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ハワイにヨコハマ?オアフ島の「ヨコハマ・ベイ」は横浜に関係あり?

ココがキニナル!

ハワイに行ってきた友人が、オアフ島に「ヨコハマ・ベイ」というビーチがあったと言ってました。横浜市に関係あるんでしょうか?(マリンルージュさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

横浜出身の日本人移民が釣りをしていたという説があり。横浜はハワイ移住への出発地点だった。

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ライター:ほしば あずみ

海外移住資料館でハワイ移民にせまる(つづき)


 


サトウキビ畑の女性たち。1888(明治21)年カウアイ島


女性はサトウキビ畑で、男性は製糖工場で働いた。写真を見ると労働者は日本人だけではない。中国人、ハワイ人、東欧、南欧、さまざまな人種が混ざってみんなで働いていたという。そのため次第に文化も混ざりあっていった。
 


サトウキビ畑で働く様子を再現した展示も
 

絣の着物に、手甲(手出し)はデニム地。洋の東西の労働着だ
 

地下足袋の底には擦り切れないようにタイヤを切って貼り付けた


移住の契約は3年単位。国同士の契約が終わる1894(明治27)年までに、2万9139人(うち女性5799人)が渡航した。契約終了後、帰国した人たちもいるが、ハワイへ残った人たち、さらにカリフォルニアなどに渡った人たちもいた。
 


仕送りのために横浜正金銀行はハワイ支店があった(国立国会図書館デジタル化資料より)

 


勤勉さゆえに移住先で排斥されていった日本人



官約がなくなったあとは、移住斡旋業社などにより私約移民、自由移民としてハワイに渡っていたが、ハワイは1893(明治26)年のクーデターを経て、共和国となり1898(明治31)年にはアメリカに編入される。

ハワイやカリフォルニアなどに渡った日本移民の定住はその勤勉さゆえにアメリカや他国の労働者の脅威となり、次第に日本人移民を排斥する気運が高まったという。
 


資料館の入口に展示されている、オレゴン州ポートランドのバラ祭りの山車(フロート)


「ポートランドでは、毎年6月にバラ祭りが行われバラで飾り立てた山車(だし)で出来栄えを競いあうんです。1920(大正9)年、日本移民たちは高くて買えないバラのかわりに自分たちが収穫した野菜で飾りたてた山車で、優勝しました。屋根は半分が星条旗、反対側は日の丸のデザイン。知恵をしぼって工夫をするという日本人の素晴らしさが、かえって脅威となってしまったのかもしれません」と長瀬さん。

1924(大正13)年には移民法の13条C項を一部改訂、「排日移民法」とも呼ばれたこの法律で日本移民は土地の売買などにも制限がかけられ、家族の呼び寄せや帰国した移民の再渡航といった例外を除き、新規の移民は禁止される。
日本の移民は以降、ブラジルなどの中南米へと流れが向かう。
 


官約移民以前の「元年者たち」



ところで、実は「官約移民」が渡航する以前に「非公式」の移民も存在した。
横浜開港後の1868(慶応4)年に江戸幕府からハワイ移住に関する許可を獲得したことを根拠に、移住希望者を募集したユージン・ヴァン・リードという人物がいる。
 


幕府発行のパスポート「御免の印章」1866(慶応2)年発行


ヴァン・リードは300人分の渡航印章(旅券)を受けていた。
当時、渡航が許可されていたのは留学生、芸人、商人、使用人といった人々。移民は認められていなかった。

幕府が倒れ明治政府となり、政府はハワイとは国交がなく幕府との交渉は無効としたが、ヴァン・リードは1868(明治元)年、ひそかに東神奈川沖へボートで漕ぎ出し、無許可のまま153人の渡航者を英国船籍の「サイオト号」に乗せ、ホノルルへ発った。

到着までに1人が命を落としたが、彼ら最初のハワイ移民は、明治元年に移住したことから「元年者」と呼ばれている。
 


資料館の特別展では書家浜野龍峰氏による「元年者(がんねんもの)」の名の篆刻(てんこく)を展示


日本政府にしてみれば、人さらい同然の行為であり認められるものではない。後年政府側もハワイ国に渡り抗議を行っているが、これが契機となり1871(明治4)年にハワイ国との間に日布修好通商条約が締結された。

元年者たちは月のうち26日労働、食費と住居は雇い主持ちで月4ドルという契約だったが、当時はメキシコドルで日本円に換算すると1両にも満たず、物価の高さに酒も買えないありさまだったという。

また、味噌や醤油といった日本食もなく元年者たちは相当な苦労があったと想像される。
 


取材をおえて



1902(明治35)年に出版された『新布哇(しんハワイ)』(藤井秀五郎<玄溟> 著/文献社)は、当時のハワイの風土や地理、労働者たちの暮しを伝えるが、その地図に「ヨコハマ・ベイ」の文字はない。
 


カエナ耕地あたりが「ヨコハマ・ベイ」に近い(国立国会図書館デジタル化資料より)


地勢などを紹介している本文中にも「ヨコハマ・ベイ」は登場しない。
「移民のみなさんが、勝手にそう呼んでたんじゃないでしょうかね」と長瀬さんは笑う。

「官約移民」も、それ以前の「元年者」も、横浜からハワイへ旅発った。ヨコハマ・ベイは、オアフ島で最も日本に近いビーチだ。日本人移民はそれを知っていて、休暇で訪れては遠いふるさとをしのび、みんなの共通の旅立ちの地、横浜の港を思いだしていたのではないだろうか。


―終わり―
 

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  • 横浜さんと言われていた個人の名だと、相楽晴子が言っているのをTVで見たけどな。別の場所かな。

  • 最近のはまれぽは上海に行ったりハワイに行ったりと、景気がいいなと思ったら、今回はこういうことでしたか。でも、記事は勉強になりました。

  • 調査いただきありがとうございました。当時の日本人がどういう気持ちで横浜から旅立って行ったのか、想像すると感慨深いものがあります。海外移住資料館の展示も興味有るので足を運んでみようかと思います。

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