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えっ、横浜に偕楽園?! かつて磯子にあった名所の歴史に迫る

えっ、横浜に偕楽園?! かつて磯子にあった名所の歴史に迫る

ココがキニナル!

日本三大名園といえば水戸の偕楽園、金沢の兼六園、岡山の後楽園。そのうちの偕楽園がかつて横浜にもあり、大変なにぎわいを見せていたとか。これって、どういうこと?(はまれぽ編集部のキニナル)

はまれぽ調査結果!

水戸の偕楽園は梅の名所で知られる庭園。だが、かつて横浜にあった偕楽園は料亭だった。ただし、「超」がつくほどの高級料亭で、その盛衰の軌跡はまさに戦前・戦後の磯子の歴史そのものと重なる。

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ライター:結城靖博




偕楽園誕生の背景を知る



磯子の海辺にかつて存在した高級料亭「偕楽園」(かいらくえん)のことを理解するためには、まず下の二つの地図の比較から始める必要がある。


(『今昔マップon the web』より)


左は1903(明治36)年測図の根岸湾、右は現在の地図だ。

金沢シーサイドラインがちょうどかつての海岸線上を走っているのがよくわかる。シーサイドラインの東側は埋め立て地だ。埋め立てられる以前、根岸湾は美しくわん曲し、遠浅の砂浜が広がっていた。

その地の利を活かし古くから旺盛な漁業が営まれ、その景観をめでて開港以来多くの居留外国人たちがここを訪れた。彼らは地形が似ていることから、親しみを込めてこの湾を「ミシシッピー・ベイ」と呼んだ。

そして海に間近に迫る高台には外国人や日本の政財界人が盛んに別荘や邸宅を建てたことは、旧柳下邸周辺についての過去記事で述べたとおりだ。

さらに、鉄道の延伸で保養地が湘南方面に移り始める明治後期からは、次第に行楽地としての根岸湾は大衆化する。それに拍車をかけたのが大正以降の市電の開通で、やがてこの海辺は、一般庶民の海水浴場として横浜随一の人気を博す。昭和に入ると、根岸・磯子地区では花火大会も開かれ、夏の風物詩となった。

そんな根岸湾のほぼ中心に位置する磯子には、庶民のために夏に仮設された「海の家」だけではなく、海辺に沿って料亭も建ち並び、その近くには料亭に付き物の芸者遊びのための「花街」(はなまち)も形成された。

こうした中で生まれたのが、磯子の中でも最大規模を誇る料亭「偕楽園」だったのだ。



偕楽園はどこにあったのか?




偕楽園があった場所は、JR根岸線・磯子駅のすぐそばだ。


© OpenStreetMap contributors)


磯子駅の橋上改札口を出て西側の歩道橋へ進むと、磯子産業道路をはさんで斜め右に見える白い大きな建物、この辺りにかつて偕楽園があったという。


磯子駅西側の歩道橋上から北側を望んだ景色


写真の中央を走るのは産業道路。そして赤枠で囲ったところに偕楽園があった。現在、その跡地に建つのは、UR都市機構の磯子三丁目団地だ。

偕楽園があった当時、目の前の産業道路から東側はまるっと海だった。そのことをよく表しているのが下の2点の地図だ。


(『今昔マップon the web』より)


左の地図は1931(昭和6)年、そして右が現在の地図だ。昭和6年当時にはすでに偕楽園が存在していた。上の地図の赤枠内がその場所に当たるが、偕楽園の東側は海だったことが一目瞭然だ。

左の地図をよく見ると、偕楽園の東側と南側が海岸線の角地になっている。


磯子三丁目団地側から磯子駅方向を望んだ景色


上の写真の矢印で示した辺りがかつての海岸線の角地だ。そこから左側は磯子駅も含めて全部海だった。

2枚前の時系列対比地図の現在の地図を見ると、偕楽園跡地の北側に「公会堂」と書かれている。ここは区役所と図書館と公会堂が入る磯子区総合庁舎だ。


右の茶色い建物が磯子区総合庁舎、左が磯子三丁目団地1号棟


この総合庁舎エントランス前に、産業道路に向かってこんな掲示板が設置されている。


題して「昔ここは海だった」


区役所からお墨付きをいただいたわけだ。




偕楽園はどんなところだったのか?




