横浜の古道を歩く 東海道その3 ―保土ケ谷宿編―
ココがキニナル!
市内に残る「古道」を調べていただけませんか?「えっ!普段歩くこの道が?」「こんな崖っぷちの道が?」など。家の裏の小道が昔は重要な街道だったとか、凄く浪漫があります。(よこはまうまれさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
横浜の古道を一筋一筋丁寧に歩くことで、ピンスポットのガイドでは得られない「旅する感覚」を再現。まずは王道の東海道。その第3編の保土ケ谷宿周辺は史跡や寺社、脇街道の分岐点も多く、見どころいっぱいだ。
ライター:結城靖博
横浜市内を通過する近世の大動脈・旧東海道を、端から端まできっちり歩き通す今回の企画。
(© OpenStreetMap contributors)
その第3回は保土ケ谷宿周辺。神奈川宿の京側の出入り口にあたる上方見附(かみがたみつけ)の先から保土ケ谷方面に向かってテクテク歩き始める。
なお、「保土ケ谷」はかつて「程ケ谷」とも表記されたが、本稿では便宜上「保土ケ谷」で統一する。
横浜は富士山に直結していた?!
前回の終わりに述べた通り、台町の坂を下りきった辺りが神奈川宿の上方見附。そこで道は二又に分かれ、右手の道のほうが古道っぽいのだが、実際の旧東海道は左に折れる。
神奈川宿上方見附跡付近の分岐点
左に折れるとすぐ目の前は環状1号線。首都高の西口ランプ入口交差点だ。
この先右手に旧東海道が続く
高速道路の下をくぐると右側に寺院の参道入り口が現れる。
この門前には江戸時代まで木造船の造船所があったという
寄り道して参道を進むとお寺が見えてきた。
法華宗の古刹・勧行寺(かんぎょうじ)だ
境内に入ると本堂左脇に、古びた墓石が安置されている。
「近藤先生之墓」とある
この墓は古武術「天然理心流(てんねんりしんりゅう)」の創始者・近藤内蔵之助(くらのすけ)のもの。そして同流派4代目の宗家が、あの新撰組組長・近藤勇(いさみ)だ。
環状1号線に戻って先へ進むと、5分ほどで浅間下(せんげんした)交差点に着くのだが・・・
交差点の手前左側に、レンガが目を引く脇道がある
ここは横浜道(よこはまみち)の入り口
開港期に旧東海道と開港場(かいこうば)をつなぐ道として幕府がわずか3ヶ月で完成させた道だ。道端には詳しい解説板も置かれている。この先はすぐ新横浜通りと合流し、現在のみなとみらい方向へとつながる。
いっぽう旧東海道は、横浜道との分岐点のすぐ先で新横浜通りと交わる。
交通量の多い浅間下交差点
上の写真は近くの歩道橋上から交差点を見下ろした光景だ。横断する道が環状1号線で、右側が保土ケ谷方面。縦断する道が新横浜通りで画面奥がみなとみらい方面。
歩道橋の上から反対を向いて撮ったのが次の写真だが、
旧東海道はこの交差点で環状1号線を離れ、すぐ右側にある脇道に続く
脇道を入って1分足らずで、右手に鳥居が現れる。
1000年近く前、富士浅間神社の分霊を奉祀した古社・浅間(せんげん)神社だ
社殿は階段を右手に上った小高い丘の上にあるが、そこに続く階段中程の壁面には、以前「富士の人穴(じんけつ)」と呼ばれる大きな穴があいていた。その穴は、なんと富士山麓までつながっていると言い伝えられ、東海道の名所の一つになっていた。
残念ながら今から半世紀ほど前に土留め工事のために穴はふさがれてしまったが・・・
鳥居の先を見上げると、場所が推定できる壁面が残る
環状1号線・西口ランプ入口交差点から浅間神社までの旧東海道は約700メートル。徒歩10分弱の距離だ。
下の地図、赤いラインがそのコース。オレンジのラインが横浜道。
(© OpenStreetMap contributors)
宿場の手前は八王子との分かれ道
旧東海道は、その後しばらく浅間神社の社殿辺りから続く丘陵地を右手に見つつ進むことになる。
街道右側に続く高台
現在、この丘の町名は「浅間台」だが、かつては「袖摺山(そですりやま)」と呼ばれていた。保土ケ谷方面に向かって左手はすぐ海だったので、人々は山裾に打ち寄せる波を避けて、お互いの袖が擦れ合うほど山際に寄って通行したからだという。
浅間神社から10分弱歩くと、ようやく袖摺山が途切れる
そして右側の駐車場の先に、1本の標柱が建っていた。
標柱には「追分(おいわけ)」と書かれている
「追分」とは街道の分岐点のことだ
この角の右側は、「絹の道」とも呼ばれた八王子道(はちおうじみち)の起点。寄り道して4、5分歩くと、現在の八王子街道(国道16号線)につながる。
