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新聞発祥の地、横浜にあった読売新聞社の前身「日就社」について教えて!

ココがキニナル!

横浜発祥の企業はたくさんありますが、意外なところでは読売新聞社も横浜で誕生した会社です。日就社という印刷会社が大元のようですが、当時の所在地とか知りたいです。(katsuya30jpさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

読売新聞の前身、日就社があった所在地は「海岸沿いか水路沿いの元弁天」(現:馬車道駅周辺)。子安峻は横浜で起きた事件で重要な役割を果たした

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ライター:吉澤 由美子

明治時代になって、西洋から新しいものが横浜に入ってきて、それが全国に伝わっていった。鉄道ガス灯、アイスクリームなど横浜に住んでいる人なら即座にいくつか思い浮かぶだろう。キリンビールや日産自動車といった横浜発祥の企業もある。

日本の新聞もまた横浜で誕生したもののひとつ。でも、読売新聞社が横浜発祥というのは確かに意外だ。

そこで、読売新聞社に、その前身である印刷会社「日就社(にっしゅうしゃ)」について聞いてみた。



日就社のなりたち



読売新聞グループ本社広報部へ「日就社」について問い合わせたところ、日就社は1870(明治3)年4月、子安峻(こやす・たかし)、本野盛亨(もとの・もりみち)、柴田昌吉(しばた・まさよし)の3人の共同事業として創立された。
 


現在の横浜市中区弁天通マップ(GoogleMapより)
 

元弁天は現在の地名にはないが、だいたいこのあたり(GoogleMapより)


横浜運上所(税関などの機能をもつ役所)に勤務していた子安峻が初代社長。柴田昌吉は神奈川裁判所通訳・翻訳係を拝命して子安と知り合い、その柴田の知人であった本野盛亨は外務一等書記官としてロンドン駐在などを経験した人物。外国語に堪能なこの3人が作った日就社は、印刷業のかたわら、英和辞書を刊行する。
 


県庁の敷地に、子安と柴田が勤めていた運上所の石碑が残っている


開国間もない日本にあって、英和辞書は海外の文物や制度を移入していく上で必要不可欠なもの。その時代の要請に応えるため、子安峻らは約3年間、公務以外の一切の交際を絶ち、1873(明治6)年1月、5万5000語からなる英和辞書『英和辞彙(じい)』を刊行した。
 


日就社が印刷、発行した英和辞書『英和辞彙』(提供:読売新聞グループ本社広報部)


明治時代初期の横浜にあって、外交などの公務のかたわら5万5000語の辞書を編纂(へんさん)するというのは気の遠くなるような作業だ。いったいどんな公務をしていたのか調べてみると、子安峻が日本の外交史の中でも特筆すべき事件で大きな役割を果たしていた。



横浜で外国船の奴隷解放に尽力



読売理工学院の理事長だった竹内繁氏の著書『読売新聞の創始者 子安峻』(1992年、日本生産性本部)によると、子安峻は、岐阜大垣藩士で幼名は鉄五郎。長州藩出身の吉田松陰らと共に佐久間象山に砲術を学んだ時、オランダ語の習得を許されたことが語学に親しむきっかけとなった。
 
いったん帰藩した後、大阪の蘭学者・緒方洪庵(おがた・こうあん)の高弟(こうてい:優秀な弟子)である村田蔵六(後の大村益次郎)に師事。村田蔵六の私塾「鳩居堂(きゅうきょどう)」で塾頭を務めた後、幕府の蕃書調所(ばんしょしらべしょ:洋学研究機関)教授手習に登用され、学問の道を進む。
 


穏やかで優しそうな表情をしている子安峻(提供:読売新聞グループ本社広報部)


語学の才能を買われて横浜運上所の翻訳通訳係を拝命したのが横浜と子安峻のつながりのはじまり。運上所は、外交事務や関税を取り仕切るほか、幕府の外務、港の行政や警察業務、そして船の製造や修理の監督までを行う総合的な役所だった。役所の名前は「神奈川奉行所」「神奈川裁判所」など時代とともに変遷するが、子安峻は一貫して翻訳や通訳の仕事をしていた。

子安峻がその才覚を発揮したのが、マリア・ルース号事件だ。この事件の発端は、1872(明治5)年6月、台風で船体が破損したペルーの汽船マリア・ルース号が横浜港に寄航し、2人の清国人が同船から逃げ出して英国軍艦に助けを求めたことだった。
そのことがきっかけとなり、マリア・ルース号に清国人の奴隷231人が乗っており、船はマカオからペルーに向かう途中だったことが判明した。
 


横浜港は当時、外国からの船にとって日本の表玄関だった


神奈川県令(現在の知事)だった陸奥宗光がマリア・ルース号の船長を呼んで事情を聞くが、船長は奴隷ではなく移民だと主張。この事件処理を巡り、陸奥や司法卿(きょう)の江藤新平が「外国同士の争いごとに介入して対日感情の悪化を招くのはよくない」と唱えたのに対し、外務卿の副島種臣(そえじま・たねおみ)は「国内で起きた問題なのだから、主権国家として日本が対処すべき」と主張する。
 
結局、英国の主張も後押しとなって日本の裁判で処理することになり、神奈川県庁に臨時法廷が置かれた。
 


現在の県庁は1928(昭和3)年に創建されたもの


この時、外務小丞(しょうじょう:外務省内の役職のひとつ)だった子安峻が、通訳兼翻訳方として奴隷解放を日本政府代表として訴える。裁判では「奴隷解放」の判決が出るが、ペルー側は不服として日本政府に損害賠償を要求。国際裁判の場で裁かれることになり、第三国のロシアの裁定で日本は全面勝利した。この裁判で英文の趣意書を書く一方、各国の在日公使に日本の立場を説明してまわるなど、法廷の内外で活躍したのが子安峻だったのだ。

この事件に関して、子安峻が日就社から記録をまとめたものを出版している。その本が横浜開港資料館に所蔵されていた。この『秘魯(ペルー)國マリヤルヅ舩一件』だ。
 


『秘魯國マリヤルヅ舩一件』の表紙(横浜開港資料館所蔵)

 

奥付には、「横濱日就社印行」と記されていた(横浜開港資料館所蔵)


奴隷解放はそのころの世界の趨勢(すうせい)になりつつあったとはいえ、マリア・ルース号事件が起こったのは1872(明治5)年。アメリカ大統領リンカーンが奴隷解放宣言に署名した1863(文久3)年からまだ10年にも満たなかった時期に、横浜で奴隷解放に尽力し、大きく貢献したのが子安峻だったのだ。