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101年の歴史を背負うピアゴイセザキ店がついに閉店!

101年の歴史を背負うピアゴイセザキ店がついに閉店!

ココがキニナル!

「ピアゴイセザキ店」が8月上旬に閉店。百貨店「松喜屋」から「ほていや」、「ユニー」と続く歴史ある店舗。競合店の進出やドンキの傘下になった影響か…。伊勢佐木町が危機的とキニナル!(よこはまいちばんさん)

はまれぽ調査結果!

伊勢佐木町の総合小売店・最後の砦とも言えた同店の閉店は、近年の新規競合店に見られる商店街の店舗形態の変化が影響しているようだ。同店を含む伊勢佐木町通りの歴史、現場、そして住民の声など多角的な調査を報告

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ライター:結城靖博

青江三奈(あおえ・みな)の唄「伊勢佐木町ブルース」のメロディーを口ずさみつつ「横浜といえばやっぱり伊勢佐木町でしょ!」と言ってしまうのは、筆者のような「昭和な人々」だけかもしれない。


4丁目の「CROSS STREET」前に建つ「伊勢佐木町ブルース」歌碑


ちなみにこのライブハウス「CROSS STREET」を命名したのは、伊勢佐木町から世界に羽ばたいたフォーク・デュオ「ゆず」だ。が、それはともかく、確かに若者にとっては今や横浜の中心は、横浜駅からMM地区にかけてのベイエリアなのだろう。

しかし、かつて伊勢佐木町は、紛れもなく横浜随一の繁華街だった。「ピアゴイセザキ店」閉店という出来事の重さを知るには、ぜひ同店を取り巻く周辺地域の歴史的背景を確認する必要がある。

というわけで、まずは「伊勢佐木町通り」ストーリーをざっくり紐解こう。


赤枠内が伊勢佐木町通り





横浜、いや「日本第一」のにぎわいだった伊勢佐木町





1903(明治36)年に出版された『横浜繁昌記』の中に、こうある。

「横浜という以上、伊勢佐木町は是非とも知らねばならぬ所である。にぎわいは、けだし日本第一」。東京・浅草、大阪・千日前、京都・京極でさえ「ここには及ばない」と続く。



『(横浜名所)伊勢佐木町通り』(横浜市中央図書館所蔵)


国旗はためく様子から、上の絵葉書は1909(明治42)年の開港50周年記念祭の光景と思われる。

『横浜繁昌記』や絵葉書からわかる通り明治後期には繁栄を極める伊勢佐木町が生まれたのは、1874(明治7)年のこと。町名は地域の道路整備に貢献した商人、伊勢屋中村治兵衛(いせやなかむら・じへい)、佐川儀右衛門(さがわ・ぎえもん)、佐々木新五郎(ささき・しんごろう)の名前に由来する(横浜開港資料館館報より)。

当初は遊郭や芝居小屋で栄えたようだが、それがショッピング街に脱皮するのが開港50周年記念祭頃から。

明治の終わりには、松坂屋の前身となる野澤屋などの百貨店(当初は呉服店)、映画館などが数多く建ち並び、また書店・有隣堂なども現れ、繁華街として全盛期を迎える。

ただ、もちろんこの町もご多分にもれず、震災と戦災という二つの大きな惨禍に見舞われる。



『大正十二年九月一日横浜市大震災惨状 伊勢佐木町野沢屋呉服店前』(横浜市中央図書館所蔵)


だが、その都度たくましくよみがえってきた。下は関東大震災復興期の絵葉書。白い建物が震災後再建された野澤屋だ。


『(大横浜)伊勢佐木町通り』(横浜市中央図書館所蔵)


下は太平洋戦争勃発直前、1941(昭和16)年1月の写真だ。吉田橋側から戦前のウエルカムゲートを望む。


『(大横浜名所)伊勢佐木町通り』(横浜市中央図書館所蔵)



