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横浜の古道を歩く 東海道その5 ―戸塚宿後編―

横浜の古道を歩く 東海道その5 ―戸塚宿後編―

ココがキニナル!

市内に残る「古道」を調べていただけませんか?「えっ!普段歩くこの道が?」「こんな崖っぷちの道が?」など。家の裏の小道が昔は重要な街道だったとか、凄く浪漫があります。(よこはまうまれさん)

はまれぽ調査結果!

横浜の古道を一筋一筋丁寧に歩くことで、ピンスポットのガイドでは得られない「旅する感覚」を再現。まずは王道の東海道。その第5回は戸塚宿の中心地を通って、ついに藤沢との市境に到達!

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ライター:結城靖博


近世の大動脈・旧東海道を横浜の端から端まで歩き通す今回の企画も、いよいよ佳境だ。


© OpenStreetMap contributors)


戸塚宿(とつかしゅく)の江戸側からの入り口である江戸方見附(えどがたみつけ)に到達したところで終わった前回。当初の予定だった回数で完結できなかった横浜市内の東海道中も、この第5回目でやっと完全踏破を遂げることになる。

しかし、戸塚宿江戸方見附から藤沢市境までの距離は長く、また見どころも満載だ。ただし街道筋に沿ったポイントが多いので、寄り道は比較的少ない。



江戸方見附の先に戸塚宿を代表する場所が待つ





ではさっそく、国道1号線・江戸見附前交差点そばの江戸方見附跡からスタートしよう。


国道の右手、イオン駐車場前に建つ江戸方見附跡


ここから国道(別名・戸塚道路)を南下すること数分、元町交差点を過ぎてまもなく左手に「吉田一里塚跡」が現れる。


ただしここは史跡標柱のみ


日本橋から10番目の一里塚跡だが、車がせわしなく通る国道から、街道の両脇にあった5間(約9メートル)四方・高さ1丈(約1.7メートル)の一里塚を想像することは難しい。


その先をさらに1分ほど歩くと



少し大きな橋に出合う


橋の名は「吉田大橋」。ここは、東海道戸塚宿を代表する下の浮世絵が描かれた場所だ。


広重(初代)筆『東海道五拾三次之内 戸塚 元町別道』(横浜市中央図書館所蔵)


広重の浮世絵と前掲写真は、ほぼ同じ方向をとらえている。旧東海道は橋を渡った先に続き、いよいよ宿内(しゅくうち=宿場の中心地)に入っていく。

いっぽう浮世絵の中央、橋のたもとに「左り かまくら道」と書かれた道標が描かれている。目の前の川は柏尾(かしお)川。川沿いの道を左へ進むと、やがて鎌倉へ通じる。

ただし、「鎌倉道(かまくらみち)」は数々ある。この道は別名「吉田道(よしだみち)」)とも呼ばれた。またこの辺りの柏尾川は広重が描いた時代よりも拡張されているので、絵に描かれた道標も、橋の手前の茶店「こめや」も、当時あった場所とはちょっと異なる。

だが広重の絵の中の道標は、場所を移して現存している。それを一目見るべく、「寄り道は少ない」と言っておきながら、早々にここでちょっと旧東海道を逸れたい。


橋の手前を左折して柏尾川沿いを進むと



すぐ左側にある脇道へ入って



住宅地の狭い道を歩いていくと



一度右折した左側に寺院が現れる


寺の名は妙秀寺(みょうしゅうじ)。


この寺院の境内に道標が移築されている


だいぶ風化していて今では下半分しか読み取れない。広重の絵の中では「くら道」となっているが、実物は「くらみち」と全部平仮名だ。
などと、細かいチェックを入れたところで、旧東海道に戻るとしよう。


吉田大橋を渡るとすぐに矢部団地入口交差点に行き着く


ここで道は左右に分岐するが、旧東海道は左側に続く。


左の道に入ってしばらくすると、右手に善了寺(ぜんりょうじ)の参道を認め



その先はどんどん繁華街っぽくなっていく



そしてまた道は二又に分かれる


この二又を左に行けば戸塚駅東口駅前だが、旧東海道は右手の道だ。


右寄りに進むとまもなく、巨大な歩道橋が目の前に出現



そして歩道橋の下はJRの線路だ


この大歩道橋の名は「戸塚大踏切デッキ」。この場所こそ、連載前回の不動坂交差点の箇所で触れた、大磯へ帰宅する吉田茂首相をも悩ませ、俗称「ワンマン道路」を造らせるきっかけとなった「戸塚大踏切」の跡だ。

