横須賀の鷹取山にある岸壁をくりぬいた洞窟は何に使われていた?
ココがキニナル!
追浜の鷹取山の磨崖仏の近くに、岩が丸くくりぬかれた部屋のような空間が2つあり、いずれも出口の部分が海に向いてます。地元の方は、砲台の跡ではないかと言ってましたが、真相を調べて欲しいです(ときさん)
はまれぽ調査結果!
摩崖仏の近くにある洞窟は石切り場の跡だが、すでに住宅地となった湘南鷹取周辺には、戦時中見張りの待機所などとして、旧日本軍に使用されていた洞窟があった
ライター:小方 サダオ
四角い穴は何に使われていたのか
四角い穴は石を切り出した跡のようだが、鷹取山から切り出された石は、軍施設に利用されていたと興味深い話を聞けた。
石切り場について井上さんは「『鷹取石』の石切り場で、石はさまざまな使われ方がされました。1894(明治27)~1895(明治28)年の日清戦争のころ、中国からの軍艦を狙い撃つために、海軍が夏島のあたりの人工島に砲台を建てました。その砲台が重みで沈まないように、土台として鷹取石をコの字型に組んで使用したのです」という。
鷹取山(青枠)と夏島町(緑枠)(© OpenStreetMap contributors)
「また鷹取石は1923(大正12)年くらいまでは有名でした」と話してくれた。
鷹取山から切り出された石は、横須賀という場所だけあり、初期の明治のころは軍部の施設のために重宝されたようだ。重機の土台として使いやすかったのだろう。
明治期に作られた陸軍による測量地図。青矢印は鷹取山
さらに鷹取石について『ときめき探訪 三浦半島』によると「鷹取山はこのあたりでは最も高い山で、浅間神社が祀られ、『神宿る山』となっており、江戸時代には幕府直轄の御林となっていた。明治時代には金沢の瀬戸神社の関係者の所有となり、木々が伐採され、山肌が出たことで、石材発掘が始まった」という。
「本格的に発掘されたのは1877(明治10)年ごろ。当初は所有者の自家用材だったが、日清戦争後、東京湾防衛のために海堡(かいほう:海上に作られた砲台)が築かれるようになったことで大量の石材が必要になり、採掘業が急速に発展し、その石材を『鷹取石』と呼ぶようになった」
「明治後期から大正時代が全盛期。1923(大正12)年9月の関東大震災で、急速に石材利用は寂れた。一つは地盤が隆起し、鷹取川に運搬用の船が入れなくなった。もう一つは震災後、セメントの普及が進み、需要がなくなったこと」とある。
鷹取川(青矢印)と鷹取山(緑枠)(© OpenStreetMap contributors)
鷹取石を山から船で運ぶのに使った鷹取川
関東大震災で地盤が隆起したため海に船を出せなくなったという
「鷹取石」はどのようなものに使われたのか
前出の鷹取石が土台として使われた夏島の砲台は、横須賀市の日本遺産構成文化財となり、見学も可能となっている。
東京湾第三海堡についてホームページには、「東京を防護するため東京湾口に設けられた砲台を設置するための人工島。1892(明治25)年の着工以来、当時の土木・建設技術を結集して30年間に及ぶ難工事の末、1921(大正10)年に竣工したものの、わずか2年後の関東大震災によって崩壊し、海中に没した」とある。
この第三海堡には、15cmカノン砲4⾨、10cmカノン砲8⾨の⼤砲と探照灯などが装備され、⾯積は3万4000平方メートルあったという。
東京湾第三海堡遺構
深い海中に建設するなどの理由で難工事といわれたという
探照灯、砲台砲側庫、観測所などの建物が展示されている
NPO法人アクションおっぱまによる案内板
CGで復元された海堡の全体像
第一から第三までの海堡があった
観測所の建物
NPO法人アクションおっぱま理事長の昌子住江(しょうじ・すみえ)さんに、海堡と鷹取石の関係について伺うと「『東京湾第三海堡建設史』という文献に、人工島の建設用材として鷹取石が使われたとの記載があります。鷹取石が使用されたのは人工島の部分で、上部は基本的にコンクリート構造になっています」とのこと。
また鷹取山の砲台については「正確な場所は分かりませんが、湘南鷹取には、第二次世界大戦中の海軍の高角砲台があったと聞いています」という。
世界でも例の少ない、人工島の土台として鷹取石が使われたことで、明治期から鷹取山の名が軍部を中心に知られていたのかもしれない。
鷹取石による個人宅の塀
鷹取石が使われた塀
最後に個人宅で使用されている例を紹介したい。
金沢区の山下さん宅の塀は大正時代から使われていて、約95年間前のものになるという。一部が市販のブロック塀に代わったり、コンクリートで補修が加えられているものの現在まで鷹取石を使っているのは、長年の愛着からなのかもしれない。
海岸線にあった山下さんの家の前の道路は、数回にわたって埋め立てられたため、以前は縦に15列あったブロックが今は5列分しか地上に顔を出していないとのことで、驚きだ。
道路の下には10列分の壁が埋もれているという
水に強いが風にもろいという
取材を終えて
戦時中鷹取山に築かれた防空陣地は大掛かりなものであり、山全体が軍の施設内であったといえるかもしれない。
鷹取山は良質の石が取れたことで、さまざまなものに利用をされたようだ。時代によっては砲台の台座に使われたり、個人の家の塀になったり、仏像に姿を変えたり・・・。「神宿る山」の岩が、人々の営みを静かに見守っているように感じた。
森の中にたたずむ「弥勒菩薩」像
-終わり-
白髪ハウルさん
2018年08月10日 23時56分
とても興味深い記事でした。少し前に鷹取山を訪れ、記事の中にある壁画が何なのか気になっていたので、自分にとっては大変タイムリーで、疑問も晴れ助かりました。願わくば、続編として一作目の磨崖仏の在りし日の姿や、一時期存在したとされる「地獄めぐり」なるアトラクションにまで追加調査をして頂きたいです。