航空写真に写る米軍施設から伸びる謎の軌道とは?
ココがキニナル!
磯子区上町の米軍施設近くに残る橋梁と思われる橋台。1956年(昭和31年)に米軍により撮影された航空写真には、川岸に至る軌道または道路のようなものが写っていますが、これは何?(ペテン師さん)
はまれぽ調査結果!
米軍のボイラー施設の石炭運搬用のトロッコの軌道であった。1948(昭和23)年に作られ、約10年使用されたものの必要性がなくなり撤去された
ライター:小方 サダオ
米軍の接収前は日本軍の施設であった
トロッコと軌道については米軍施設のものであったが、現地でさらに取材をしていると、この施設に関して意外な事実が浮上した。ここが米軍に接収される前は、同じ場所に日本軍の関連施設があったというのだ。
当時のトロッコの様子について話してくれた先ほどの男性によると、「米軍の施設になる前は、山肌に大きな穴が開いていて、その中は旧日本陸軍の弾薬を保存する弾薬庫だったと、知り合いから聞きました。以前は柵もなく敷地内に入れたのですが、その時に山肌に幅4メートルほどの穴があり、大きな扉がついていたものを見ました」
「掘割川を挟んだ山にも旧日本軍の弾薬庫のための穴があり、旧日本陸軍関連の施設がいくつもあったようです」とのこと。
米軍施設の前は旧日本軍の弾薬庫であった可能性がある
続いて、接収前の施設について証言をしてくれたのは、天神橋を南下した根岸橋の近くにお店を構える男性。
「戦時中、空襲がひどくなったため、杉田にあった石川島飛行機製作所は、今の米軍施設内の崖に防空壕を掘り、飛行機部品を作る工場にしたのです」
山際に旧日本軍関連の施設があった
「川からポンポン船(小型の蒸気船)でやって来て、飛行機のボディーなのでしょうか、覆いのされた材料らしきものが施設内に運ばれて行くのを見たことがあります。しかし軍の施設だったので、民間人は近寄ることはできず、どこに防空壕が掘られていたのかなど、詳しい状況は分かりませんでした」
「私も学徒動員で近くの工場で働かされましたが、材料がないので何もすることがなく、防空壕ばかり掘らされていたのです。そのためこの防空壕の工場でもあまり仕事はなかったのではないでしょうか?」とのこと。
旧日本軍によって防空壕の工場が作られるも、材料不足で仕事にならなかったようだ。
ボイラー施設と同じく、旧日本軍の工場も川から材料を運んできたという
ボイラー施設時代の様子についても教えてくれた。
「米軍のボイラー施設のときは、そこで働く日本人を募集していて、『ボイラーマン募集』などの広告が出ていたのが記憶にあります。運んできた石炭は防空壕の中に保管していたようです」と男性。印象深かった記憶だったのだろうか、生き生きした様子で話をしてくれた。
米軍施設側は燃料の保管場所として旧日本軍の防空壕を使っていたという
米軍施設の前は石川島飛行機製作所の施設があった?
投稿の施設があった場所は、戦時中旧日本軍の弾薬庫だったという話も出たが、石川島飛行機製作所があったのと話も出た。それを証明するものはないかと『日本飛行機80年史』という文献を調べてみることにした。
まずは歴史を見てみると、石川島造船所が航空分野に進出したのは、1924(大正13)年であり、東京月島に株式会社石川島飛行機製作所を設立した。1934(昭和9)年、日本飛行機設立。1937(昭和12)年、本社工場の生産設備の拡充をはじめ、磯子区富岡町字昭和町杉田の新工場が竣工。
その後、1940(昭和15)年に横浜工場が完成した。1945(昭和20)年、空襲を避けるために地下工場に作業の分散を開始するも、同年8月17日生産停止命令が下ったという。
金沢区昭和町にあった石川島航空工業(青線)と日本飛行機(緑線)
石川島飛行機製作所が作っていた「栄エンジン」
そして戦時中の記録についての箇所があり、その中に投稿の場所の施設について書かれたと思われる記述を発見した。
「1942(昭和17)年、増産計画に遅れがあり、製品の供給は枯渇気味。1943(昭和18)年9月召集礼状が来て、工場から同時に20人も一緒に出て行った。中には第一級の熟練工が数人いた。愚かな動員令であると密かに思った。熟練者が次々と兵役に出され、この補充は未経験者を充てるという悪循環で生産低下が憂慮された」とのこと。
