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意外と知らない? 日本が開国するきっかけになった横須賀の「ペリー来航」について教えて!

ココがキニナル!

日本が開国するきっかけとなったペリーの横須賀来航。その開国の歴史がキニナル。(はまれぽ編集部のキニナル)

はまれぽ調査結果!

ペリー来航の際、久里浜海岸の人々を中心に大騒動になった。現在はペリー公園や記念館があり、当時の様子を伺うことができる。

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ライター:橘 アリー

これまでの異国船とは違っていた!?



実は、ペリーの黒船以前にも、日本には外国の船が何隻か訪れていたそうだ。
 


ペリー記念館にある外国船のリスト

 
外国船が来ると、各地の日本人は小舟で外国船に近付き、まるで海賊のように、ロープや鎖を掛けて強引に外国船に乗り移っていた。
そして、外国人の上陸を許さず、追いかえしていたそうだ。

ペリーは、そんな日本人のやり方を研究していたので、強引に船に乗り込んでくることを許さない強硬な姿勢で、ロープや鎖などを掛けられないようにするよう乗組員たちに伝えていたそうだ。

これまでのように強引に乗り込むことができないので、浦賀奉行所の与力(よりき:奉行などの部下で、同心という役職を指揮する、現在で言うと中間管理職のような立場)、中島三郎之助(なかじまさぶろうのすけ)が通訳の堀達之助(ほりたつのすけ)とともに奉行所の番船で近付き、乗船させるように求めた。
 


展示されている三浦半島のジオラマ。赤く点灯している所が現在地

 
すると、「提督(ペリー)は最高位の村人以外とは面会しない」と告げて来たので、通訳の堀達之助は機転を利かし、中島三郎之助のことを「副奉行である」と紹介した。
それによりようやく二人は乗船を許され、来航の目的が当時のフィルモア大統領からの日本の皇帝(将軍)に宛てた開国を要請する内容が記された親書(国書)を手渡すことである、と知った。

ちなみに、堀達之助は長崎のオランダ語通訳家の家に生まれ、1849(嘉永2)年に漂着した捕鯨船員から日本で初めて英語を学んだ人物である。

黒船の中で中島らと対面したのは、副官のコンティー大佐という人物だった。コンティー大佐は中島の質問を聞くたびに席を立ち、別室にいるペリーに返事を聞きに行っていた。
これは威厳を保つようにした、ペリーの戦術のようだ。
 


日本遠征時の様子を記録した「ペリー提督日本遠征記 」

 
そして、ペリーは親書の受け渡しを、幕府が希望する長崎では無く、江戸周辺で行うことを強く求めた。

強硬な姿勢のペリーは、戦争も辞さない様子に思えたので、親書の受け渡しは、久里浜海岸に仮設の応接所を設けて、そこで行われることになった。


親書の受け渡し役は、奉行の安全を考えて、当時の浦賀奉行の戸田伊豆守(とたいずのかみ)の代わりに、中島とは義理の兄弟の香山栄左衛門(かやまえいざえもん)が偽奉行として行った。
 


記念館の前に立っている戸田伊豆守の銅像

 
香山は大柄で押しの強い人物だったので、最後まで偽奉行と見破られることはなかったようだ。

重大な役目を担った香山栄左衛門の事跡を記した碑が、久里浜海岸からほど近い西浦賀町にある西叶(にしかのう)神社に立てられている。
 


西叶神社

 


香山栄左衛門の事跡の碑

 
続いて、親書の受け渡しの様子について。



親書の受け渡しの様子は?



親書の受け渡しは、旧暦の6月9日(1853年7月14日)に行われた。
その朝、浦賀奉行所から、押送船(おしおくりぶね:高速航行ができるように、細長い船体と尖鋭な船首を持ち、櫓〈ろ〉を使って風向きを問わずに推進する小型船)と呼ばれる小型の船に乗って、香山栄左衛門、中島三郎助らがペリーの黒船まで迎えに出た。

アメリカ側は、15隻のカッター(小型船舶)に乗って久里浜海岸へ向かった。
この時、日本の押送船はカッターを上回る高速移動を見せたという。アメリカ側は、極めて頑丈で立派なものであると感心したようである。

陸上では川越藩が500人、彦根藩が1100人ほどで警備にあたり、海上では忍藩(おしはん:現在の埼玉県北部あたりに位置した藩)に雇われた船が50隻、会津藩が15隻で警備にあたった。
 


ペリー上陸の様子

 
4隻の黒船には総勢1000名ほどが乗っていて、そのうちの300名ほどが久里浜に上陸したようだ。
上陸が終わると黒船から13発の祝砲が撃たれ、軍楽隊の奏でる音楽に乗って設けられた応接所まで行進が行われた。

この時のアメリカ側の歩き方は、右手が前に出ると左足が出るという現在では当たり前のものであるが、当時の日本にはそのような歩き方は無かったので、日本側はとても驚いたようだ。
 


