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首都圏他社の記事で「終戦の日に空中戦で米軍機が墜落した場所が、戸塚のどこかの公園で今は跡形もない」とあったのですが、その戸塚の公園がわからないので、調べて下さい(ホトリコさん)

はまれぽ調査結果

現在の名瀬下第二公園に墜落した米軍機は、騒乱事件を起こした厚木基地所属のゼロ戦との空中戦で撃墜されたもの。搭乗員の死体は手厚く埋葬されたという

ライター:小方 サダオ (2017年11月01日)

終戦時の厚木基地周辺はどのような様子だったのか

墜落した米軍機は厚木海軍飛行場の航空隊が撃ち落したものだ、ということで、厚木基地周辺の住民に話を伺うことにした。

厚木基地は広大な敷地面積であるが、周囲には民家や電車などの交通機関も整っている。住民の生活の場の真ん中にある軍事基地といえる。
 


墜落現場(青矢印、厚木基地(緑矢印、Googlemapより)
 

海上自衛隊と米海軍が共同使用する厚木基地

 
厚木基地の北西部にある住宅の女性に伺うと「私は今90才で終戦の時は18才でした。ゼロ戦は性能が悪かったのかよく落ちているのを見ました。1944(昭和19)年1月のことですが、訓練をしていたと思われるゼロ戦と二人乗りの戦闘機が空中で衝突し、二人乗りの飛行機の方がうちの隣に墜落したのです。隣の家は屋根に機体からの油が降り注ぎ、爆発で引火して全焼してしまいました。私たちの家は物置が燃えただけで済みましたが・・・。搭乗員のうち一人は助かり、一人は行方不明になったそうです」
 


訓練中の飛行機が落ちた場所

 
「戦時中は基地内で滑走路の地ならしなどの仕事をさせられました。飛行機はエンジンをかけたまま並んでいて、後ろに回ると砂埃と風がすごく飛ばされるほどでした」

「また小田急線鶴間駅の方にある山に掩蔽壕(えんぺいごう・敵の攻撃から飛行機を守るための施設)がありました。基地からそこへと続く道路は飛行機を隠すために広くし、道路を滑走して行き来していたのです」
 


基地から鶴間へと続く道路

 
「また予科練(パイロットになるための練習生)が基地内にいました。当時は塀がなくて出入りしやすかったので、夜になるとそのお腹をすかせた若者たちが私たちの家を訪れ、食べ物を求められたので食べさせてあげていました。『今度友達が戦地に行く』といって泣きながら話していた姿は、とてもかわいそうでした」

「基地への米軍の攻撃については、空襲はありませんでしたが、小型機が『バリ、バリ、バリ』と機銃を撃ってきました。また大型の飛行機はアルミ箔のようなものをまく攻撃をしてきました」という。
 


空母ホーネットに帰還したF6F(アメリカの戦闘機写真集)

 
終戦の日について伺うと「終戦の時の玉音放送は自宅で聞きました。しかしその夜基地の方から『バン、バン』などと銃声のようなものが聞こえてきました。私のおじいさんは『戦争はまだ終わっていないんだね』とびっくりしていたのです。終戦間近は兵隊の気が荒れていたからかもしれません」とのことだった。

終戦の日の夜に聞こえてきた銃声は、騒乱を起こし兵士たちが高揚して撃っていたものなのではないだろうか?
 


厚木基地第302航空隊の戦闘機群 (日本軍航空機総覧)

 
さらに基地の北部にある、相鉄線相模大塚駅に近い旧家の86才の男性に伺うと「米軍は終戦後飛行場を使う予定があったので、基地が空襲されることはありませんでした。しかしグラマン(アメリカ海軍の艦上戦闘機)は空中爆破する爆弾による破片攻撃をしてきたのです。破片が四方に散らばって飛んで屋根などに突き刺さる恐ろしいものでした。P51ムスタング(米軍の高性能戦闘機)は機銃での攻撃でした」
 


F6Fは比較的大型の戦闘機だ(アメリカの戦闘機写真集)
 

P51ムスタング。B29に同行することが多かったという(航空機名鑑1939~45)

 
「日本軍はこれらの攻撃から飛行機を守るために、鶴間にあった掩蔽壕に戦闘機を退避させていました。日中に攻撃されるので、朝飛行機は基地を出てから退避させ、夕方になったら基地に戻し、夜間空襲をするB29を落とすために基地から飛び立っていたのです。しかし民間の畑などにも掩蔽壕はあり、桜花(特攻兵器)などが隠されていましたが、グラマンに見つかり機銃で攻撃されることもあったので、意味がない掩蔽壕もありました」
 


厚木基地の掩蔽壕があったあたり

 
「また基地の北部には飛行機の工場があり、雷電(戦闘機)などを作っていました。外国人徴用として台湾人などが働いていたのです。自宅の近くにある、工場へと向かう道を軍歌を歌いながら集団で行進していたのが印象的でした」

「食べ物は少なく大変な思いをしていましたが、日本に対して恩義を感じていたようで、戦後その労働者たちが本国に帰った後、再びこの場所を団体バスで訪問してきたのです。韓国人などと違い、台湾人は親日の思いが強いようです」
 


飛行機の工場があった場所
 

昭和19年夏、厚木基地にて訓練中の雷電11型(日本軍航空機総覧)

 
「私は勤労奉仕で、基地で滑走路の芝植えなどの仕事をやっていました。敷地内には双発機(エンジンを二つ備えた機体)の月光、銀河などがありました」
 


陸上爆撃機・銀河(日本軍航空機総覧)

 
「自宅上空では飛来したB29が攻撃されたり、ゼロ戦が墜落する様子などを何度も見ました。B29に後ろから体当たり攻撃をしたゼロ戦も見たことがあります。この空は戦場でした」とのこと。
 