上の写真とほぼ同じ地点から撮った現在


伊勢佐木町の繁栄は、震災前の明治後期が第一期、震災復興から戦前までの昭和初期が第二期とみなされている。第二期の繁栄下に、「銀ぶら」ならぬ「イセぶら」という言葉も生まれた。

終戦後の連合軍占領期に、この地に三度目の不運が及ぶ。駐留軍による商業施設の接収だ。のちに松坂屋となる野澤屋、やがて松坂屋に吸収される松屋、今も健在な不二家など大型店舗が軒並み接収され、米軍兵士が闊歩する町と化す。

戦後の商業施設接収は、復興の立ち遅れに大きな影響を与えた。主権回復後の1951(昭和26)年から接収は徐々に解除されるが、その後伊勢佐木町に繰り出す人出は、戦前の半分以下に落ち込み、その間に横浜駅周辺などの新たな開発が進む。

この斜陽化の流れに逆転ホームランの願いをかけたのが、1978(昭和53)年から始まる「ショッピング・モール化」だった。「モール」とは、街路樹やベンチなどがある歩行者専用商店街のことだ。



現在のイセザキモール


だが結果的には、バブル期(1990年前後)に開催された「横浜博覧会」を機に進むみなとみらい地区など、臨海エリアの再開発に圧倒されたまま今日に至る。

その間、1978(昭和53)年には横浜発祥の呉服店「鶴屋」の流れを汲む百貨店「松屋」がライバルの松坂屋(前身は「野澤屋」、そして「ゆず」路上ライブの聖地)に吸収され、その松坂屋も2008(平成20)年に惜しまれつつ閉店する。

松坂屋の閉店は地元住人だけではなく、横浜市民にとって時代の大きな変化を感じる象徴的な出来事だった。はまれぽにも、行く末を案じる記事がある。




ピアゴイセザキ店の歴史について





ざっと伊勢佐木町の栄枯盛衰の歴史をたどってきた。こうした中、ピアゴイセザキ店はどのような立ち位置だったのか。

ピアゴイセザキ店の場所(すでに「閉鎖」と記されている)

これについて、まずは閉店前に親会社のパン・パシフィック・インターナショナルホールディングス(PPIH)の広報室・ユニー担当部署からいただいた、同店の歴史についての簡潔な回答を紹介しよう。



2020(令和2)年8月8日。閉店前日のピアゴイセザキ店


「(ピアゴイセザキ店は)1919(大正8)年に呉服屋として創業し、戦後百貨店に業態転換した『松喜屋(まつきや)』を、ユニーの前身『ほていや』が1969(昭和44)年4月に継承開店した店舗。2009(平成21)年に『ユニー』から『ピアゴ』に屋号を変更し、2013(平成25)年8月18日に建て替えのための閉店、2015(平成27)年7月3日にユニーとして初の食品フロア2層タイプにリニューアルオープンしました」

さかのぼること実に101年。この店の歴史は1世紀に及ぶのだった。
では、そもそもの呉服店「松喜屋」とは、どんな店だったのだろう。横浜市中央図書館の絵葉書の中から貴重な1点を発見した。



『横浜伊勢佐木町通り活動館』(横浜市中央図書館所蔵)


画像左端に注目してほしい。赤い幟(のぼり)に隠れてわかりづらいが、よく見るとそこに松喜屋がある。


同上(部分拡大図)


黄色い囲みの中に「赤燈䑓マツキヤ」と書かれている。かつて松喜屋の屋上には赤色の灯台を模した塔があり、店は「赤灯台」という愛称で呼ばれていた。画像の屋上に見える突起がその塔だろう。

いっぽう幟の林立する絵葉書のタイトルに「活動館」と書かれている通り、松喜屋の周辺は劇場街だった。

横浜市中区役所が編纂した『中区わが街』という書籍巻末に、「伊勢佐木町3丁目記憶絵図(戦前)」が掲載されている。それを見ると現在のドン・キホーテからピアゴ付近までの間だけでも「オデヲン座」「又楽館(ゆうらくかん)」「寿亭(ことぶきてい)」の3つの映画館と「喜楽座(きらくざ)」「朝日座」の2つの劇場がある。

