航空写真に写る米軍施設から伸びる謎の軌道とは?
ココがキニナル!
磯子区上町の米軍施設近くに残る橋梁と思われる橋台。1956年(昭和31年)に米軍により撮影された航空写真には、川岸に至る軌道または道路のようなものが写っていますが、これは何?(ペテン師さん)
はまれぽ調査結果!
米軍のボイラー施設の石炭運搬用のトロッコの軌道であった。1948(昭和23)年に作られ、約10年使用されたものの必要性がなくなり撤去された
ライター:小方 サダオ
米軍住宅の施設と掘割川をつなぐ軌道
投稿によると磯子区上町の米軍施設から軌道のようなものが出ていたという。
この米軍施設とは、「根岸住宅地区」のことだ。
横浜市のホームページによると、「根岸住宅地区」は1947(昭和22)年に接収されたもので、現在は在日米軍横須賀基地司令部の管理下にある。土地面積は約429平方メートルで、米軍人、軍属、およびその家族が居住する住宅棟として使用されている。日米間で返還方針が合意されている。
根岸住宅地区からの軌道があった場所(青矢印Googlemapより)
一等馬見所が印象的な旧根岸競馬場の隣接する米軍の住宅地区であるが、投稿の軌道らしきものは、反対側の掘割川沿いにあった。
旧根岸競馬場(緑矢印)と軌道のあった場所は離れている(青矢印)
航空写真を確認してみると、確かに1948(昭和23)年から1956(昭和31)年にかけて、掘割川に向かって伸びる軌道のようなものが写っている。
1948(昭和23)年の航空写真に写る軌道(青矢印)
1948年の写真を拡大。北部の橋と対照的に陸に橋がかかっているように見える(青矢印)
1956年の航空写真にも軌道らしきものが写っている(青矢印)
しかし1961(昭和36)年の航空写真を見てみると、そこには写っていない。これはなぜだろうか。
1961年の航空写真に写っていないのは撤去されたからだろうか(青矢印)
そこで軌道の痕跡を求めて、現地に向かった。
掘割川沿いの道路を天神橋のあたりで一本奥へと入ると、投稿の米軍施設がある。
掘割川は明治時代に作られた人口河川
架け替え工事中の天神橋
天神橋の交差点
交差点の左側を進むと施設のゲートには立ち入り禁止の看板がある
施設の前を通る細い道
航空写真には、北側にある天神橋と同じくらいはっきりした橋のようなものが写っているが、それを現地で確認しようとしても、その痕跡さえも見当たらない。
周辺住民によって語られる軌道の正体とは
そこで米軍施設の近くに住む町内会関連の活動をしている男性に伺うと、現場まで出てくれて分かりやすく説明してくれた。
「昭和30年代前半にはその軌道はありました。ここは米軍のボイラー施設で、川から船で運んできた石炭をトロッコに積むための高架の線路でした。今はその軌道を支える土台しか残っていません。その土台から先は川の中にあった柱が軌道を支えていました」
トロッコの軌道を支えていた土台
何かを固定するためだったのか、四角い穴がいくつも開けられている
軌道は施設内の土台 (青矢印) と川の中に設置された柱で支えられていた
「1台のトロッコはクレーンがついていて、そのクレーンで後ろのトロッコに船からの積み荷を積むものでした。
男性の話を基にしたトロッコと軌道のイメージイラスト
燃料が石炭から重油に変わってからは、タンクローリーにより道路で運ぶことになって、使われなくなりました」という。
川が運搬手段になっていたとは今ではあまり聞かない話だが、写真に写っていた施設と川をつなげる軌道は、川からの物資を米軍施設内に運搬するためのトロッコの軌道だったのだ。
施設内にある燃料タンクと思われる設備
米軍施設に関しては、「昭和30年代から施設には柵はありましたが、近隣住民の通行のためなどに、ほとんど開放されていました」
「そのため子どものころは中に入って、施設内に置かれていたトロッコをおもちゃにしたりして遊んでいたのです」
町内の行事が行われるなど、地域に密着した米軍のボイラー施設だったようだ
「中の空き地では町内の盆踊りなども行ったりしていましたが、2001(平成13)年のアメリカが起こしたアフガニスタン紛争の時に、過激派が抗議の意味で施設に向けて迫撃砲を撃ったのです。そのため米軍がテロなどの重大犯罪を警戒するようになり、柵は閉められました」と答えてくれた。
米軍接収地内のボイラー施設とは
それではこのボイラー施設とはどのようなものであったのだろうか。
『根岸と磯子を歩く』という資料に、この施設についての記述があった。
1949(昭和24)年の米軍接収地区を示す地図(神奈川の米軍基地)に描かれた軌道(青矢印)
接収地区から伸びる軌道(青矢印)
薪も炭もない敗戦後の日本人にとって、冷暖房完備の米軍家族住宅は夢の世界に思えたという。
米軍住宅地区である小港の「エリア・ワン」から競馬場周辺の「エリア・エクス」まで、多くの住宅に冷暖房を供給したのが、間門・小港と、ここ中村の米軍ボイラー施設であった。石炭をふんだんに使用して発生した蒸気を地下埋設パイプで各戸に供給していた。
また、戦時中まで施設の隣の場所に住んでいたが建物疎開で家を撤去され、戦後再び元の場所に戻ってきたという男性は、「崖に大きなトンネルがあり、そこからパイプを山の上の住宅地の地下に這わせて蒸気を送っていたそうです」と教えてくれた。
横浜市のホームページにはこの地区の住宅が385戸もあったとのことで、ボイラー施設群が必要だったのだろう。
煙突のある施設内の建物はボイラー設備と関連があるのだろうか
また米軍のトロッコについては『子供が見聞きした戦中戦後』に、「宅地造成に関わる作業員は、トロッコなどで土を運ぶのもブルドーザーを操縦するのも、日本人だった。土を積んで何両も連結したトロッコの一番後ろに立ち乗りした作業員が、丸太棒のブレーキを操りながら急傾斜の線路を下がっていく様子を『格好いいなぁ』と思いながら見ていた。子どもたちは作業員がいないのを見定めてトロッコに乗ったり、トロッコの車輪だけを転がしたりして遊んだ」との記載がある。
前出の男性の話のように、トロッコは子どもたちにとって遊び道具になっていたこともあったようだ。
前出の土台(青矢印)に向かって施設内から軌道が伸びていた
さらにトロッコが作られたころをよく知る、施設の近く山際に古くから住むある男性が話を聞かせてくれた。
「私たちは1947(昭和22)年にここに移り住みました。トロッコが作られたのは、1949(昭和24)年ごろです。道路上に柱はなく、施設側の土台と鉄塔だけで支えられていたため、道路から4メートルほど上に線路が通っていましたが、下には柱もなく通りやすかったです。トロッコにはモーターがついていて、後部に乗った作業員が運転していました」
「鉄塔の下の空間に石炭を積んだ船が止まると、鉄塔の上までトロッコを動かし、巻き上げ機のようなもので船から降ろした積荷を上げてトロッコに載せていました」
土台(青矢印)から川の間の軌道の下には柱はなく、すっきりしていたという
「私が知る限りでは、週に1・2回のペースでトロッコを使用していたようです」と話をしてくれた。
川が運搬手段になっていたことが意外に思ったことを伝えると、「今より自動車での運搬が一般的でなかったころは、掘割川沿いの造船工場への物資運搬によく使われていました。遠方の千葉県からの砂利運搬なども行われていました」と答えてくれた。