正確に言えば旧八王子道と現在の八王子街道とは微妙にずれて続いているのだが、かつて生糸産業の一大拠点だった八王子から、ざっくりこの道を通って横浜の開港場へと輸出用の生糸が運ばれていたのだ。
旧八王子道と国道16号線が交差する地点から八王子方面を望む
そしてややこしい話だが、旧東海道の追分は「古東海道」との分岐点でもある。
実は東海道は江戸時代初期の宿場・街道整備によって現在の「旧東海道」ができるまでは、別のコースをたどっていたのだ。つまり、「旧東海道」は近世にできた「新東海道」だったわけだ。
それまでの旧道は「古東海道」と呼ばれ、その「古東海道」は追分の分岐点から途中まで「旧八王子道」と重なっていた。
いっぽう新道のほうの旧東海道は、追分の先で松原商店街に入る
「横浜のアメ横」とも称され、一年中買い物客でにぎわうこの商店街ができたのは戦後のことだ。しかし、この道が東海道であった頃も、保土ケ谷宿を目前にしたこの付近は、立場(たてば=人足や馬の休憩場所)が発達し、商いも盛んだったようだ。
松原商店街の終点も、やはり八王子街道と交差する
浅間神社の鳥居付近から松原商店街の終わりまでの距離は1km弱。徒歩十数分の行程だ。
下の地図の赤いラインが旧東海道。オレンジが旧八王子道と古東海道が重なる道。その先に続く緑が旧八王子道、黄色が古東海道だ。
(© OpenStreetMap contributors)
保土ケ谷宿の象徴的エリアへ
八王子街道を越えると、旧東海道はまた別の商店街に続く。
名前は「YCVテレミン商店街」
「天王町商店街」と言ったほうがピンと来る人が多いだろう。2年前に企業が命名権を取得し名称が変わった。
商店街に入ってすぐ左手に史跡解説板がある
「江戸方見附(えどがたみつけ)跡」とある。この付近が保土ケ谷宿の江戸側からの入り口だったのだ。
さらに進むと右手に神社がある
この地域の近世までの地名、武蔵国橘樹(たちばな)郡から名を取った橘樹神社だ。だが明治以前までは「牛頭天王(ごずてんのう)」と称され、天王町の町名の由来ともなった。鎌倉時代に京都の祇園社から分霊を受けた古社だ。
本殿左脇に3体の庚申塔(こうしんとう)が祀られている
いずれも古いが、特に中央の青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)は1669(寛文9)年に造られ、横浜市内最古の庚申塔だという。
橘樹神社の先の水道道(すいどうみち)を越えると
まもなく小さな橋に出くわす
橋の名は「帷子橋(かたびらばし)」。橋の下を流れる川は帷子川(かたびらがわ)。橋も川も保土ケ谷宿を描いた浮世絵にしきりに取り上げられたモチーフだ。
たとえば下の絵。
広重筆『東海道 五 五十三次之内 程ケ谷』(横浜市中央図書館所蔵)
絵の中には「かたびらばし」の文字が見える。だが、これまたややこしい話だが、この橋も川も現在の地点ではない。
帷子川は昭和前期の河川改修で、この先にある相鉄線天王町駅の南側から、現在の北側に流れを変えたのだ。
また、上の絵には橋を渡った右手奥に「志ん町」の文字が見える。「新町」のことだが、前述した通り江戸初期に東海道が新道を敷設したことから、新道向こうの宿場は新町とも呼ばれ、帷子橋も「新町橋」と別称された。
新町橋があれば「古町(ふるまち)橋」もある。それは川の上流一つ隣りの橋だ。
帷子橋の上から古町橋を望む
この古町橋が架かる道こそ「古東海道」。先ほど通過した追分で分岐した道が、ここに続いている。
ところで、なぜ旧帷子橋が浮世絵の題材として好まれたのか。それは、川と街道が斜めに交差していたため、川に対して直角に架けた橋の両端で道が「くの字」に曲がっていたからだ。その構図の妙が絵心を誘ったようだ。
現在の帷子橋を渡ると、すぐ相鉄線・天王町駅に突き当たる
写真右手の高架下をくぐると、南側の駅前は小さな広場になっている。かつての川と橋はこの付近にあった。
広場内には解説板が設置され
橋と街道を模したモニュメントもある
広場の先に見えるのは環状1号線。旧東海道はここでふたたびこの幹線道路に合流する。
YCVテレミン商店街に入ってから天王町駅前広場まではわずか400メートル、徒歩5分ほどの距離だ。
赤いラインが旧東海道(© OpenStreetMap contributors)
幹線道路沿いはパワースポットだらけ
環状1号線上を右へ向かって歩いていくと
