芸者が働く「花街」が井土ヶ谷の住宅地にあったって本当!?
ココがキニナル!
井土ヶ谷上町第一町内会館が見番(けんばん)として横浜市の歴史的建造物に登録されたとBSの旅番組で紹介されていました。井土ヶ谷に花街があったとは知りませんでした、詳細がキニナル(boyoさん)
はまれぽ調査結果!
井土ヶ谷上町付近はその昔、料亭が多数あり、着飾った芸者が歩く花街だった。町内会館は見番だった建物として横浜市歴史的建造物に登録されていた
ライター:奥井利幸
花街だったころの地図を再現!
後日、佐々木さんのご厚意により、都合がつく地域の方々に町内会館に集まっていただき、当時のお話を伺う機会に恵まれた。
町内会館に集まっていただいた地域の方々
取材に応じてくださったのは写真左から、吉田計美(よしだ・かずみ)さん、武川勝久(たけがわ・かつひさ)さん、星君枝(ほし・きみえ)さん、宮治緑(みやじ・みどり)さん、長谷川洋子(はせがわ・ようこ)さんの5人。皆さん古くからこの地域に住む方々で、当時の様子を覚えているとのこと。
「この天井は建築当時のままだよ」と2階の大広間の天井を指差す町内会館管理人の星さん
建築当初の見番(提供:井土ヶ谷上町第一町内会)
集まった方々のなかで、特に宮治さんはこの見番と特別深い縁があるのだという。
なんと、お兄さんのお嫁さんが戦後の一時期、この見番に住み込み事務の仕事をしていたという。お兄さんは近くの田島屋、またの名前をすずめ旅館という料亭で働いていたとのこと。
宮治さん自身も、1948(昭和23)年に山梨県大月から結婚を期に井土ヶ谷に来て、この見番の中にあるお兄さん夫婦の部屋で花嫁衣装に着替え、近くの家に嫁いだそうだ。
「髪を結って化粧をした芸者さんたちが、料亭に歩いて行くのをよく見かけたよ」と宮治さんは言う。
「芸者さんが『太鼓持(たいこも)ち』という手伝いの男の人と一緒に歩いていくのを見たわ。兄嫁は料亭から指名が入ると芸者さんを迎えに行ったりしていたね」と、宮治さんの記憶は鮮明だ。
芸者イメージ図
集まってくれた地域の人たちも「そうなんだ」と宮治さんの話に耳を傾ける。初めて聞くことも多いようだ。
ほかの人も思い思いに当時の話や、家族などから伝え聞いた当時の話をしてくれる。
地図を指差しながら、どのような建物がどこにあったかを教えてもらう
最初はおぼろげな話だったのが、皆で話し合っているうちに徐々に記憶が蘇ってきたようだ。
「ここに置屋があったよ」「ここの料亭は黒い塀だったね」と次第に話が盛り上がる。
そうこうしているうちに、みなさんが覚えているかぎりの料亭や置屋の場所が次第に明確になってきた。
見番の向かいの民家は芸者の置屋。つまり芸者が待機する場所で、内部も含めてほぼ昔のままだそうだ。
向かいにある家は、以前は置屋だった
住んでいらっしゃる方がいるので内部の撮影はできなかったが、建物外部からの撮影は許可してもらうことができた。
町内会館と置屋は斜めに向かいあって建っている
今回伺ったお話をもとに、当時存在した料亭を地図に書き込んだ。
見番の周囲に料亭が点在していたようだ
今回把握できた料亭は5軒だけだが、昭和のはじめころには合計10軒ほどの料亭があったらしい。
芸者が住んでいた長屋や置屋は、この緑で塗ったあたりに集中していた
髪結い(美容院)や料亭(待合)に料理を卸す仕出し屋もあった
前述の黒い塀の料亭とは、見番に近い『料亭ゆたか』のこと。料亭はみな高い塀に囲まれており、戦前は警察官や軍人もよく来ていたそうだ。当時の警察や軍人はお金を持っており、またお忍びで来るため高い塀で囲まれていたのだろうか。
また近くに屠殺場(食肉処理場)があり、家畜を買い取っていたようだ。家畜を売って手に入れたお金を使って料亭で遊ぶ人も多かったらしい。
戦後は1950~51(昭和25~26)年くらいまではしばらく花街として栄えていたとのことで、その後、徐々に衰退したそうだ。この見番も芸者の稽古場として使われなくなったあと、街の演劇場としても使われていたが、1957(昭和32)年には警察の寮として使用されることになり、その後1976(昭和51)年に町内会館になったということだ。
「たまたま」から横浜市歴史的建造物としての登録
ところで、この町内会館が『横浜市歴史的建造物』に登録されたのは、どういう経緯だったのだろうか?
