昭和初期に1年足らずで閉鎖した幻の映画撮影所「シネマパーク子安撮影所」について教えて!
ココがキニナル!
1927年に開設された「シネマパーク子安撮影所」について知りたいです。松竹は大船に移転しますが、そもそも第一候補は戸塚でした。このあたりの経緯とも繋がる?(katsuya30jpさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
「シネマパーク子安撮影所」は松竹鎌田撮影所の西七郎氏が作った貸しスタジオ。大船への移転とは繋がりはない。
ライター:橘 アリー
遠方からも役者の追っかけ族がやってきた!?
前に書いたように、当時は小さなプロダクションが多かったが、その一つに、松竹所属の人気俳優だった諸口十九(もろぐち・つづや)が、1927(昭和2)年に松竹を退社して作った「諸口十九社」があった。
松竹百年史に載っている、1922(大正11)年当時の諸口十九
この「諸口十九社」は数名の有力者の後ろ盾を得て作られたが、その有力者の一人に横浜と関わりがあり、「直木賞」の由来となった小説家、直木三十五(さんじゅうご)がいた。
富岡の直木三十五宅跡にある文学碑の様子
その直木三十五も、1925(大正14)年に「聯合(れんごう)映画芸術家協会」という映画会社を創設し、映画を作っていた。
そして、「諸口十九社」「連合映画芸術家協会」とも、「シネマパーク子安撮影所」で映画の撮影をしていたようだ。
撮影所ができたばかりで、まだ建物を囲む塀も無かった時から、子安撮影所の建物の壁に「聯合映画芸術家協会撮影所」「諸口十九社撮影所」「マキノ東京派撮影所」「嵐豊之助プロダクション」「山本冬郷プロダクション」などの看板が並んでいたそうである。
そんな様子からも、当時の映画制作者たちが、この撮影所に期待を寄せていたのがうかがえる。
なお、子安の撮影所で最初に撮影された映画は野村芳亭(ほうてい)監督の『白虎隊』(1927〈昭和2年〉公開)のクライマックスシーンであった。
白虎隊の墓の様子(フリー画像より)
このシーンは当初、会津の飯盛山(いいもりやま)で撮影をする予定であったが、撮影予定地の近くに水力発電の放水路などがあったため撮影に支障が出るということになった。
そして、当時の子安撮影所近辺は、国道1号線は開通しておらず、周囲を山林に覆われ、『白虎隊』の舞台である会津の飯盛山を再現するには最適な環境だったので、子安撮影所に大きな野外セットを作って撮影が行われたようだ。
この撮影は、鎌田の俳優を総動員しても足りず、エキストラを300人雇って撮影が行われたという。その上、多くの見物人も押し掛けてきたので、撮影スタッフが縄を張って人混みを整理するのが大変だったようである。
現在の飯盛山からの景色(フリー画像より)
また、「諸口十九社」は会社創立の第一回作品として縮屋新助(ちぢみや・しんすけ)の『美代吉殺し』を撮影した。
ちなみにこの作品はトーキーではなく無声映画で、諸口十九が主演で、相手役の女優は、諸口十九が松竹を退社するときに一緒に退社した、当時の人気女優の筑波雪子だった。
1920(大正9)年撮影の映画『新生』に出演した瀬川鶴子と諸口十九(『松竹百年史』より)
なので、「シネマパーク子安撮影所」は、特に、トーキー専用のスタジオではなかったようである。
なお、諸口十九、筑波雪子などの人気俳優が撮影に訪れていたので、撮影のある日は、生の俳優の顔が見られるというので、地元の子安だけでなく、遠方から“追っかけ族”が押し掛けたそうである。
このように、子安撮影所は、撮影や見物人でにぎわっていたが、しかし、同年(昭和2年)の9月になると経営困難に陥り、一時閉鎖となった。
そして、9人いた従業員の給料が払えなくなり、労働争議になってしまったため、映画の撮影ができなくなり本格的に閉鎖された。
経営困難になった理由について記述された文献はなかったが、おそらく西氏は同スタジオを利益よりも小さなプロダクションが撮影できるようという熱い想いが強かったため、短期間で閉鎖することになったのではないだろうか。
子安撮影所は、1927(昭和2)年の3月に作られて同年の9月に閉鎖という短い命だったが、撮影所の建物は1933(昭和8)年ごろまで残っていたそうである。
今回、残念ながら子安撮影所の写真を見つけることはできなかったが『横浜都市地図』に掲載されている1953(昭和28)年の子安の地図には、建物は残っていないはずだが、「シネマパーク撮影所」という記載があるのを見つけた。
赤丸の所が「シネマパーク撮影所」
そして、同じ地図に、撮影所と記載されている近くに浅野総合中学校と浅野総一郎氏の銅像があるので、昭和初期の浅野総合中学校と浅野総一郎氏の銅像が映っている写真を探した。
当時の浅野総合中学校の様子(『わが町の昔と今より』)
写真右下の白い所が浅野総合中学校で、左の丘の上に在るのが浅野総一郎氏の銅像。明確な撮影時期が何年かは不明だが「シネマパーク撮影所」があったころ、昭和初期のものなので、地図の位置関係をもとに写真を見ると、「シネマパーク撮影所」の場所は写真の左上の方になるのではないだろうか。
このあたりがシネマパーク撮影所だった?