それを現在の地図に重ねると、こうだ。



© OpenStreetMap contributors)


ちなみに、現在ドン・キホーテが建つところにあったオデヲン座は、日本初の洋画専門映画館だった。


『(大横浜名所)伊勢佐木町通り』(横浜市中央図書館所蔵)



現在の同じ付近



喜楽座は今、横浜日活会館


伊勢佐木町の入口近くに店を構えていた野澤屋呉服店などと比べると規模的には大きくはないが、松喜屋はそんな歓楽街の只中にあったのだ。

「赤灯台」の名で親しまれた松喜屋は、戦後、ほていやに代わる12年前の1957(昭和32)年に、百貨店風の建物に建て替わる。

下はPPIH広報室から提供していただいた「松喜屋からほていや、そしてユニーへと継承されてきた建物」の写真だ。画質は厳しいが貴重なものなので掲載しておく。



1957年に建て替えられた建物(写真提供:PPIH広報室)


同室によれば1970年代とのことだが、わずかに見える屋上のロゴマークがユニーのものなので、同年代後半と思われる。

下はもう1枚、同室から提供されたもっと鮮明な写真。すでに屋上のロゴがピアゴに代わっているので2009年以降だろう。



(写真提供:PPIH広報室)


2枚の写真から共通してわかるのは、以前の建物が5階建てだったということ。1階が食品、2・3階が衣料・インテリア関係など、4階が生活雑貨、5階がリサイクルショップだった(ある時期のフロア構成の一例)。

また、松喜屋~ほていや時代には屋上に遊戯施設もあった。そこへ通じる5階・屋上間踊り場の看板「屋上お子様遊園」は、建物が取り壊されるまで残されていた。



この写真に懐かしさをこみ上げる人もいるだろう(写真提供:PPIH広報室)


この建物はPPIH広報室の回答にある通り2013年に取り壊され、2年後の2015年に新たに3階建ての建物に生まれ変わり現在に至る。


こちらがリニューアルされた建物のフロア構成





ピアゴ閉店の理由を探る





もちろんPPIH広報室には、ピアゴ閉店の理由も尋ねた。その回答は概略以下の通り。

――近年の競合店出店などによる収益率低下に対して、さまざまな施策を講じてきたものの、採算性の改善、成長が見込めず、断腸の思いながら閉店の判断に至った。

キニナル投稿が指摘するドン・キホーテとの関係については、むしろ傘下になることで引き出しが増え好影響を得ていたという。



ドン・キホーテはモールをはさんで目と鼻の先に店舗を構える


いただいた回答は型通りのものといえるが、公式には現状こうした表現にとどまらざるを得ないことは理解できる。

だが、もう少し踏み込んで何かが見えてこないだろうか。そんな思いを抱きつつ、閉店前日の店頭で利用客に取材を試みた。



閉店セールもあと二日。買い物袋を膨らませた人たちが次々と店から出てくる



お店との付き合いが長そうに見受けられる何人かの客に声をかけてみた



年配の女性客の多くは自転車を利用していた。「自転車が足なの」という


お話を伺えたのは60代と70代の女性二人。どちらの意見も次の1点で一致していた。
「ここに来れば食料品から衣料品、日用雑貨まで何でも揃う。それが良かった。迷わず安心して買い物ができたから」

確かに最近は、値段だけならもっと安い店が周辺に数々できた。でも、いちいち買う物によって移動しなければならないのが面倒だという。「松屋も松坂屋もなくなっちゃって・・・」というのも決まり文句のように耳にした。

