こどもの国線は、かつて弾薬を運んでいたって本当?
ココがキニナル!
こどもの国線は弾薬庫を運ぶ路線だったそう。遺構が残っている?/ローソンの裏のお宅辺りから歩道橋に向かって鉄道柵がある。こどもの国のどの辺りまであった?(浜っ子さん/ナチュラルマンさん)
はまれぽ調査結果!
線路の遺構はほとんど残ってない。コンクリートの柵は戦後の駅誕生時にできた。弾薬輸送用の線路はこどもの国内の中央広場と駐車場の奥あたりまであった
ライター:松崎 辰彦
奥まで入り混んでいた線路
それでは線路は具体的にどこまで走っていたのだろうか。
「一本は『こどもの国』の中央広場を抜けて、かなり奥まできていました。当時は今のような起伏があったわけではなく、平坦でした」
そういっておよその位置を示してくれた。
線路の入り口(画像提供:金子氏)
当時、線路の入り口はここだった
「終点はあのあたり」と線路終点のおよその位置に立つ鴨志田氏
「このあたりですね・・・」
その場所に鴨志田氏に立ってもらった。往時はここまで線路が入り、火薬や弾薬を輸送していたのである。
地図に記した線路(黒線)のおよその位置
さらに「人間の出入り口は別でした」とも話す。
中で働く人々は現在の「こどもの国」の正門からずれた位置にあった出入り口を使っていた。
「人間はこのあたりから入りました」
人間はこの矢印あたりから入った(© OpenStreetMap contributors)
「もう一本は臨時駐車場の、やはり奥深くに入っていました。あのあたりです」
指を差す鴨志田氏。ここもかなり深く入り込んでいたということである。
もう一つの線路(画像提供:金子氏)
写真と実際の建物との位置関係を指摘
ここを線路が通過していた
線路は矢印の方向に通っていた(© OpenStreetMap contributors)
「およそあのあたりまで線路が入っていました」
地図で示してくれる。線路(黒線)は駐車場の奥まできていた
なお線路の分岐点についても鴨志田氏に指摘してもらった。分岐点は東急こどもの国線恩田駅とこどもの国駅の間で、現在は特に遺構もなく、指摘されなければ分からない場所だった。
1965年5月5日、「こどもの国」開園日。線路の分岐点で(画像提供:金子氏)
およそ円内の位置で分岐していたと考えられる
兵士を監視していた警備員
「1947(昭和22)年に私が警備員に採用されて、数年はこの線路を使って弾薬を運び出していました」と説明する鴨志田氏。
この鉄道は日本軍が保管していた弾薬を搬出するのに使用していたのである。
「戦争も終わり、用済みになった弾薬は横須賀の久里浜まで運ばれ、そこで海に捨てられるんだと聞きました」
弾薬搬出後、今度は米軍の弾薬庫として使われた。しかしこの上ない危険物であるため、中では細心の注意が払われていたようである。
「電気は入り口まででした。そして煙草も休憩所以外は禁止でした。弾薬庫の作業はみな懐中電灯でやっていました」という。
弾薬庫の排気のための塔。「一つの弾薬庫には必ず2本あります」
何より火薬への引火、誘爆を警戒したのである。
鴨志田氏のような警備員は、区域ごとに割り当てられていた。
「警備中は銃を持たされ、キャンプ座間で射撃訓練もやりました。弾は2発持たされていました」
しかし弾薬庫に乗り込むような命知らずの盗賊などあるはずもなく、警備員たちの関心は別のところにあったようだ。
「兵士が見回りにきて、そのときに持ち場にいなかったり居眠りしたりすると、即刻解雇でした。ですから外部からの侵入者ではなく、兵士か来るかどうかを監視していました(笑)」と話す。
「こどもの国」の歴史は日本の移り変わりを反映している
この弾薬庫は朝鮮戦争のときに活躍した。そのときは、弾薬をベルトコンベアで運び出して、トラックに乗せて搬出したと当時の様子を教えてくれた。
「作業のスピードが早かったですよ。機材のなかった当時の日本じゃ考えられない」
アメリカ接収時代の田奈弾薬庫は、全体的にアメリカ人より日本人の数が多かった。最盛期に日本人は2000人ほどもいたとされるが、一方、アメリカ人は一時期12~13人だったという。