撮影所の建物らしきものは映っていないが、当時の撮影所近辺の様子を知ることができる。
「シネマパーク子安撮影所」があった現在地は、生麦中学校一帯とのことである。
現在地の様子
最後に、茅ヶ崎にあった撮影所について。
小説家たちが撮影所を受け継いだ!?
松竹大谷図書館では、茅ヶ崎にあった撮影所については資料を見つけることはできなかった。そこで、茅ヶ崎市役所生涯学習課の市史編さん室に問い合わせてみた。
すると、茅ヶ崎の撮影所は、当時の茅ヶ崎市小和田6008番地にあり、その近辺は、雲雀丘海岸と呼ばれていたと教えていただけた。
現在の場所で言うと、平和学園(小中学)のある付近である。
茅ヶ崎の撮影所があった近辺の様子
なお、現在、近くにひばりが丘という地名はあるが、当時の雲雀ケ岡とは関係はない別の場所であるとのこと。
撮影所の様子については、茅ヶ崎市史に、約4万坪の敷地内に2つの撮影のための建物が建設されたとある。
ちなみに、茅ヶ崎は明治時代から別荘地であったが、撮影所が作られたこの地域は1921(大正10)年に住宅兼別荘地として開発が行われ、1927(昭和2)年に映画の撮影所ができた。そのことにより、道路、警備、水道、電話、海水浴場などの整備が進められるようになり、将来有望な地域として注目を浴びるようになったそうだ。
小和田(こわだ)は、元は砂地であったようだ
その後、1930(昭和5)年に、撮影所の場所を本社として設立された日本キネマ製作株式会社に継承されたと記されている。
この会社の創立委員長は、小説家の中村武羅夫(なかむら・むらお)なので、神奈川近代文学館の神奈川文学年表で確認してみたところ、「中村武羅夫(43)、加藤武雄(41)、直木三十五(38)らと、日本キネマ製作株式会社の設立を企画し、藤沢の辻堂雲雀ケ岡海岸にあるニホン・キネマ撮影所を継承すると発表する」と書かれていた。(1929〈昭和4〉年12月)
近代文学館の全景
「シネマパーク撮影所」の創設当初から直木三十五は後ろ盾となっていたので、経営が困難になった後、茅ヶ崎の撮影所を引き継いだのであろう。
直木三十五たちの、映画に寄せる熱い思いが伺える。
なお、1932(昭和7)年には、都会から離れていて不便だということで、本社・撮影所ともに東京横浜電鉄の丸子駅前に移転したとなっているが、その後について書かれている資料を見つけることはできなかった。
取材を終えて
「シネマパーク撮影所」は半年ほどの短い間であったが、多くの人々に期待され夢を与えていた。
街を歩いていてテレビドラマや映画の撮影に出くわし、そこに好きな役者がいると胸が時めくものだが、当時は、現代のように役者やタレントが身近な存在に感じられる時代では無かったので、撮影所でその姿を見られたのは、夢のような出来事だったのではないだろうか。
―終わり―
神奈川近代文学館 神奈川文学年表 (http://www.kanabun.or.jp/0f16.html)
ダボスさん
2017年05月27日 17時10分
熱しやすく冷めやすい神奈川県人の気質が良く分かる記事でした。
栄区かまくらさん
2014年12月26日 19時34分
深い取材、素晴らしいです。この撮影所の存在は映画史本でもほとんど語られていないので、とても面白かった‼ありがとうございました。