フェンスで遮られた旧大踏切前には解説板があり、いにしえの大渋滞の様子を伝える写真がいくつも掲げられている。


これはそのうちの1枚


ピーク時には1時間に57分間閉じたままだったというこの「開かずの踏切」がなくなったのは、わずか6年前のことだ。2014(平成26)年に「大踏切デッキ」、翌年に「戸塚アンダーパス(地下道)」ができ、ようやく「戸塚大踏切」は完全閉鎖する(閉鎖時の様子ははまれぽ過去記事をチェック!)。

ちなみにアンダーパスは、さきほど通過した矢部団地入口交差点の二又を右に進んだ先にある。


大踏切デッキ橋上の様子


こうした交通整備と並行して進められてきた周辺の再開発を経て、便利になったと同時に、昔ながらの駅前商店街の姿も様変わりした。


デッキの上から見下ろした戸塚駅西口方面の眺め



デッキを渡り終えて西口駅前の旧東海道を歩く


左手のビルは再開発によって生まれた大型ショッピングモール「トツカーナ」。その先には、立体歩道が複雑に錯綜する歩道橋が見える。


歩道橋の下は清源院入口交差点


ここは、アンダーパスの終点から伸びる道と旧東海道との合流点で、街道はさらに左手に続く。

そして上の写真の赤い矢印が示す脇道に入ると、清源院(せいげんいん)がある。ここでまた、ちょっと寄り道。


目的地は、上り坂の脇道を入ってすぐ右手だ


連載第3回の保土ケ谷宿編に登場した大蓮寺には、徳川家康の側室だったお万の方(おまんのかた)ゆかりのザクロの木が植えられていたが、この寺はもっと彼女に縁が深い。

なにしろ「清源院」は、お万の方の法名である。


参道を上るとすぐ左手に瀟洒な本堂が建つ


1616(元和2)年、病が重くなった家康の元に、すでに側室を辞していたお万の方が出身地の岡津(横浜市泉区)から駆け付ける。彼女の見舞いを大いに喜んだ家康は、貴重な「歯吹阿弥陀如来(はふきあみだにょらい)」を彼女に賜る。そして同年家康が没すると、彼女は家康の菩提を供養すべく、その如来を本尊とする寺をここに創建した。


境内にある階段下の両脇に石碑が建っている


右は江戸時代後期、当地の著名な俳人・味岡露繍(あじおか・ろしゅう)が建立した芭蕉碑で、「世の人の 見つけぬ花や 軒のくり」とある。

左は幕末、境内の井戸で心中した若い男女を弔うために建てられた心中句碑だ。薬屋のせがれ清三郎(19歳)と遊女ヤマ(16歳)。句は「井にうかぶ 番ひの果や 秋の蝶」。

この二つの句碑にはさまれた低い階段を上ると、そこは墓地だ。


墓地の奥の階段をさらに上っていくと



上りきった狭い敷地の左側に、もう一つ重要な碑がある


最奥部に、縁石に囲まれた大きな墓石が建つ。だが目当ての場所はそこではなく、その手前右手の木陰にひっそり佇んでいた。


小さな石碑のそばの木札に「於萬の方火葬跡」と書かれている


意外なほど質素なその光景に、家康が寵愛した側室・お万の方の人柄が偲ばれるようだ。ちなみに、こちらのお万の方は、三代将軍家光の側室だったお万の方とは別人物。歴代の大奥には「お万の方」が複数存在していたという。

戸塚宿江戸方見附から清源院入口交差点までの旧東海道の距離は約1.2km。寄り道しなければ徒歩15分強の道のりだ。下の地図の赤いラインがそのコースで、紫のラインが寄り道コース。


© OpenStreetMap contributors)




いよいよ戸塚宿の宿内に足を踏み入れる





清源院入口交差点から先の東海道は、すぐ左側に戸塚駅西口前のバスターミナル「戸塚バスセンター」が広がり、頭上を「トツカーナデッキ」「サクラスデッキ」など複数のデッキからなる大歩道橋が覆う。