「ここにトラックを横付けして、ベルトコンベアで弾薬を運び出しました」と説明する
危険物を取り扱っていることに不安は感じなかったのだろうか。
「弾薬は信管(起爆装置)が抜いてありましたし、あまり大きな弾薬はなかったです。私はここをやめたあと逗子の池子弾薬庫に行ったんですが、向こうでは信管がついてましたね。そしてわれわれの背の高さくらいの大きな弾薬がありました」という。
「ここではこれくらいの弾薬を扱いました」
朝鮮半島の情勢が落ち着くにつれ、弾薬庫の機能は田奈から池子に移されたといわれる。労務者の数も減少し、そうした状況の中、鴨志田氏も田奈を後にしたのだった。
鴨志田氏の健脚ぶりに驚かされた
田奈弾薬庫時代から生まれ変わり、多くの朗らかな笑顔に満たされている「こどもの国」。
その歴史は戦中戦後の日本の移り変わりを写し出している。
取材を終えて
ディズニーランドもいい。USJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)ももちろん楽しい。しかしここ横浜市にもこんな素晴らしい場所がある。起伏に富んだ地形、豊かな自然。青空の下、「こどもの国」は明るく輝いていた。
変化に富んだ「こどもの国」
変化に満ちたうねるような園内を1925(大正14)年3月25日生まれで現在93歳の鴨志田氏は、息を切らすことなく縦横に歩き回った。弾薬庫時代に倉庫や兵舎、ボイラーなど何がどこにあったかを指摘してくれた。彼にとって古巣である「こどもの国」。今でも年に1回程度訪れるといい、弾薬庫跡や変わらぬ自然を目にするといくつもの思い出が脳裏をよぎるようだった。
今回は実際に内部で働いていた鴨志田氏に大変、お世話になった。やはり歴史の当事者の言葉は胸に響くものがあった。もちろん奈良町の金子氏にもご協力いただき、感謝の言葉もない。
高射砲跡で。「高射砲を撃ったために米軍にここが分かってしまったそうです」
戦後、日本は大きく変わった。戦争から平和へと移り変わる中で、弾薬を運んだレールが今は子どもたちを運んでいる。人を遠ざけた弾薬庫が、多くの人を呼び入れている。
光と影が時代とともに入れ代わり、立ち代わる。
平成も終わらんとする当今、昭和の激動を通り抜けた「こどもの国」の歴史にあらためて注目したい。
―終わり―
取材協力
こどもの国
http://www.kodomonokuni.org/
参考文献
『こどもの国三十年史』(社会福祉法人 こどもの国協会)
参考
横浜市統計ポータルサイト
http://www.city.yokohama.lg.jp/ex/stat/
おいさんさん
2018年08月05日 08時59分
右側の現臨時駐車場側への痕跡は昭和の終わりころまで残っていたかもしれません玉電が廃止された後、使われなくなった電車何両かをしばらく保管していた様です。
ナチュラルマンさん
2018年07月28日 15時14分
取材して頂き、ありがとうございました。こどもの国駅から歩道橋までの桜堤は線路跡地だとわかりました。きっとこどもの国の入口を抜けて中央広場まで続いたのでしょうね。ちなみにJR横浜線の長津田駅手前(十日市場側)の草むらになっている土手、長津田駅に向かって広がっています。ちょうど東急田園都市線とJR横浜線が接近する辺りです。これは当時の国鉄横浜線と弾薬輸送線が繋がっていたポイントかな?こどもの国を含め、池子など弾薬庫跡地は貴重な自然が残され、生き物たちは平和に暮らしています。こどもの国は遊園地のような、また動物や豊かな自然に身近に触れられ、簡単なハイキングも楽しめる。いつまでも笑顔が絶えない場として、平和と子どもたちの幸せを願うレジャー施設であり続けて欲しいです。
ロンさん
2018年07月27日 18時49分
本当のアメリカ人なんてインディアンなんですから黒人や黄色人と言って差別するのはおかしいですよね? 勝手に新大陸発見してアメリカ人ヅラするヨーロッパ人にはバチが当たれば良いと思います。