。映画『悲しき口笛』に主演し、大ヒット。同名の主題歌も大ヒットし、国民的なスターとなる。
ひばりは人気者になった(フリー画像より)
──戦後、彗星のように現れた天才少女歌手、美空ひばりは娯楽に飢えていた人々の心を慰め一躍スターになったのだった。
「三人娘」の時代
1953(昭和28)年11月、磯子・間坂に敷地900坪、プール付きの“ひばり御殿”を建設。
ひばり御殿(撮影・鶴田理一郎)
1954(昭和29)年12月、『ひばりのマドロスさん』でNHK紅白歌合戦初出場。
1955(昭和30)年11月、江利チエミ、雪村いづみらと出演した『ジャンケン娘』が封切られ、以後“三人娘”として人気になる。
1957(昭和32)年1月、浅草国際劇場でファンの少女に舞台で塩酸をかけられ、全治3週間の傷を負う。
──少女は“ひばりの醜くなった顔を見たかった”といったとされる。
ひばりは口の中と舌、左の耳、左の頬に火傷を負い、左の頬と舌には火傷の跡が死ぬまで残った。しかしこの一件と自分を傷つけたファンに関しては、その後一言も口を開かなかったという。
1958(昭和33)年5月、横浜開港百年祭の記念式典に出演。
横浜開港百年祭の記念式典で歌うひばり
横浜市史資料室所蔵広報課写真資料
1960(昭和35)年12月、『哀愁波止場』で第2回日本レコード大賞歌唱賞受賞。
1962(昭和37)年11月、小林旭と結婚。
1964 (昭和39)年6月、小林旭と離婚。この年『柔』が大ヒットする。
──小林旭との短い結婚生活を経験したひばりは、『柔』をヒットさせる。背景には東京オリンピックという大きなイベントの影響があった。
ひばりは歌謡界の女王となった