「吉田新田」を開墾した吉田勘兵衛ってどんな人?
ココがキニナル!
吉田新田を開墾した「吉田勘兵衛」は「よこはまの歴史」で必ず習う横浜で偉大な人物ですが、顔写真や錦絵などの資料は残っていないのでしょうか?どのような方なのか気になります。(おかちゃんさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
12代目吉田勘兵衛氏に確認したところ、肖像画などは残ってないそうです。初代の人柄については、商才にたけた信心深い方だったとのこと。
ライター:河野 哲弥
記念すべき慶讃(きょうさん)法要は、約1時間に渡り行われた
(続き)
現吉田勘兵衛氏はあいさつの中で、「(初代のような)社会貢献事業は世界平和につながる」と、感慨を漏らしていた。これは、初代吉田勘兵衛が深く帰依していた法華経の教えに倣ったもので、個人の意識改革が社会を救済するという、法華経の基本理念を表しているそうだ。
式の最後にあいさつをした、12代目吉田勘兵衛氏
法要が一区切り着いたところで、質問にあった肖像画の件を、現吉田勘兵衛氏に直接尋ねてみた。
すると、初代吉田勘兵衛の肖像画などは残っていないそうだ。
このため、教科書を含めた各資料などでも、その容姿は確認できない。
後日、横浜市歴史博物館にも聞いてみたが、やはり同じ回答だった。
どうやら、12代目のご尊顔から、その面影を察する他ないようだ。
では、その人となりはどうだったのだろう。
これについては、「横浜開拓の先駆者 吉田勘兵衛」などの文献を発表し、親戚の中でも研究家として知られる吉田茂氏が詳しいとのこと。現吉田勘兵衛氏とは、いとこの関係にあたる。
法要の忙しい合間を縫って、数分だけお時間を頂いた。
当時の金額で8,038両、私財をつぎ込んだ埋め立て事業
初代吉田勘兵衛は、前述のとおり摂津国の生まれである。茂氏によれば、身丈は大きくなかったが、山間部で育ったこともあり、体は人一倍頑健だったと伝わっているらしい。
実は、詳細な資料が第二次世界大戦の戦禍で失われてしまい、誕生の月日すらも不明の状態なのだそうだ。今回の法要日は、常清寺の守護である加藤清正公の生誕日が6月24日であることにちなみ、気候やスケジュールなどを勘案して、片山住職から提案された日程とのこと。
常清寺所蔵の資料
話を初代吉田勘兵衛に戻そう。
以下、茂氏からお聞きできたことに加え、常清寺所蔵の資料で補完してみる。
勘兵衛が江戸に出てきたのは1634年、数え年で24歳の頃である。商才があったのだろう、「30代半ばで江戸城修築の御用木材を承り、諸侯お出入りの豪商にのし上った」と、常清寺所蔵の資料にある。今に例えるなら、官公庁や自治体の指定業者にあたる訳だが、現在のような入札制度などはなかった時代である。価格の決定も含めた大幅な裁量が、こうした御用商人には認められていた。
よく目にする「鐘形」の図面
また、当時の江戸は火事が絶えず、消防よりも、火消し組による「壊して延焼を防ぐ」防災が主流であったため、木材商のニーズは常にあった。また、治世の世にならい、寺院や仏閣などの建築ブームがさらに後押しをしたようである。
そんな中、1649年(所蔵資料には1650年)に起こったのが慶安の大地震である。マグニチュードは推定で7.0。約1,000戸の家屋が倒壊し、多くの被害者を出したようだ。時節柄不適切かもしれないが、とにかく吉田勘兵衛の富は不動のものとなった。
しかし彼はその富を、当時の人口増に伴った食糧難の解消に充てようとした。今の東京都荒川区の南千住近辺で、干拓事業を行ったのである。このときの成功が、「吉田新田」埋め立てのキッカケとなったのは言うまでもない。
また勘兵衛は、当時の幕府による「石高千石に達した地主は、社の建立を許す」という布告に大きく心を揺さぶられたようだ。すでに八百石を達成した中、偶然立ち寄った場所が、ここ横浜なのである。
当時の金額で8,038両。今の金額に換算する方法は諸説あるが、仮に1両=10万円とすると、約8億円の私財を投入して干拓事業を開始した。
この後の歴史は、皆さんもご存じと思うので割愛したい。
顔かたちではなく、偉業を残した勘兵衛
法要を終え、会食の時間となったため、常清寺を後にした
今回の取材では、「吉田新田」の研究は進んでいるものの、吉田勘兵衛本人の人物像は意外と伝わっていないことが分かった。ここ久保山の地で、ご本人はそのことをどう思っているのだろうか。
また、吉田勘兵衛のご子息が脈々と続いていることにも感動した。現吉田勘兵衛氏は常清寺に対し、「開放的で大変身近にあること」を望んでいるとのこと。確かに今回の取材でも、同氏・同寺に好意的な対応を頂き、感謝に尽きるところである。
皆さんの中で、もし肖像画に関する情報を持ちの方がいらっしゃったら、是非ご一報願いたい。
それは吉田家の願いでもあるそうだ。僭越ながら「はまれぽ」が仲介をさせて頂きたいと思う。
―終わり―
ushinさん
2012年10月23日 20時18分
常清寺開基大檀那・・・っていうことは、単にそこで法事やってもらってるだけではなくて、私財を投じて寺まで建てちゃった方なわけですね。それこそ「○○院」という戒名を貰うに相応しい大檀那(寄進者)
浜っ子五代目さん
2011年11月03日 08時21分
私の疑問に調査いただき、ありがとうございました!肖像画がなく、残念でしたが初代勘兵衛氏の生誕400年の取材いただくきっかけになったこと、勘兵衛氏が12代まで脈々と続いていることなど収穫が多かったと思います。取材スタッフの皆様に感謝申し上げます。おかちゃんより。