1枚の絵葉書がある。


絵葉書「横浜磯子海岸割烹旅館 偕楽園全景」(横浜市中央図書館所蔵)


実は偕楽園についてはこうした観光絵葉書が多数存在する。このこと自体、偕楽園がいかに当時大衆の関心のマトだったかを証していると言えるが、その多くが横浜市中央図書館に所蔵されている。

上の絵葉書は、横須賀道路(国道16号線)側の磯子の高台から俯瞰したものと思われる。
今では建物が林立して同じ高台の角度からこの通りを写真に収めるのは難しいが、低地からなるべく近い角度で撮った現在の様子が下の写真だ。


国道16号線側から眺めた磯子三丁目団地周辺


そして次が、当時の偕楽園の表門をとらえた写真。


絵葉書「横浜 偕楽園 磯子」(横浜市中央図書館所蔵)



そこを今撮ろうとしてもこうなる


全面、磯子三丁目団地2号棟だ。撮影する背後にビルが迫っているので、なかなか後ろに引いて写真が撮れない。

いずれにしても古い絵葉書を見ると、偕楽園の建物がどんなに立派なものだったかわかるだろう。

下は敷地内の眺望。


絵葉書「大広間ヨリ離座敷ヲ望ム 横浜 偕楽園 磯子」(横浜市中央図書館所蔵)


そしてこれは逆に離れ座敷から大広間を望んだ景観だ。


絵葉書「離座敷ヨリ大広間ヲ望ム 横浜 偕楽園 磯子 水明風呂」(横浜市中央図書館所蔵)


上の絵葉書の左下に日本髪を結った女性数人が湯に浸かっている「水明風呂」なる湯舟の写真がはめ込まれている。大広間の建物内に浴場施設があったようだ。余談だが、写真のモデルは当時偕楽園によくお呼びがかかった芸妓たちだろうか。

この浴室だけを写した絵葉書も存在する。浴槽中央のオブジェは、上の写真では岩の上に樹木が植えられた巨大な盆栽のような姿をしているが、下では「水晶塔」という説明書きがある。


絵葉書「横浜市磯子町新地偕楽園 ラジウム浴室大理石構造中央ハ水晶塔」(横浜市中央図書館所蔵)


浴室については、こんな別の絵葉書も。


絵葉書「横浜市磯子町新地偕楽園天然湧出ラジユーム大理石浴室」(横浜市中央図書館所蔵)


天然ラジウム温泉の大理石風呂は、偕楽園にとって売り物のひとつだったようだ。

そして下は、肝心な大広間をとらえた一枚。


絵葉書「横浜市磯子町新地偕楽園百畳敷大広間」(横浜市中央図書館所蔵)


百畳敷き! この広大な広間で天然ラジウム温泉で身を清めた政財界の大物たちが、芸者をあげて夜な夜な大宴会を催していたのか?

いや、客人は政治家・高級官僚・財界人ばかりではなかった。

実は偕楽園は昭和に入り戦時色が濃くなると海軍指定料亭になり、横須賀にあった海軍関係者が多く利用する場所となった。また、太平洋戦争が始まり戦局が厳しさを増した頃には、特攻隊員として前線に出撃する兵士たちを送別する宴もここで催されていたようだ。

いずれにせよ、一般人は酒・煙草どころか食糧にも事欠いた戦時下でも、軍人や軍関係者たちは、この料亭に来れば本物の清酒「黒松白鹿」を軍の売店並みの安い値段で飲めたという。海軍のトラックが偕楽園に横付けされ米や酒が荷下ろしされる様子を、通りすがりの庶民らはただ羨望の眼差しで眺めることしかできなかった。