たった今味わった静謐な空気とは打って変わって現代的な景色



とはいえバスセンター前交差点を渡ると、そこは戸塚宿の宿内だ


「宿内」とは宿場に欠かせない重要施設を備えた宿場内の中心地のこと。


交差点を越えた左手に、クリニックがたくさん入るビルが建つ


この建物の中には、戸塚宿のジオラマが展示されている「交流広場とつか」があるのだが、残念ながら訪ねたときはコロナ禍の緊急事態宣言下で休館中だった。

しかしこの通り沿いのごく限られたエリアに、宿内の記憶を今に伝える史跡が固まって残されている。最初の一つが、「交流広場とつか」が入るビルと、街道を隔てて真向かいに建つ郵便局の前にある。


標柱に「内田本陣跡」と書かれている


本陣(ほんじん)とは宿場内で大名や公家、役人などが宿泊した施設だ。

1601(慶長6)年に幕府によって宿駅伝馬(しゅくえきてんま)制度ができると、保土ケ谷・藤沢はいち早く宿駅(=宿場)に指定された。だが、その中間に位置した戸塚に宿場が置かれたのは、それから遅れること3年後のこと。

しかしここには本陣が二つあり、内田本陣はそのうちの一つだった。また、本陣の予備施設ともいえる脇本陣が3ヶ所、一般の旅人が泊る旅籠(はたご)が75軒と、最盛期の戸塚宿は城下町の宿場に次ぐ規模だったという。


内田本陣のすぐ先左側に問屋場(といやば)跡がある


「問屋場」は公用旅行者の荷物の運搬や飛脚業務を取り扱う、いわば役所のような施設だ。戸塚宿には全部で3ヶ所も問屋場があった。


問屋場跡を過ぎると、またすぐ右手に脇本陣跡がある


脇本陣の役割は前記した通りだが、本陣として使用されない時は一般旅行者の宿泊も許されていた。

なお、この付近には蔵書家として広く知られた江戸後期の文人・鈴木長温(すずき・ひさよし)を輩出した大店(おおだな)「伊勢屋」の広大な屋敷があったそうだ。


ちょうど脇本陣跡の背後に、今は駐車場のそれっぽい敷地があるけれど・・・


ここかどうかは定かでない。それにしても、バスセンター前交差点からここまで見てきた史跡は、いずれも「そこにあったこと」を示す印にすぎない。


脇本陣からさらに1分ほど歩いた右手に現れる史跡にも、同じことは言えるのだが



ただ、それまでの場所とはだいぶ趣きが違う


ここは「澤邊(さわべ)本陣跡」。もう一つの本陣があった場所だ。

本陣創設時の澤邊家の当主は、戸塚宿開設を幕府に強く働きかけた功労者だったという。また、明治天皇が東下する際、この本陣が行在所(あんざいしょ=天皇の休憩地)になったことを示す立派な石碑も建っている。


左横の門柱の表札を読むと「澤邊」


今も本陣跡の裏手は澤邊家の住居で、


敷地の奥にはなんと鳥居と社殿もあった


戸塚宿の鎮守の一つ、羽黒(はぐろ)神社だ。澤邊家の先祖が、戦国時代に羽黒山の羽黒大権現から分霊を請けたものとか。


そこから100メートルほど行くと、右手にまた参道が


奥へ入ってみる。


ここは約650年続く禅寺の海蔵院(かいぞういん)だ



街道に戻って先へ進むと、右手に老舗風な建物の店を発見


「神崎畳店」とある。長い歴史を持つ宿内の街道沿いにしては、それを感じさせる商店があまり見当たらなかったので、とくに目を引く。


その店からまた100メートルほど先の右手に、古い鳥居が建っていた



ここは八坂(やさか)神社、ちょうど境内は工事中


社殿は小ぶりなものの、やはり戦国時代の16世紀後半から続く戸塚宿の鎮守だ。また、この神社では、例年7月に市の無形文化財にも指定されている祭礼「お札まき」が行われる。