B29は被弾してもすぐには墜落しなかったという(第二次大戦世界の軍用機図鑑)

 
終戦の日について伺うと「アメリカ軍の攻撃は1945年8月15日までは毎日のようにありました。15日の午前も米空母からの艦載機が基地を攻撃してきましたが、その後ピタリとなくなりました」
 
「『厚木航空隊事件』とは三〇二部隊の小園(こぞの)司令が降伏に反対して基地内に立てこもったものです。しかしマッカーサーが厚木基地に来るために上官が説得に来て、20日に解散したのです。ゼロ戦は20日まで毎日基地から飛び立っていました。私たちは『彼らはどこまでやれるのかね?』と関心は持っていましたが、冷ややかな気持ちでした」
 


厚木基地のエプロンに整列した雷電11型と搭乗員(日本軍航空機総覧)

 
「終戦後マッカーサーが厚木基地に降り立った後、基地内に配備された米軍の軍用機を見てその大きさに驚かされました。また米軍のジープやトラックなども悪路でも軽々と進むのです。そのころ日本では木炭車など力のない自動車を使っている有様で、私は『よくちゃちな戦争をしてきたものだ』と思いました」と答えてくれた。

当時「厚木航空隊事件」のことは周囲にも伝わっていたようで、周辺住民の中には冷静な反応や司令に同調し愛国心を新たにして見守っていた人もいたのではないだろうか? 当時厚木基地周辺は、国内でも少ない特異な空気に包まれていた場所であったといえよう。
 
 
 
「厚木航空隊事件」とはどのような騒乱だったのか?

次に「厚木航空隊事件」という資料から、事件の略歴について見てみると「1944(昭和19)年、第三〇二海軍航空隊が開隊され、小園安名(こぞの・やすな)大佐は指令に着任」。
 


第三〇二海軍航空隊の小園司令(厚木航空隊事件)

 
「1945(昭和20)年、昭和天皇の降伏放送。小園は徹底抗戦を宣言し、全国に抗戦ビラをまく。同日午後、直属の上司が降伏に応ずるように勧告に来るが物別れ。同日夜半にマラリアを発症し、高熱、錯乱状態になり、上司が強制連行しようとするも失敗に終わる」

「21日朝、小園を麻酔でこん睡させ強制的に横須賀野比海軍病院独房に強制連行する。同日午後10時に三〇二空に武装解除・復員命令を下す」

「同午前10時30分過ぎ抗戦組が愛機で基地を離脱。22日朝、目を覚ます。30日午後2時5分 連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥厚木基地に降り立ち日本の降伏・占領を宣言。16日軍法会議が開かれ、『無期禁固刑』を言い渡され、宮城刑務所や横浜刑務所で5年間服役をする」とある。
 


ゼロ戦によって全国各地にまかれたビラ(厚木航空隊事件)

 
本文中には小園司令の騒乱を起こした意図が伺える部分がある。
「『厚木基地を日本最大・最強の基地にして国家の危機を支えてやる』との思いで着任。『特攻は必勝の策ではなく外道』との考えを持ち、部下思いで一度も部下を特攻に出したことがない」という。
さらに「降伏して奴隷的・植民地的な国家に転落したら二度と純正な国家として立ち上がれないだろう」との国家の将来への危惧もあったようだ。

徹底抗戦の思いを持った背景については、秘密裏に降伏工作をしていた上司への不信感などがあるようだ。「純真無垢な兵隊に必勝の信念・玉砕を解きながら、裏では降伏工作を画策して敗北に導く者は軍人にあらず、上官にあらず、これより小園は独自の行動に入る」とのこと。

そして「『このまま敵の軍門に入っては、死んだ仲間に顔が合わせられない。厚木航空隊の名誉にかけて断固戦うべし!』と部下に思いを伝えると、強い団結力から全員は何のためらいもなく一致抗戦を誓った」と騒乱事件へと進んでいく。 
 


「政府に迷わされることなく我らと共に戦え」とある(厚木航空隊事件)

 
単純な意地などではなく、上司の背信的行為を許せず、部下への忠義心や軍人としての精神を貫きたい気持ちから騒乱を起こしたのかもしれない。

ところで本文に「8月15日、基地内のスピーカーからは『11時55分、東部防衛司令部発表、(1)敵艦上機が一部交通機関市街地に攻撃を加えた。(2)11時までに判明した戦果、撃墜9機、撃破2機』とある。この撃墜された米軍機の中に投稿の機体も含まれているのだろう。
 
 
 
取材を終えて

前出で「ちゃちな戦争」との話があったが、日本軍は装備的に劣っていても、苦戦であったからこそ米軍の軍人では持ちえなかった、兵士たちの間の団結力が生まれたといえるのではないだろうか?
 


厚木基地周辺で訓練をする自衛隊機

 
 

―終わり―
 

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陽気なヘンリーさん2017年11月13日 20時30分
名瀬小、名瀬中をまあまあな成績で卒業しましたが 米軍機の話は教わったことも 聞いた事もありませんでした…横浜銀蝿もビックリです。
そう思う 2 そう思わなかった 1
だれかさん2017年11月02日 18時09分
勉強になります
そう思う 44 そう思わなかった 0
ホトリコさん2017年11月01日 13時14分
投稿者です。取り上げていただきありがとうございました。上が一度戦争を始めたら、いくら外交上終戦しましたと決めたところで、下々の者は割り切れません。だから南サハリンの様に国家間のいざこざに巻き込まれてほぼ年末まで旧ソ連軍と交戦していたこともあって、8月15日以降も各地で交戦していて、横浜も例外ではなかったんですね。
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