一方、宴会に呼ばれる芸妓衆たちの花街(はなまち)は、偕楽園よりおよそ1kmほど北に位置する現在の芦名橋(あしなばし)公園周辺にあった。


これは磯子区役所の玄関脇に設置された「いそごの歴史マップ」の一部


上のマップにも、「磯子料亭街・海水浴場跡」とともに「磯子花街跡」が明記されている。

ちなみに「花街」とは売春を目的とする「遊郭」とは異なる。あくまで宴席で芸を披露する芸妓たちが生きる場所だ。そこには芸者置屋・見番(料亭と芸者置屋との仲介所)のほか髪結い所・三味線修理所・小唄の師匠の家・和服仕立て屋・小料理屋等々、芸妓の日常を支えるあらゆる施設で形成されていた。

下の時系列対比地図の赤枠が磯子花街の場所だ。


(『今昔マップon the web』より)



そしてこちらが現在の付近の様子


上の写真の先に国道16号線の芦名橋交差点がある。左に見えるのは芦名橋公園。この通りの左右にかつて花街が広がっていたが、偕楽園が存続していた昭和30年代までは、芸妓組合も見番もまだあったという。

なお、この磯子の花街については過去記事「昭和初期、海岸近くに花街があった磯子の歴史とは?」で丁寧に取材しているので、ぜひ併読いただきたい。磯子の歴史が、より重層的に浮かび上がると思う。

さて、偕楽園に話を戻そう。続いて紹介するのは、園内中庭の様子だ。


絵葉書「横浜市磯子町新地偕楽園中庭ノ景」(横浜市中央図書館所蔵)


敷地内には、こうした美しい庭園のほかに、次のような場所もあった。


絵葉書「横浜市磯子町新地偕楽園海岸運動場」(横浜市中央図書館所蔵)


ここで汗を流し、ラジウム温泉でひとっ風呂浴び、それから宴会に臨んでいたのだろうか。なんだか今風に言えば、スパ&フィットネス&お食事処付きの高級リゾート施設という感じもしないではない。

次の写真は、横須賀街道(国道16号線)から、偕楽園の海に面した南東の角地を写したものと思われる。


絵葉書「横浜市磯子町新地偕楽園杉田街道ヨリ見タル景」(横浜市中央図書館所蔵)



現在ならこんな感じの景色になるのだが


そうであろうなということは、次の写真からも推しはかれる。


絵葉書「横浜市磯子町新地偕楽園全景(其二)」(横浜市中央図書館所蔵)


2枚前の写真の右端に見える海に迫り出した建物の形が、上の写真のほぼ中央に位置する矩形の建物と同じだ。おそらく根岸湾を一望できる展望座敷のようなものだったのだろう。

2点の絵葉書からは偕楽園が当時の根岸湾の海岸線沿いにあったことがよくわかるが、その目の前の海には海水浴場もあった。


絵葉書「横浜市磯子町新地偕楽園海水浴場」(横浜市中央図書館所蔵)


上の写真は、ここまで記してきた偕楽園の近寄りがたさとは異なる、庶民的な一面を伝えている。この開放的な偕楽園の海水浴場については、前掲の区役所前にある「昔ここは海だった」の掲示板でも紹介されていた。


区役所前の「昔ここは海だった」掲示板(部分)


またこの掲示板には、次のような写真と解説文も見られる。


同上の掲示板より


目の前が海で、しかも階段を降りればすぐ泳げる小学校なんて、まるでおとぎ話のようだ。子供たちは、さぞかし嬉しかったことだろう。ただ、東日本大震災を経験した者から見ると、少々怖い気もするが…。

とはいえ、こうした光景も昭和10年代になると失われていく。大正時代に拡大した日本の「海水浴場」ブームは、戦雲が高まるにつれ国家による管理統制が強化され、磯子の海も自由に泳ぐことができなくなってしまうからだ。



