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三浦半島に戦時中、「人間機雷」の基地があったって本当?

ココがキニナル!

「伏龍」の記事で衝撃を受け調べたら、人間魚雷「回天」基地が横須賀小田和、自爆ボート「震洋」基地が三浦小網代と油壺にあって空襲によると思われる戦死者が出ているみたいなので調べて(ホトリコさん)

はまれぽ調査結果!

横須賀市の小田和湾、三浦市の油壺、小網代、松輪に海軍水上特攻隊の基地はあり、油壷では6名が戦闘で亡くなっている

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ライター:やまだ ひさえ

太平洋戦争において「特攻隊」といえば、ゼロ戦による空からの攻撃を思い浮かべる人は多いだろう。

しかし、空ではなく海を戦場とした水上・水中特攻隊がいた。
 


水上特攻兵器「震洋(しんよう)」(『写真集人間兵器震洋特別攻撃隊』より)
 



水上・水中特攻兵器はなぜ生まれた



1942(昭和17)年6月、ミッドウェイ海戦での敗北。

悪化の一途をたどる戦局を挽回するために、旧日本海軍が最後の望みを託したのが、水上・水中特攻兵器だった。

「特殊奇襲兵器」による作戦を提言したのは、軍司令部第2課長の黒島亀人(くろしま・かめと)大佐。山本五十六(やまもと・いそろく)の参謀として、真珠湾攻撃を成功に導いた人物だった。
 


黒島大佐(フリー画像)
 

1944(昭和19)年4月、提言をもとに9種の特攻兵器の開発が公式に決まり、軍都・横須賀にあった横須賀海軍工廠(よこすかかいぐんこうしょう)でも「震洋」「海龍(かいりゅう)」「蛟龍(こうりゅう)」「伏龍(ふくりゅう)」の開発が行われた。
 


特攻兵器の開発をおこなった横須賀海軍工廠(『横須賀案内記』より)
 

人間魚雷「海龍」(フリー画像)
 

小型潜水艦「蛟龍」(同)
 

人力で処理するための簡易潜水具「伏龍」(同)
 

爆装体当たり艇「震洋」(『写真集人間兵器震洋特別攻撃隊』より)
 

震洋は、黒島大佐の提言により誕生した新型の特攻兵器。モーターボートに爆薬を搭載するタイプで、海軍が採用したもののなかで唯一の水上特攻兵器だ。

開発が行われた1944年当時は、既に航空機不足、資材不足が深刻な状態になっており、軍司令部が求めたのは、軽量で量産できる震洋の開発だった。

そのため国内で簡単に手に入るベニヤ板が選ばれ、エンジンも自動車用のガソリンエンジンが使われた。
 


ベニヤ板は一定の強度が得られる(同)
 

軽くて加工しやすい(同)
 

短期間に6200隻の震洋が作られた(同)
 

1人用の震洋Ⅰ型は、全長5.1メートル、幅1.67メートル。250kgの爆弾を搭載した船首部分のすぐ後ろにエンジンを配置するという非常に危険な構造だった。
 


震洋の図面(『海軍水上特攻隊震洋』より)
 

緑の船体から「青ガエル」と呼ばれていた(フリー画像)
 

「震洋」、「海龍」、「蛟龍」、「伏龍」の4艇のなかで実際に戦闘に用いられたのは蛟龍と震洋だけだ。蛟龍は、沖縄戦で基地が米軍に制圧されるまで、戦果をあげている。

また震洋は、フィリピンのレイテ沖の海戦や沖縄戦に投入されるとともに、米軍の本土上陸に向け、日本国内にも配備された。