境内にはそれについての解説板もあった


この祭礼がなかなか面白い。十数人の女装した氏子(うじこ)が風流歌を歌い踊り、五色の神札をうちわでまき散らす。歌詞の中には「病をよける、コロリも逃げる」という文句も。人々はそのお札を争って拾い、家の戸口や神棚に貼るという。

江戸時代中期に江戸や大阪で盛んに行われたが、今ではここにしか残っていないそうだ。

八坂神社前交差点を越えてさらに南下すると、


数分で戸塚町(とつかちょう)交差点に至る



この交差点の右手に、またもや古い鳥居がどっしりと構えていた


鳥居の奥には長い急階段があり、


息を切らして上りきると、目の前に立派な社殿が建つ


ここは冨塚(とみづか)八幡宮。戸塚の総鎮守だ。創建はなんと平安時代の1072(延久4)年にさかのぼるという。


社殿の中も神々しい


神社の祭神は譽田別命(ほむだわけのみこと)と富属彦命(とつぎひこのみこと)の二柱。社殿背後の山頂に、その富属彦命の墓とされる前方後円墳があり、「冨塚(とみづか)」と呼ばれていた。それが「戸塚(とつか)」の地名の由来といわれている。


社殿左に古い庚申塔が並ぶ細道がある



その奥の斜面が山頂へ続いていそうだ


ここを上ると「冨塚」があるのかもしれない。だが、見ての通り通行止めになっていた。


神社を出た後、街道沿いから社殿山頂を望む


あのこんもりと樹木の茂る辺りに前方後円墳があるのだろうか。

それにしても宿場内はさすがに神社仏閣が多いなと感じつつ、さらに街道を南へと進む。


すると、数分で左手にローソンが見えてきた



近づくとバス停の前に史跡を発見


ここは戸塚宿上方見附(かみがたみつけ)跡だ。ついに、宿場の京側の出入り口に到達した。


史跡標柱にはいつの頃かはわからないが、古写真が刷り込まれている


今はだいぶ可愛らしいサイズになっているが、この見附の道沿いには昔から松の木が植えられていたことがわかる。

清源院入口交差点から上方見附跡までの距離も約1.2km。ただ歩くだけなら所要時間15分あまり。平坦な道が続くので、歩きやすい道程だった。


© OpenStreetMap contributors)




戸塚宿の先はまた交通量の激しい道へ





上方見附跡の前にあるバス停名は「大坂下」。


名前の通りここから先は、かなり長い上り坂が続く


今は整備されて比較的なだらかだが、昔は切り通しのある急坂で、荷車・牛馬車が車押しの人夫に助けられながら上ったという。


ようやく坂の終わりも近い、ここは大坂上交差点



上りきると、久々に車がビュンビュン通る幹線道路が待っていた


ここで、旧東海道に沿って続いていた国道1号線は、もう一つの国道1号線、すなわち不動坂交差点から始まる「ワンマン道路」と合流する。


近くの歩道橋上から合流点を見下ろす


歩いてきた戸塚宿方面を向いて撮影している。右手が上ってきた大坂、左がワンマン道路だ。


橋上で後ろを振り向き、これから進む先を望むとこんな感じ


事前資料によると、かつて大坂を上りきると富士山が眺められたという。好天なので期待したが、歩道橋の上からもその姿は見えなかった。

ところで上の写真の画面左、東海道(=国道1号線)の先をよく見ると、上下車線の中央が分離している。ここは、日本初のダブルウェイ(上下線分離道路)の起点なのだ。


中央分離帯には松並木が続く


これは、かつて大坂上から原宿まで続いていた巨大な松が連なる街道を再現したもので、その景観は「東海道一」とうたわれていたという。


ダブルウェイの中間付近のバス停脇に、石碑がポツンとある


バス停名は「西横浜国際病院前」。


石碑を囲う入り口の柱に「お軽勘平の碑建設実行委員会」と書かれている


この石碑は、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』の登場人物、「お軽」と「勘平」の有名な『戸塚道行(みちゆき)の場』にちなんで造られたという碑だ。


広重(初代)・豊国(?)筆『東海道五拾三駅 名画之書分 程ケ谷 戸塚』(横浜市中央図書館所蔵)