公園内にある、ペリー上陸の記念碑

 
さらに、応接所では、ペリーが入口に近づくと、屈強な海兵隊が60人ほど応接所になだれ込んで来て奉行の脇に立ちふさがったので、日本側はその様子に、奉行が人質にとられるのではないかと、大きな衝撃を受け、手も足も出ない状況だった。

しかしアメリカ側では、これは要人警護としては当たり前のこととしている。

このような物々しい状況の中、親書の受け渡しは、終始無言で30分ほどで行われた。
それは、香山栄左衛門が「書簡の受け渡しの時は、一言の問答にも及ばす、ただ書簡を受け渡すのみ」という申し入れをしたためである。その狙いには、浦賀(久里浜)が外国との交易を受け入れたわけではないということを日本側が態度で示すこともあったそうだ。
 


上陸の様子が描かれた絵

 
親書の受け渡しが済むと、ペリー側は、来た時と同じように音楽に合わせて行進し、カッターに乗って黒船に戻って行った。

この時、演奏されたのは「アルプス一万尺」であったそうだ。

ペリーの黒船が久里浜(浦賀)で停泊した理由は、浦賀より先の海図を持っていなかったからだそうだ。黒船に戻ったペリーは、翌年に親書の返事を聞きに来る時のために、浦賀より先に行けるようにと江戸湾奥の測量を行ったようである。
 


応接所での様子が描かれた絵

 
翌年の1月16日、ロシアが日本にやって来るという情報が入ったので、先を越されないようにと、ペリーは約束の1年を待たないで再び日本にやって来た。

そして3月3日に日米和親条約が横浜で結ばれ、その後の1858(安政5)年6月19日に日米修好通商条約が結ばれ、その翌年に横浜が開港した。

このようにして、久里浜にペリーの一行が上陸したことにより、約220年あまり続いた鎖国政策は幕を下ろし、その舞台となった横須賀は“開国の町”となった。

最後に、ペリー公園に立てられた「ペリー上陸記念碑」について
 


ペリー上陸記念碑の案内

 


ペリー上陸記念碑!



ペリー公園内にある、ペリー上陸記念碑は、1901(明治34)年に米友協会によって建てられた。
 


とても大きい記念碑である

 
1900(明治33)年ごろ、米友協会(アメリカに留学・滞在し、日本に帰国したのち、政界や経済界で活躍した人々があつまり、アメリカとの交友を深めることを目的とした団体)主催で、ペリー上陸記念のレセプションが行われたが、その当時には、上陸の面影は何も無く、ただの空き地として閑散としていた。

レセプションでスピーチを行ったアメリカ人のビアズリーという人物が「思い出の地に何も無いのは寂しい」と言った。それを聞いた米友協会会長の金子堅太郎は、会員を中心に寄付を募り、2万円(現在の価値にすると3000万円位)の募金が集まったそうだ。
その内の5000円で記念碑が建てられた。
 


記念碑が建てられた時の様子

 
記念碑には「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑(ほくべいがっしゅうこくすいしていとくぺりーじょうりくきねんひ)」と書かれている。この書は、伊藤博文が書いたもので、石工は、横浜日ノ出町の横溝豊吉である。

そして、記念碑を建てた時に、一緒に、2本の松の木が植えられた。
松は、記念碑を建てるときに関わった、ペリーの孫のロジャーズと、金子健太郎の名前がつけられている。
 


左が金子松で、右がロジャーズ松

 
この記念碑、文字が書かれている上部の高さが4.5メートル、台の高さが5.4メートルで、合わせて9.9メートルという大きさ。重さは16トンもある。

そんな巨大な記念碑だが、戦争中の1944(昭和19)年の11月に「敵国の記念碑である」と言う理由から、地元の人たちによって一度倒されている。
 


記念碑が倒された時の様子
 

倒された時に、上方の一部が欠けてしまった・・・

 
戦争中に倒された記念碑だが、終戦を迎えた翌年には、慌てて建てなおされたそうだ。
建てなおすことになった時、一部が欠けてしまっているが、倒した時に壊してしまわなくて良かったと地元の人々はホッとしたそうである。

それ以来、この記念碑は、横須賀の久里浜が開国の地であることを誇るように堂々と建ちつくしている。



取材を終えて


 
久里浜の海岸は、うすいベージュ色の砂浜がキレイで、散歩していてもとても気持ち良い。
ペリーの黒船がやって来た当時の様子を思いながら、訪れてみてはいかがだろうか。


―終わり―


ペリー記念館
開館時間9:00~16:30
休館日:月曜日(祝日の時は翌日)・年末年始
入場無料 
 

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  • 石には「記念」ではなく「紀念」って書かれているんですよね。それがちょっと珍しかった。「くろふね」(佐々木譲)によると、中島三郎助は幕府崩壊後、北海道に渡り、五稜郭で息子二人と共に、討死したそうです。沿岸の漁民が黒船見物に漁船で訪れ、その数は数百隻だったとかで、黒船に恐れおののいていたわけでもないようです。

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