なるほどと思いつつ、ピアゴから離れて、伊勢佐木町通りを関内に向かって歩いてみた。



ドン・キホーテには日用雑貨は何でもある。だが食品となると・・・


それに年配の方には、「この店は迷路のようで」と言って敬遠する向きもあるようだ。

関内方面に向かってさらに進んでいくと、通りの左手、かつて大丸百貨店があった場所には今、ユニクロとダイソーが入るビルが建っている。



衣料品、それにここでも日用雑貨が調達できる



右隣りには旧松屋(のちの松坂屋西館)のエクセル伊勢佐木が


でも、ここは場外馬券場なので買い物的にはスルー。


そのすぐ先左の旧松坂屋(前身・野澤屋)跡地にレトロな建物が


現在は「カトレアプラザ伊勢佐木」だ。ここには、食品スーパー「新鮮イセザキ市場」やドラッグストア「トモズ」、衣料品店「ジーユー」、眼鏡店「眼鏡市場」、百均の「ダイソー」、靴店「アスビー」等々が入っている。どこも低価格をモットーとする店だ。

さらに進むと、もはや関内駅だ。そこまで足を運べば、大型ショッピングセンターの「セルテ」がある。



関内駅前にセルテがドーン!


ここは上の階はレストラン街だが、中階にはやはり百均のダイソーなどがあり、地下には低価格で知られる「食品館あおば」が入っている。

関内駅まで来てしまったのだから、さらに足の向きを変えれば、イセザキモールと並行して走る鎌倉街道沿いの羽衣町バス停前に「マルエツプチ」がある。



食料品に特化したスーパーだが24時間営業が売りだ



また、同街道沿いの比較的ピアゴに近い中郵便局交差点角には、やはり食品中心のスーパー「サミット」がある。


サミットの入るビル内にはドラッグストア、百均、家電店も


今日話を聞いたピアゴ常連客の方々が、今後の食料品購入先として真っ先に挙げたのが、このサミットだった。


© OpenStreetMap contributors)


こうして見てくると、だんだんわかってきたことがある。

かつて松坂屋、松屋ばかりか大丸、丸井などズラリと百貨店が並んでいた伊勢佐木町通り。そうした道筋に、百貨店・松喜屋の流れを汲むユニー(=ピアゴ)もあった。

だが「百貨店」という言葉が象徴するような「そこに行けば何でも揃う」という販売形態が、バブル期を境に次第に採算性の面から行き詰まっていったのだろう。

現に今この通りの周辺を歩くと、食料品、衣料品、日用雑貨など、販売する商品を効率的に絞ることによって低価格化を実現するチェーン店系列の小売店が幅を利かせている。
この状況の変化こそが、ピアゴイセザキ店が歴史の幕を閉じる大きな要因になったのではないだろうか。




ピアゴイセザキ店閉店の一日を追う!



首都圏に熱中症警戒アラートが発令した2020(令和2)年8月9日、101年の歴史を背負った「ピアゴイセザキ店」が最後の日を迎えた。

筆者はこの日、開店前の朝から閉店後の夜のとばりが降りるまで、同店の取材を敢行した。



開店10分前の店頭


閉店の日、ピアゴの開店時間は午前10時。その少し前に到着すると、すでに店先には行列ができていた。


開店直前には行列は建物脇の路地まで延びる



ようやく開店した店内へ吸い込まれていく人々を眺める黒い服の男性がいた


自転車で現れたその男性は、行列を整理する店員に「今度どこに移るの?」と尋ねた。店員が「いえ、移転じゃなく閉店するの」と答えると、「えっ?」と驚いた顔を見せた。

直後、男性に声をかける。74歳の元気な元警察官だった。南区の蒔田(まいた)から自転車で昔から買い物に来ていたという。「惣菜が安くて量があったんだ。店先の吊るしの下着類もよく買ったなぁ」。ただ、「閉店してもサミットがあるから食料品は不便しないよ」とも。