『横浜市歴史的建造物』とは、景観上価値がある歴史的建造物の保全や活用を行うために、横浜市都市整備局が指定している歴史上・景観上価値がある建物で、2017(平成29)年1月現在で206件が登録されている。
前述の町内会長の佐々木さんは「実は、たまたまだったんです」と話す。
町内会館が登録された経緯を説明する佐々木さん
きっかけは、災害に強い町を作ろうとする地域の活動にあったそうだ。
この地域は住宅が密集しており行き止まりも多い。火災があった場合には道幅が狭く消防車両の通行もしにくいことから、「災害に強い町」を作りたいという地域の思いがあったそうだ。
そのためまず防災の基本について自分たちで学び、対策を考える必要があると、横浜市の実施する『いえ・みち まち改善事業(現:まちの不燃化推進事業)』の支援を受けて、3年ほど前から災害に強い町づくりの活動をはじめた。
「まちの不燃化推進事業」の説明(横浜市都市整備局ホームページより)
同事業の一環で、災害に強い町づくりのために横浜市が派遣した『まちづくりコーディネーター』が、たまたまこの町内会館の歴史的価値に気づいたそうだ。
それまで、町内会館を「単に古い建物」としか思っておらず、「歴史的価値があると聞いてとても驚いた」と佐々木さんは当時を振り返る。
その後、横浜市都市整備局によって建物の調査がなされ、現存するかつて見番だった建物は横浜に少なく、特に玄関のひさし部分や2階の大広間が建築当時のまま残されていることなどから、2015(平成27)年11月7日に横浜市の横浜市登録歴史的建造物となった。
建築当時の面影が残る玄関のひさし部分
建築当時のままの2階の大広間 ここで芸者が稽古に励んだ
今後の町内会館
現在の町内会館は、町内会の打ち合わせのほかに、高齢者の運動活動や子育てをする親たちのグループ活動に利用しているが、それほど頻繁に使われているわけでもない。
今後は住民に広く意見を募り、より有効に利用していく考えだ。
また、町内会館を安全に安心して利用してもらうため、現在耐震・耐火の改修工事の計画をしている。
町内会館の改修には横浜市から補助金だけでは十分でないため、住民から寄付などの形でお金を集める必要がある。
現在は時間をかけて合意形成しているとのこと。そのため、改修完了まではまだ2、3年はかかる予定だそうだ。
さらに、改修工事にあわせて、外観を以前のように復元することも計画されている。
佐々木町内会長は言う。
「この町内会館が街のシンボルとして、愛され活用されることを目指しています」
改修後のイメージ図(提供:井土ヶ谷上町第一町内会)。外壁の復元を計画している
取材を終えて
普通の住宅地に思える井土ヶ谷の地が、実は戦後しばらく料亭が点在する花街だったというのは驚きだった。
数年前までは、当時の名残がある建物もいくつかあったそうだが、今は町内会館を含め2軒だけになってしまった。
歴史を物語る建物を残し活用していくことは、金銭的な問題や難しい部分も多々あるとは思うが、ぜひ地域のシンボルとして、また地域で活用する場として残ってほしいと思う。
―終わり―
chrisさん
2017年10月18日 17時06分
すごくいい記事ですね。こういう記事がもっと増えてくれたらと思います。というかこのライターさんがもっと記事を書いてくれたらと思います。
ジョンソンさん
2017年08月03日 04時43分
nhkがやるような内容で素晴らしいと思います。
oioaoiさん
2017年07月31日 22時58分
町の記憶というのははかないものなのですね。こういう発掘と記録は貴重です。