偕楽園の栄枯盛衰




では、こうした偕楽園という高級料亭は、いったいいつ誕生したのだろうか。実はこれについては正確な記録が残されていないようだ。

だがある資料によれば、1913(大正2)年に偕楽園で社会主義運動家たちの新年会が催されたという。その中には荒畑寒村(あらはた・かんそん)や大杉栄(おおすぎ・さかえ)など錚々たる名前も見える。これは、偕楽園が必ずしも政財官の保守的な陣営だけに利用されていたわけではないことを示す興味深いデータだ。

それはともかく、この情報が事実なら、すでに大正時代初期に偕楽園があったことになる。

そして前述したとおり、大正時代に磯子の海辺には次々と料亭が建ち、料亭街を形成していく。葛城峻(かつらぎ・しゅん)氏著『やぶにらみ磯子郷土誌』所収の「ああ花の街、磯子海岸料亭」に掲載された地図を見ると、北側に「磯子園」、南側に「藤家」「田舎家」「雨月荘」などの料亭が記され、そのほぼ中央に最大の料亭「偕楽園」が鎮座している。

しかしそんな偕楽園も、1923(大正12)年9月1日午前11時58分に突如発生した関東大震災によって全壊する。被害の大きさは、この料亭の立地条件と関係していた。


絵葉書「横浜市磯子町新地偕楽園海岸ヨリ山ヲ望ミタル一部」(横浜市中央図書館所蔵)


上の絵葉書からもわかるとおり、偕楽園の西側は横須賀街道(国道16号線)をはさんで、丘陵地の崖が間近に迫っていた。

この景観が、山海をともに有する偕楽園の魅力だったとも言えるが、未曽有の大震災の際にはこれがアダとなった。

『横浜市震災誌第二冊』によれば、地震発生と同時に切り立った崖が恐ろしい地響きとともに崩れ、「長さ約七十間・幅十数間・坪数約一千坪」の崖が崩壊し、偕楽園の建屋を押し潰した。同園の崩壊面積は約4000坪、死者は16名。当時の磯子町地域でもっとも大きな被害を受けたのが偕楽園だったという。

しかし震災後、横浜市内のどのエリアもそうだったように、偕楽園も不屈の精神で復興する。そして、偕楽園がすでに記したように海軍指定料亭となりふたたび栄華を極めるのは、この震災後のことである。


絵葉書「浴場ヨリ清涼ヲ望ム 横浜 偕楽園 磯子」(横浜市中央図書館所蔵)


これはあくまで筆者の憶測にすぎないが、上の1枚も含め多くの偕楽園の観光絵葉書は、震災復興後に海軍の力添えもありさらにパワーアップした同園の姿ではないだろうか。

だが、1945(昭和20)年8月15日、太平洋戦争は終結し日本は敗戦国となる。これによってご多分に漏れず偕楽園も、一時期進駐軍に接収され米兵のクラブとして利用されたこともあった。とはいえ、やがて日本国の主権回復とともに接収も解除され、ふたたび料亭としての偕楽園の戦後の歴史が始まる。

が、しかし…戦後復興、高度経済成長といった日本の戦後史の変遷をまともに反映したのが、ここ横浜の磯子エリアだった。

下はまたもや区役所前の「昔ここは海だった」掲示板に掲げられた写真と解説文だ。


区役所前の「昔ここは海だった」掲示板(部分)


根岸湾は近代以降、遠浅の海が理想的な条件を満たしていたがゆえに少しずつ埋め立てが進んでいったが、なんといっても大きくその姿を変えるのが戦後、高度経済成長期の埋め立て事業だった。

のどかな上の写真は、その大工事が始まる前の、おそらく昭和30年代初頭のものだろう。

「もはや戦後ではない」という有名な経済白書が発表されたのは1956(昭和31)年。この頃、根岸湾の埋め立て事業に大手企業が名乗りを上げ、1959(昭和34)年、日石根岸製油所の造成を端緒に、根岸湾の大規模埋め立て工事が起工する。

