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意外と知らない? 日本が開国するきっかけになった横須賀の「ペリー来航」について教えて!

ココがキニナル!

日本が開国するきっかけとなったペリーの横須賀来航。その開国の歴史がキニナル。(はまれぽ編集部のキニナル)

はまれぽ調査結果!

ペリー来航の際、久里浜海岸の人々を中心に大騒動になった。現在はペリー公園や記念館があり、当時の様子を伺うことができる。

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ライター:橘 アリー

横須賀がキニナル調査の対象エリアになった!!

原稿を書くことに行き詰まると、筆者は度々、横須賀へふらっと出掛ける。
 


時々行っている、横須賀の海辺の様子

 
そんなこともあり、横須賀は、馴染み深く大好きな街の一つなので、さっそく“何か調査させて欲しい”と編集部にお願いした。
そして今回、“開国の歴史”について調査することになった。

開国とは、日本が約220年間続いていた鎖国を止めて、外国と交易するようになったこと。
1859(安政6)年6月2日に横浜が開港する際、その交渉の場となったのが横須賀の久里浜である。
開国してからも国防における重要な街として発展してきた横須賀には、日本最古の灯台「観音崎灯台」や、江戸幕府によって設けられた「横須賀造船所」など、歴史的な建物がたくさん残っている。

今回は、開国の舞台となった久里浜海岸近辺を訪れて、当時の様子について触れていくことに。



久里浜が交渉の場所だった!?



日本が開国することになったきっかけといえば、黒船でのペリー来航である。
黒船とは当時の蒸気船のことで、外観が黒い船であることから日本ではそう呼ばれた。
 


ペリー記念館にある黒船来航のイメージのジオラマ

 
ちなみに、左手前の船がペリーの乗っていたサスケハナ号。

ペリー(本名:マシュー・カルブレス・ペリー)は、1794(寛政6)年、アメリカ・ロードアイランド州ニューポート生まれの、アメリカ東インド艦隊司令長官である。
 


右上の赤いところがニューポート

 
ペリーが初めて日本に上陸したのが、横須賀の久里浜。
 


現在、その場所は、ペリー公園となっていて
 

公園の中にペリー記念館がある

 
ペリー公園の前は、道路を挟んで久里浜の海岸線が広がっている。
 


公園に背を向けて、左側にある緑の山の裏側が浦賀
 

正面に広がる海の向こう側は、千葉の房総半島

 
今回、横須賀の開国に関する資料を参考にしながら、ペリー記念館を管理している「横須賀花の国・西武パートナーズ」の高畑功さんに、横須賀の開国についてお話を伺った。
 


焼けた肌が“海の男”という雰囲気のある、高畑さん

 
当時のアメリカは、1776(安永5)年に独立してから100年にも満たないころで、ヨーロッパ諸国に比べてアジアへの進出に出遅れていた。しかし、1818(文政元)年にカリフォルニアまで領土が広がったことにより、蒸気船を使うと20日ほどで中国大陸へ行けるようになった。

アメリカは、中国からお茶や生糸を輸入しており、中間地点にある日本が貿易の中継地となると考えた。
当時のアメリカは捕鯨も行っていたので、捕鯨船への水の補給や海難緊急時の寄港のためにも日本との交易を求めた。

初めてペリーが日本に来航したのは、旧暦1853(嘉永6)年6月3日。

ペリーは突然やって来たのではなく、当時、日本で唯一外国との交易が行われていた長崎の出島で事前にオランダを通じて、来航の10ヶ月前、つまり1852(嘉永5年)には異国船がやってくることを幕府に知らされていた。


ペリーの肖像

 
知らせを聞いた浦賀奉行所は、異国船の来航に備えて非常警備体制を敷いたが、年が明けて1853(嘉永6)年の春になっても異国船は姿を現さなかった。
そこで、「もう1ヶ月だけ」と5月いっぱい非常警備体制を敷いていたが、それでも現われないので6月1日からは通常の体制に戻していた。
ところが、その2日後の6月3日に、ペリー率いる四隻の黒船が姿を現した。

高畑さんによると、城ヶ島付近に黒い煙を吐きながら現れた船を見た漁民は、その飛ぶ様な速さに驚き、思わず「伊豆の大島が動いて来た」と思ったそうだ。

当時、いくつかの藩が浦賀湾の警備を行っていたが、1853年の春になってもペリーが姿を現さなかったため、浦賀奉行所では非常警備が解除されていた。しかし、「ペリー艦隊は必ず来航する」と油断しなかった薩摩藩は、来航に備えて準備を整えていたそうだ。そのため、ペリー来航の知らせは早馬で三崎の見張所から浦賀奉行所にすぐさま知らされた。



当時の様子について



三浦半島の村人は、江戸湾警備の足軽役として海岸線で警備にまわされたので、異国船や異文化に対する好奇心が湧いていたようだが、村の様子は混乱した状況であった。その様子が、狂歌として残っている。

当時の高級なお茶に“上喜撰(じょうきせん)”という名前ものがあり、それと蒸気船をかけて歌われている。
 


狂歌が記された板

 
じょうきせん(上喜撰・蒸気船)たった4はい(4杯、4隻)のおかげで眠れない。当時の人々がどのくらい驚いていたのかが分かる歌だ。この歌の記念碑も、公園の敷地内に建てられている。
 


狂歌の記念碑

 
なお、ペリーに直接会うことができなかった庶民たちが、想像して書いたと思われる当時の瓦版が、記念館に展示されている。
 


当時の瓦版

 
続いて、日本人が黒船に乗船した様子について。