閉店日の入口の様子


この日、入口前には店先の混在緩和のためだろう、クランク状の誘導柵が施されていた。また、扉に立つ店員が買い物客一人ひとりの手指に除菌スプレーをかけていた。

筆者も人々の流れに乗って店の中へ入る。

店内には「長年のご愛顧への感謝を込めて」閉店を告げるアナウンスが繰り返し流れていた。その声の下で、各フロアはあっという間に人で溢れる。特に3階の吊るしの衣類のセールコーナーは早々と満員状態だ。それに対して1・2階の食品売り場に若干人が少ないのは、すでに棚が品薄状態だからか。

感染防止対策の一環だろう。店内は空調を目一杯利かせていて少々寒い。10時半には店内の混雑回避のため入場制限が始まった。



入場制限をかけるとまたすぐに行列ができる。その繰り返しが続く



昼下がりともなればモールの歩道には熱気が立ち昇るかのようだ



だが重そうな買い物袋を提げて店を出てくる人々はあとを絶たない



大きな荷物を自転車に積むのに悪戦苦闘中のお母さんがいた


そばでおとなしく待つ幼い女の子の姿に引かれ、ようやく荷物を積み終え、女の子も自転車に乗せたところで声をかける。女性は夫婦揃ってはまれぽファンとのことで、快く取材に応じてくれた。

34歳の女性は5歳の男子と2歳の女子の母。自転車で10分ほどの阪東橋付近に10年くらい前から住み、週に数回店を利用。

子ども服のようなちょっとした衣類が買える店がなくなること、惣菜がおいしかったこと、火曜日の特売日のこと、ピアゴ会員だったので金曜日は5%オフだったことなど、閉店を心から惜しんでいる様子で話してくれた。



こちらは親子三代で買い出しに来た模様


「こりゃまた、えらい荷物だな」と思いつつ、年配の女性に声をかけてみた。
62歳の女性は歩いて7~8分の伊勢佐木警察署近くに20歳から住んでいる。当然ユニーの初期の時代から店を知るツワモノだ。

この方は屋上の遊戯施設を覚えていた。「だって(今30代後半の)娘をしょっちゅう遊ばせていたもの」と。「汽車の形をした小さな乗り物」や「下にバネがついていてお金を入れると動く乗り物」、そのぐらいしか記憶にないが、「食べるところ」もあったという。

やがて少しずつ閉店時間が近づいてきた。最終日の閉店はいつもより早い午後6時だ。



その1時間ほど前の店先


「本日完全閉店18時」のプラカードを掲げる店員が「店内は大変混雑しており、商品も残りわずかです」と呼びかけていたが、それでも行列はむしろさらに長くなってきた。


店から出てくる人々の荷物の量も増している


閉店が近づく店内の様子を覗いてみた。
商品の値引き幅は午前中よりも大きくなり、たとえば、2本で30%オフだった紳士服のスラックスが1本50%オフに切り替わっていた。

また、ほとんどの陳列棚からすでに商品が消え、混雑は2階の精肉・鮮魚の平台の棚に集中しているように見えた。店側も、生モノは出来るだけ売り残したくないのだろう。

店の外では、店員たちが「まもなく閉店のお時間となります。只今、商品はほとんど売り切れです」と声を張り上げていた。



だが行列は閉店まであと30分を切ってもこの状態


そして閉店5分前に、シャッターが3分の1ほど降ろされた。


行列を遠巻きにして眺める人々の姿も増え始める



やがて午後6時ちょうどとなる


最後尾の客が店内に入っていくと、入口のシャッターが静かに降りていった。


完全に閉まった入口のシャッター


その前で、「18時で閉店しました 入店できません」というプラカードを抱えた店員が頭を下げた。だが入口は閉まっても、店内にはまだ買い物客がたくさんいる。


午後6時半になっても出口はこんな状況。まだまだ客が出てくる



午後6時45分頃、中央の自転車置き場のシャッターが降り始める



最後の客が店から出てきたのは、結局閉店後1時間近い午後6時55分頃だった


その後ろから、店長らしき人を先頭に店のスタッフたちが続々と外に現れてきた。


やがて出口の前で一堂姿勢を正し整列する


中央の店長らしき人が「本日ピアゴイセザキ店は、これをもちまして閉店いたします」から始まり、長年の地元住民からのご愛顧への感謝と、閉店によるご不便を詫びる挨拶を行った。