「お軽勘平」の話を紹介すれば長くなるので省略するが、江戸時代、名優7代目団十郎と3代目菊五郎の演技で大評判となったこの歌舞伎の名舞台の碑が、車が絶えない幹線道路の一角にひっそりと佇む光景は不思議な印象だ。

やがてダブルウェイが絶えて、吹上交差点に至る。そして交差点を渡って数分歩くと、左手にまた史跡標柱を見つける。


標柱は赤い矢印のところ


背後は少し小高くなっているが、その奥の敷地は民家のようだ。


標柱には「原宿一里塚跡」とある


江戸から11番目のこの一里塚も、10番目の吉田一里塚同様、史跡の場所を示すのみ。

さらに先へ数分進むと、浅間神社前交差点にたどり着く。


交差点の右手に鳥居が見える



街道を渡って近づくと、木製の簡素な鳥居の右奥にもう一つ重厚な鳥居がある



右の鳥居をくぐると上り坂の参道が100メートルほど続き、その先に社殿がある


参道の両脇には古木が何本も茂っているが、


境内手前右手の椎の巨木は、樹齢600年を超えるという



社殿もいかにも歴史を感じさせる風格だ


ここ浅間(せんげん)神社は、室町時代末期の16世紀後半、富士信仰をもとに当地に建てられたという。


本殿左横にはそれを証す富士講の石塔もある


横浜市内東海道完全踏破の達成を祈って本殿を参拝したのち、引き返すべく参道側を振り向くと、


小高い境内から周辺が一望できた


「おそらく昔は、ここから富士山を拝むこともできたんだろうな」などと思いつつ、しばらく景色を眺めていると、「あっ!」と一瞬息を呑む。
そこは参道に向かって右手、民家の屋根と屋根の狭間の先だ。


薄っすらと、しかし確かに、富士山が見えた(望遠撮影)


広重の浮世絵をはじめ、東海道の景観に欠かせない富士山。この長い連載の中でいつか実景にあやかりたいと思っていたが、ついに念願を果たすことができた。万歳!

ウキウキ気分で街道に戻ると、ふたたび東海道中の南下を始める。


国道はやがて、また松並木をはさむダブルウェイに


ダブルウェイはその後約1km以上続く。その間には、常に渋滞していることで知られる原宿の立体交差点を通過。


やがて中央分離帯が終わると、その先に影取町(かげとりちょう)交差点がある



交差点を渡った左角にまたまた史跡標柱を発見


バス停「影取」の背後に控えめに建ち、うっかりすると見過ごしそうだが、標柱には「影取立場跡」と書かれている。

「立場(たてば)」とは宿場間の街道沿いにあった休憩地のこと。ここは戸塚宿と藤沢宿の間にあった立場だ。今では、標柱の後ろにすでに閉店した釣具店があるのみだが、昔はこの界隈にも茶屋が並び、一息つく旅人たちでにぎわったのだろう。

影取町交差点からさらに1kmほど国道を歩くと、藤沢バイパス出口交差点に到着。


左折する車の列でわかりづらいが


この交差点の歩道橋下で道路は二又に分かれ、右が国道1号線、左が旧東海道になる。つまり、ここでようやく旧街道は交通量の多い幹線道路から離れるわけだ。

また、今回の古道歩きの基礎資料とした横浜市教育委員会発行の古地図帳『横浜の古道』によれば、ここは「境川東岸藤沢八王子往還」の分岐点でもある。


その古道は、国道1号線のさらに右手の住宅地へ続く脇道を入る


鎌倉時代、関東各地の武士が「いざ鎌倉!」と馳せ参じる鎌倉道は「上の道」「中の道」「下の道」の3本あったが、ここはそのうちの「上の道」にあたるとも考えられるそうだ。だが、そのルートには諸説あり、はっきりしたことはわからない。

