瀬谷高校近く、柵で閉鎖された「森の中に消える道」。謎の道の真相は?
ココがキニナル!
バス停西部病院前から瀬谷高校に歩いていくまでの道の途中の林に謎のガードレールと柵らしき物があります。何でしょうか(odakyuugoさん)
はまれぽ調査結果!
旧道の上から新道を整備した際に重ならなかった部分が残されたもの。道路の下の市民の森に下りやすい入り口などとして使用されていた
ライター:小方 サダオ
環境創造局に市民の森について伺う(つづき)
「現在は『市民の森愛護会』の皆様に、市民の森内の園路や広場などの巡視等をお願いしており、愛護会費を支出しております。愛護会は土地の前所有者の皆様と地域住民の皆様により構成されていますが、愛護会費はあくまで愛護会に市民利用部分の点検や清掃・草刈などの管理を委託する委託費としてのお支払いであり、土地所有者に支払っているものではありません」という。
市民の森契約地は土地所有者が助成金(奨励金)をもらい管理するが、市の所有になれば横浜市が管理するようになるという。
小川アメニティなどが整備されている瀬谷市民の森
投稿の道が生まれた1974(昭和49)年から、市民の森に指定される1976(昭和51)年までの約2年間が、主に土地所有者のHさんによりこの道が最も使われていた時期かもしれない。また1976(昭和51)年から横浜市が土地を取得するまでの間も、土地の管理者として少なからず利用頻度はあった可能性はある。
利用価値が少なくなり柵がされるようになったのは、2010(平成22)年以降なのではないだろうか。
投稿の道路は国境の境目だった
ところで投稿の道は相模国・武蔵国の国境にあたるのだ。
横浜市のホームページによると、「相模と武蔵の国境を通るため野境道といわれ、1701(元禄14)年ごろから江戸と鎌倉を結ぶ間道として利用されていた」という。
投稿の場所(赤枠)は野境道になる
野境道路ルートの案内板
野境道路
その国境である野境道に沿って歩いてみることにした。
投稿の道を過ぎた瀬谷高校の向かいあたりから瀬谷市民の森の山道に入る。
投稿の道路(旧道)が野境道であった
山道に入る
野境道は瀬谷市民の森を通る
森を抜けると畑が点在する野原が広がっている。その先には上瀬谷通信施設(1951《昭和26》年に接収されて以来、在日米海軍厚木航空施設司令部の管理する施設)にぶつかった。
広大な野原が広がっている
米軍施設 立ち入り禁止の看板
米軍施設のフェンス
広大な米軍施設の敷地を貫く野境道
また中丸山古戦場という場所があり、戦国・室町時代に戦場となったという。鎌倉勢と武蔵勢が衝突する戦いなど戦線となりやすかったのは、国境の場所だったからなのかもしれない。
中丸山古戦場の案内板
取材を終えて
投稿の道は新道と重ならなかったことで、歴史のある野境道の名残のある道路として残される形となった。曲がりくねり起伏のある区界となっている旧道の姿は、今でも市民の森の中に存在している。
市民の森のために利用価値のあった野境道の名残の道
―終わり―
幸人さん
2018年02月21日 20時22分
上瀬谷通信施設については2015年に敷地全体が日本側へ返還されています。米軍基地を示す看板などはその名残です。また、この広大な土地では2026年の国際園芸博覧会(花博)の誘致も検討されていますね。
CoCo2さん
2018年02月21日 11時54分
小さい頃、市民の森は遊び場でした。探検したり基地を作ったり、小川にはザリガニがいて釣りをしてよく遊んだ記憶が残っています。今の子供はそうゆう遊び方を知らないのが残念です。外で遊ぶ事のが当たり前だったのでこの記事を読んで懐かしくなりました。