その後はあれよあれよと官民一体の埋め立て事業が進み、1964(昭和39)年には埋め立て地の海沿いに国鉄根岸線、そして産業道路も開通する。おとぎ話のような海に面した浜小学校が磯子区総合庁舎に変わるのは1967(昭和42)年のことだ。

そして、その翌年の1968(昭和43)年に、偕楽園は廃業。

廃業の理由について、偕楽園の元マネージャー・武井玲子(たけい・れいこ)氏のリアルな証言が、横浜市磯子区役所発行の『浜・海・道 あの頃、そして今・・・磯子は』に掲載されている。

「うちは公団に売り渡す四三年頃まで経営してたんだけど、(埋立地の)ホコリが凄くて窓あけとくと大変だったのよ。海があっての商売だったし、夜中だって音がしていたからお客さんを招待しにくいじゃない。埋立てられて客足も次第に遠のいたし」(同書から引用)

「公団」とは磯子三丁目団地のことだろう。また、「夜中だって」聞こえたのは、目の前の産業道路を走る埋め立て工事のダンプカーの音だろうか。


偕楽園跡地の磯子三丁目団地1号棟の前に団地の着工・竣工を示す銘板が建つ



近づいて見ると「着工 昭和45年」「竣工 昭和47年」とある


偕楽園が公団に土地を売り渡してわずか2年後に着工し、その翌々年に団地ができる。その間の昭和46年には、根岸湾の埋め立て工事も完成している。

下の写真は、現在の旧偕楽園跡を磯子台の高台からとらえたものだ。


磯子間坂第二公園からの遠望


この高台の公園にたどり着くための上り口は下の写真の場所だ。


この目の前の小高い場所は、まさに大震災で崩れ落ちた崖が偕楽園を押し潰した丘だ


前掲の偕楽園の背後に山が迫る絵葉書と、ぜひ比べて見てほしい。

ちなみに上の写真に見える丘の上の円形の建物は「ブリリアシティ横浜磯子」。その前身は「横浜プリンスホテル」で、さらにその前身は「東伏見邦英伯爵別邸」だ。
この辺りの経緯については、過去記事でたびたび取り上げているので、ご一読されたい。

偕楽園の廃業まもなくできた磯子三丁目団地。その竣工時の1972(昭和47)年、横須賀街道(国道16号線)を象徴していた市電が全廃した。さらに翌昭和48年、国鉄根岸線が全通する。




取材を終えて




偕楽園は横浜、いや日本の近代史の中から生まれ、現代史の中で消えていった――そんな印象が残る今回の取材だった。

それにしても海に面した浜小学校は、かなり気になる。調べてみると現在の区役所の位置にできたのは1944(昭和19)年、つまり戦時中のようだ。

その後の変遷も含めて、いつか密に取材したい対象だ。「臨海小学校」時代の同校の思い出を語っていただける人がいればいいのだが…。


―終わり―


取材協力

横浜市中央図書館
住所/横浜市西区老松町1
電話/045-262-0050
開館時間/火~金9:30~20:30、その他9:30~17:00
https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/tshokan/central/

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」
埼玉大学教育学部 谷謙二・人文地理学研究室
http://ktgis.net/kjmapw/

参考資料

『やぶにらみ磯子郷土誌』葛城峻著、磯子区郷土研究ネットワーク発行(2015年2月刊)
『浜・海・道』横浜市磯子区役所総務課編、横浜市磯子区役所発行(1988年3月刊)

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  • 芦名橋の花街の跡…ラブホが1軒有りますが花街の名残なんですかね? 他にも数軒が産業道路や16号線の沿いにあるけど。料亭街の成れの果てなんかな? 花街と遊郭はついつい混同してしまいますが別物…ラブホも単に「場を提供する」だけなんですよね…

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