また、この交差点から鎌倉方面へ向かう道も、宅地開発が進んだ今では判然としない。

とにもかくにも、ここから先の旧東海道は県道30号線。車の数も減って、少し落ち着いた道中となる。


その道を数分歩くと「鉄砲宿(てっぽうじゅく)」という名の交差点にたどり着く


思えばこの名も然りだが、影取という町名も謎めいている。


と思ったら、交差点の近くにこんな解説板があった


「昔々・・・」で始まる解説板を思い切り要約すると――

ある長者の蔵に住み着いていた大蛇が長者の没落後近くの池に去り、池の畔を通る人々の影を食べて生きていた。影を食べられた人は次第に衰弱するので、人々はその池を「影取池」と呼んで恐れた。やがて村人たちから退治を頼まれた一人の猟師が大蛇を鉄砲で撃ち殺し、その猟師が住んだ場所が「鉄砲宿」と呼ばれた、とさ。

解説板を丁寧に読むと、長者から「おはん」と呼ばれて大切にされていた大蛇は必ずしも悪者ではなく、ちょっと悲しい気分になる話でもあるのだが、いずれにせよ、すでにその池もなく、名前と伝説だけがこの地に残った。


周辺は、今やすっかり住宅地と化している


そして、その鉄砲宿交差点からわずか50~60メートル向こうに、


ジャ~ン、藤沢市との市境の標識があった


この先は遊行寺(ゆぎょうじ)の別称で名高い時宗(じしゅう)総本山・清浄光寺(しょうじょうこうじ)へと通じているが、横浜市内に限定した長い連載は、ついにゴール地点に到達した。

読者の皆さま、お疲れ様!

戸塚宿上方見附跡から藤沢市との市境までは、およそ5km強。徒歩70~80分の行程だ。


© OpenStreetMap contributors)


また、本稿のスタート地点・戸塚宿上方見附跡から市境までは約7.5km。脇目もふらず歩いても2時間弱はかかる。


© OpenStreetMap contributors)




取材を終えて





横浜市内の旧東海道の長さは、約28.5km。江戸~京都間・全長約490kmの6パーセントにも満たないが、さすが王道の街道だけあって、それだけの区間にも中世から近現代におよぶ歴史の層が、まるでミルフィーユのように重なっている。

複雑な味わいを、ぜひご自身で堪能してほしい。はまれぽ史上異例の長さの連載記事が、及ばずながらその一助となってくれれば幸いだ。

なお、折々に表示した徒歩時間は、あくまで参考までに。人によって差があろうし、あちこち見て回ればどこも相当な時間がかかる。

道中で立ち寄った先には、もし機会があればもっともっと丁寧に取材してみたいと思う場所がいくつもあった。それだけ、まだまだ横浜には、美味しそうなミルフィーユの層があるということだろう。


―終わり―


取材協力

横浜市中央図書館
住所/横浜市西区老松町1
電話/045-262-0050
開館時間/火~金9:30~20:30、その他9:30~17:00
https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/tshokan/central/


参考資料

『横浜の古道』横浜市教育委員会文化財課編集・発行(1982年3月刊)
『横浜の古道(資料編)』横浜市文化財総合調査会編集、横浜市教育委員会文化財課発行(1989年3月刊)
『改訂版 神奈川の宿場を歩く』NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会編著、神奈川新聞発行(2008年9月刊)
『横浜歴史散歩』横浜郷土研究会編集・発行(1976年7月刊)
『近郊散策 江戸名所図会を歩く』川田壽著、東京堂出版発行(1997年7月刊)
『私たちの横浜・よこはまの歴史(第2版)』横浜市教育委員会発行(2003年4月刊)
『横浜旧東海道 みち散歩』横浜市文化観光局発行(2019年1月改訂版刊)


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  • コロナ禍の外出自粛の空気が漂う折、大冒険を味わえる素敵な記事をありがとうございます!自分の地元にも、こんな街道の名残や、見落としている旧跡があるかもしれません。コロナ禍後、歴史浪漫を探してみます!

  • 戸塚郵便局付近から戸塚消防署付近までは遊郭もありました。実際、土木工事などをする際に茶碗など色々な物が出て来たとの事ですが、保存に向けた動きや調査が入ると工期が遅れる為に強行したそうです。また、同じ場所付近では土器も発掘されている様で、そういった物も大半は調査せずに処分や破棄してしまったとの事です。そういった物もきちんと調査していた場合、戸塚の歴史がまた別の発展になっていたかも知れませんね。

  • はまれぽの手を離れ、引き続き各地のローカルサイトがレポートを掲載し、大阪迄辿り着くと言うのは如何でしょうか。

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