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終戦の日に空中戦? そのとき横浜の空で何が起きていたのか?

ココがキニナル!

首都圏他社の記事で「終戦の日に空中戦で米軍機が墜落した場所が、戸塚のどこかの公園で今は跡形もない」とあったのですが、その戸塚の公園がわからないので、調べて下さい(ホトリコさん)

はまれぽ調査結果!

現在の名瀬下第二公園に墜落した米軍機は、騒乱事件を起こした厚木基地所属のゼロ戦との空中戦で撃墜されたもの。搭乗員の死体は手厚く埋葬されたという

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ライター:小方 サダオ

空中戦で撃墜された米軍機の墜落した場所



投稿によると戦争終結が宣言された日に日米機による空中戦があったというが、本当なのだろうか? また撃墜された飛行機が、なぜに戸塚区に墜落したのだろうか?
 


米軍機の墜落現場(青矢印、Googlemapより)

 
この事件を取り上げた2015(平成27)年8月5日の『東京新聞』 には、「一九四五年八月十五日、国民に終戦が告げられる玉音放送の数時間前、神奈川県周辺で米軍と日本海軍の航空機が戦い、横浜市に墜落した米軍機のパイロット少なくとも一人が死亡する空中戦があった。終戦の日にも激しい戦闘があったことは、あまり知られていない。(東京新聞TOKYO Web 2017年8月5日)」として、墜落した米軍機を目の当たりにした男性のインタビューを掲載している。

事件が起きたのは戸塚区。まずは現地に向かい取材を受けた男性に話を伺うことにした。



周辺住民は墜落現場で何を見たのか?



現在87才のS・Jさんによると
「当時私は勤労奉仕で働いていましたが、終戦の日1945(昭和20)年8月15日は工場が休みで、家の中にいました。そして正午前に地響きが聞こえました。音が聞こえた方向に行ってみると、そこは畑でした。大きな穴が開いていて、破片が散らばっていましたが、飛行機が墜落したのだと直感で分かりました。しかしすぐに兵隊が来て非常線を張って立ち入れないようにしました。現場となった場所は、今は名瀬下第二公園になっています」
 


名瀬下第二公園

 
「後で米軍機が墜落したものと知りました。そして近くの妙法寺で死体を墓地に埋めたのです。住職は大学出の英語が堪能な人でしたので、戦後米兵が死体回収に来た時も流暢に対応しました。親切に埋めてくれたことを米兵が感謝していたそうです」

「当時、保土ケ谷区には高射砲部隊がありましたが、このあたりには探照灯部隊や松の木の松根油を燃料にする工場などの軍事施設があったので、これらを標的にしていたのかもしれません。
終戦に反対した日本軍と米軍との空中戦であったことは、東京新聞の記者の話で初めて知りました」と答えてくれた。
 


公園の近くにある探照灯部隊の施設があった場所

 
米軍機が墜落した当時の状況を探るため、名瀬で引き続き近隣で聞き込みを続ける。近所の旧家の男性に事件について伺うと「それは私が小学2年生の時です。当日家の中にいると外から『ドカーン』という大きな音がしたので、怖くなって母親とともに、家の裏山にある防空壕に隠れようと外に出ました」
 


男性が母親と隠れようとした防空壕があった場所

 
「すると向かいの山の方に黒い飛行機の形をしたものが落ちてゆくのを見たのです。そこで一人で現場まで見に行くことにしました。山と山に挟まれた畑に、真っ黒な飛行機の機体が頭を突っ込むようにして落ちていました」

「そしてよく見るとそばには、墜落機のパイロットでしょうか、手と足のない死体がありました。私は怖くなってその場を離れました。あとでそのことを親に話すと、子どもに死体を見せたくなかったからでしょうか、すごく叱られました。私が生まれて初めて見た死体でした」
 


当時は山の間に挟まれた谷であった

 
「当時私の祖父は米兵が来たら竹ヤリで応戦するように教育された、この地区の護衛団の団長でした。その愛国心のある祖父が、『死んだら敵も味方も関係ない』と先頭に立って死体をこの土地の風習にしたがって棺桶の中に埋葬したそうです。米軍が来たときに手厚く葬ってくれたことを感謝されたそうです」とのこと。
 


亡くなった敵国の兵士に対する気遣いに米兵は感動したという

 
続いて山の奥のほうに住む男性R・Iさんは「私も当時現場に行きました。墜落機は真っ黒に燃え尽きたようで、田んぼの中に刺さった形で落ちていたのです。また機体の近くに、下半身が地中に埋まった死体がありました。胴と腕しかなかったので、頭はどこかに飛ばされていたのではないでしょうか? 子ども心に驚いたのは、アメリカ人の体の大きさで、太い腕は金髪の毛で毛むくじゃらだったことです」

「岡津中学校のあたりに、松の木の松根油を燃料にする工場部隊がありましたが、その場所は米軍に見つかったようで、1945(昭和20)年5月の横浜大空襲の際に焼夷弾を落とされ、一帯が燃えてしまったのです。この地区への攻撃は空母の艦載機が多く、緑園都市の方からやって来て、『グォーン』とすごい音を立てて谷戸を急降下してきたことが2回ほどありました」
 


山の方から低空で飛んで来て攻撃されたことがあったという

 
「住民を脅かす目的だったのかもしれませんが、通り過ぎた後で屋根の上にパラパラと音がするものを落としていったのは、機関銃を撃った後の薬きょうが落ちる音だったのかもしれません。このあたりの軍事関連の施設を狙っていたのではないでしょうか?」とのことだった。

当時多くの少年たちが現場に駆けつけたようだ。山と畑のこの場所に、終戦の日に墜落してきた米軍機に驚いた住民も多かったことだろう。

さらに死体を埋葬したという妙法寺の住職に伺うと墜落した場所は当時今より広かったお寺の敷地内でした」とのことで、以前に取材した、總持寺の境内にB29が墜落し墓地に埋葬された話とイメージが重なった。
 


住職は既に代替わりをしているらしく、死体の埋葬については分からなかった

 
墜落したこの米軍機に関しては、第二次世界大戦中の捕虜の情報を調査しているPOW(Prisoner of War=戦争捕虜)研究会のホームページには事故の詳細な記録がある。

「1945年8月15日午前9時ごろ、横浜市戸塚区名瀬町の農家の畑。空母ヨークタウンから飛来したF6Fが墜落」
 


グラマン社のF6F(アメリカの戦闘機写真集)

 
「厚木基地から発進した第三〇二海軍航空隊の森岡寛大尉操縦のゼロ戦との空中戦で撃墜された。 Eugine・E・MANDEBERG海軍少尉はパラシュート降下したが、死亡。妙法寺墓地に埋葬」とある。

この事件は「厚木航空隊事件」といわれ、当時厚木海軍飛行場に所属する第三〇二海軍航空隊の司令による、終戦を受け入れず徹底抗戦を呼びかけた騒乱事件として知られている。