戦時中は熟練工が召集令状で出て行ったため、前出の男性のように学徒が働くことになったのだろう。
終戦直前に日本飛行機が製作した試作機
そして空襲を避け、天神橋、青砥、六浦、富岡、横須賀、千葉など地下工場やトンネル工場に疎開したが、ほとんど稼働しないうちに終わったと書かれている。
前出のように、投稿の施設が掘割川沿いの天神橋の近くにあることを考えると、ここにある「天神橋」の地下工場とは、投稿の場所にあった防空壕の工場のことなのではないだろうか。
特攻兵器などの部品を作った横須賀の地下壕
この場所にあった旧日本軍の施設とは、石川島飛行機製作所が正しいようだ。その後米軍住宅のためのボイラー施設になるとは作った人も思いもよらなかっただろう。
ところで投稿の場所では旧日本軍の施設を米軍が接収した形になったが、そのような事例は多いようだ。
神奈川県のホームページによると、在日米軍海軍司令部のある横須賀海軍施設は旧日本軍の海軍工廠を接収したものであるし、厚木海軍飛行場も日本海軍の厚木海軍航空隊の基地を接収したものだ。
空襲は投稿の場所の工場等に影響を与えた
また『日本飛行機80年史』内に、山梨師範学校女子部の石川島航空工業における戦争体験の箇所に、根岸の周辺に会社寮や工場があったことを示す記述がある。
「1944(昭和19)年に学徒勤労令が公布された。山梨師範女子部では、同19年10月に本科2年生などが中島飛行機などに動員された。・・・春になって山手の丘が張り出し、海との間のわずかな平地にある宿舎に引っ越した。柱に『皇国第○○号石川島航空工業株式会社』、片方の柱に『山梨師範学校女子部宿舎根岸寮』との表札が掲げられていた」
「5月29日仕事にかかると警戒警報が入った。『今横浜が空襲されている。B29とP51が爆弾や焼夷弾を落としている』という。根岸寮は幸い無事だった。寮にいた組は裏山の根岸競馬場あたりまで行き、眼下の市街地の延焼を見てきた」とある。
航空機を空襲から守る目的で作った野島の掩体壕
また同著には、「海沿いの道の所々でトロッコで土を海へと運んでいた。丘陵に防空壕を造っているのだ。出来た地下壕に工場の機械の疎開がはじまっていた」という記述もある。
根岸の寮などがあった場所(赤丸)と八幡橋(緑矢印)。投稿の場所(青矢印)
投稿の山際にも同じような形で地下工場を作ったのではないだろうか。
最後に神奈川県政策局基地対策部基地対策課の担当者に投稿の施設への取材について、在日米海軍横須賀基地司令部に聞いてもらったところ、残念ながら取材拒否とのことであった。
取材を終えて
投稿の場所には、旧日本軍の疎開工場の跡を接収して米軍施設となった変遷があったようだ。大戦末期に旧日本軍の関連施設が背水の陣で造った地下工場の跡地に、米軍が接収で入って来て“夢のような施設”の一部として利用したことが対照的に感じた。
掘割川の中に残る軌道を支える柱の跡と思われるもの
―終わり―
団長さん
2017年09月06日 12時17分
記事の中に、日本飛行機の文字があり、亡くなった父の事を思い出しました。終戦当時、日本飛行機で働いていた父は、練習機赤トンボという飛行機を造っていたそうです。私は父が歳をとってから生まれた子供で、父からたくさんの横浜の話や戦争前後の話を聞きました。磯子のプールセンター辺りは飛行場だった事、磯子の旧プリンスホテルの辺りは紅取ゴルフ場だった事、堀割川沿いに当時としては珍しい水を店内に引き込み、活魚を提供していた飲食店があった事など、はまレポでも色々調べて下さい。
ペテン師さん
2017年09月05日 23時02分
ご丁寧なレポートありがとうございました。 ずぅ~と前から気になっていたのですが、やっぱり軌道だったのでしたね!
ushinさん
2017年09月05日 20時46分
敗戦後マニア、いや違う廃線跡マニアとしては「なにか在る」と、ずっと気にはしていました。現在米軍接収地ですが、旧日本軍時代から何かあったのだろうと思って調べても、その当時の航空写真には存在しない(ように見えた)。構造からも道路ではない(まず対を成す橋台が無く、このような形で対岸に渡るような風には考えられない)。まさか、川中に橋脚を立てたトロッコ桟橋だったとは・・・(トロッコの写った航空写真、本当に初見です。スバラシイ!)ほんと、こういう系統の記事は優秀だわ>はまれぽ