挨拶が終わると全員が深々と頭(こうべ)を垂れた



それに対して別れを惜しむ人たちは拍手で応える


店の前に集まった人たちの数は、ざっと見ても100人は下らなかった。


最後のシャッターが降り切るまで、店員たちのお辞儀と客たちの拍手は続いた



そしてシャッターは、完全に閉まった。2020年8月9日午後6時57分



閉店後もしばらく店の前で記念写真を撮る人の姿が見られた



そんな様子をじっとみつめる一人の男性を発見


その背中から「感慨深げ」のオーラを発していたので声をかけてみた。

頭にタオルを巻き、いかにも地元の商売人といういでたちの男性は、今65歳。もう50年近く、ここ「ザキ」(地元民にとっての伊勢佐木町の愛称)で商店を営んできたという。
「寂しいねぇ」と、男性はしみじみ呟いた。

PPIH広報室からも、今後のピアゴ跡地利用については「非開示とさせていただきます」ときっぱり回答されたが、長年この地で商売を続けてきた男性ですら、「この先どうなることやら」という様子だった。まあ、いろいろと噂だけは飛び交っているようなのだが・・・。



取材を終えて





都市は生き物だ。時代とともに絶え間なく変化していく、それは当たり前のことだ。その流れの中で、人々は知恵を絞り、たくましく生きていく。

たとえば伊勢佐木町にしても、冒頭に触れた「ゆず」が命名したライブハウス「CROSS STREET」。



CROSS STREET


10年前にモールの終点近くにこのガラス張りのライブハウスができてから、周辺の雰囲気はずいぶん変わった。もともとジャズの街・横浜だ。ここでジャズをはじめライブが行われる週末は、行き交う人々の層も変化し、通りは活気づく。

とはいえ、記事の前半で紹介したように、伊勢佐木町の歴史はあまりにも濃い。なんといってもかつて日本一の繁華街だったのだから。

とすれば、新しいもので街を活性化すると同時に、歴史という財産を後世に伝えることでも、この地の魅力を再発信できないだろうか。歌謡曲の「歌碑」だけではなく。

ピアゴなき後、その場所のほんの一部でもいいから、そんな利用のされ方をしたら素晴らしいのに、などと夢のようなことを考えてしまった。



―終わり―


取材協力

株式会社パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス
コーポレートコミュニケーション本部 PPIH広報室(ユニー広報担当)
住所/愛知県稲沢市天池五反田町1番地
電話/0587-24-8011

横浜市中央図書館
住所/横浜市西区老松町1
電話/045-262-0050
開館時間/火~金9:30~20:30、その他9:30~17:00
https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/tshokan/central/


参考資料

『伊勢ぶら百年』伊勢佐木町一・二丁目商和会編集、伊勢ぶら百年編集委員会発行(1971年8月刊)

『中区わが街――中区地区沿革外史』“中区わが街”刊行委員会・横浜市中区役所発行(1986年1月刊)

『イセぶら百科』神奈川新聞社編集局編集、神奈川新聞社発行(1986年4月刊)

館報『開港のひろば』第110号 横浜開港資料館
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/110/index.html



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  • 店先のよくわからんワゴンのイメージがあります。ぶらっとお菓子や飲み物を買いに寄った思い出が。ほていやは昔弘明寺にもありユニー→ピアゴになり一昨年たが取り壊し分譲マンションに変わりました。

  • たま~にイセブラして、夕食や表の衣料品ワゴンの品を買い求めておりましたので、やっぱり寂しいですね。

  • 毎日、一生懸命に頑張って、関わりある人々に認められ、惜しまれつつ退くことのすばらしさを、あらためて教えられた気がします。

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