3分ほどで大門通り交差点に着く
ここもまた古道の分岐点だ。しかも2つの脇街道が左右に伸びていた。
左手は保土ケ谷道。この先、戸部村を経由して横浜道と合流していた
対する右手は遠く相模まで続く相州道(そうしゅうみち)
ここでまたちょっと寄り道。
右折して相州道に入ると、まもなく左手に古びた庚申堂を発見
この祠の右側の電柱裏に、比較的新しい道標がある。
「相州道」と「古東海道」と書かれている
ここは相州道と、古町橋から続く古東海道が交差する地点だった。
相州道をさらに進むと、すぐ左手に鳥居がある
まっすぐな長い参道が美しいこの神社は、「神明社(しんめいしゃ)」。
平安時代中頃に創建されたという保土ケ谷宿の総鎮守だ
神明社は江戸時代後期に出版された『江戸名所図会』の中にも描かれている。
『江戸名所図会 岩間町付近 ほどがや歴史の道セミナー』(横浜市中央図書館所蔵)
上の図で面白いのは、江戸時代当時の新旧両街道が1枚に描かれているところだ。手前に横断する太い道が新道の旧東海道で、上方の細い道が古東海道だ。
寄り道から旧東海道に戻ると、大門通り交差点から先の街道右手には、狭いエリアに寺院が密集して建っていた。
最初に現れたのが香象院(こうぞういん)
続いて見光寺(けんこうじ)
その左奥に天徳院(てんとくいん)
さらに、天徳院の左奥に大蓮寺(だいれんじ)がある。
大蓮寺は高台の中腹に位置する
急階段を上って境内に入ると、手入れの行き届いた庭園が美しい
そして祖師堂の前のこのザクロの古木に注目
この木は徳川家康の側室・お万(まん)の方(かた)が当寺を詣でた際に、江戸城に植栽する予定だったザクロを境内に植えたものだという。と言っても、現在の木は2代目らしい。
旧東海道に戻って、左手に街道筋らしい古風な建物などを眺めつつさらに進むと
岩間町交番交差点の右角に、また史跡解説板を発見
「旧中橋(なかのはし)跡」とある。
現在は保土ケ谷駅方面に向かって環状1号線の左側に沿って流れる今井川の水路が、幕末までこの辺りで街道を横切っていたという。そこに架かる橋の名が中橋。
解説板に描かれた古地図
この史跡のある交差点の右側に、また寺院が見えた
真言宗・遍照寺(へんじょうじ)。右横の建物(涅槃堂)は近代的だが、本堂は境内奥にあり、876(貞観18)年開山とも伝えられる古刹だ。
岩間町交番交差点を過ぎると、まもなく環状1号線が途切れる
道は二手に分かれ、左方向はJR保土ケ谷駅西口駅前のバスロータリー。右側の細い道は保土ケ谷駅西口商店街。旧東海道はこの商店街の中へと続く。
天王町駅前広場から保土ケ谷駅西口商店街入り口までの距離は700メートルちょっと。徒歩10分弱だ。
赤いラインが旧東海道(© OpenStreetMap contributors)
宿場中心部は史跡がいっぱい
保土ケ谷駅西口商店街に入った辺りから、宿内(しゅくうち)と呼ばれた宿場中心地になる。そこには宿場の主要施設が数々置かれていた。
商店街の中にはそのことを今に伝える史跡が点在するが、そのほとんどはまさに「跡(あと)」で、「歴史の道」の解説板や標柱が設置されているだけの箇所が多い。
商店街の入り口に足を踏み入れると・・・
まず最初に右手に「助郷会所(すけごうかいしょ)跡」の史跡に遭遇
諸般の事情で「歴史の道」の解説板が置けなかったのか、自動販売機の容器回収ボックスが代役を担っている。
宿場には、宿内でまかないきれない人馬を近隣から動員する「助郷制度」があった。助郷会所とはその詰所のことだ。
続いて左手に「問屋場(といやば)跡」。こちらには解説板あり
「問屋場」は、旅人の荷物の運搬や飛脚業務などを取り扱う宿場内に欠かせない施設だった。
さらにすぐ先右手に「高札場(こうさつば)跡」の標柱
「高札場」は幕府の掟(おきて)や法度(はっと)などを掲げた場所だ。
その先の交差点左角に4基の古い石碑が建っていた
ようやく本物の歴史の遺産に出会えた気分だ。
右から「円海山之道」「かなざわ、かまくら道」「杉田道」「富岡山芋大明神社の道」の道標で、右から2番目の石碑が最も古く1682(天和2)年の建立。
この石碑の建つ交差点の名は「金沢横丁」と呼ばれていた
ここは旧東海道と金沢道(かねさわみち)との分岐点で、石碑の前を左に入った道が金沢、さらに鎌倉へと続いていた古道だ。
金沢横丁を過ぎるとまもなく商店街は途絶え、JR東海道線の踏切が道をふさぐ
旧東海道は、この踏切の先で国道1号線に合流する。国道沿いの正面に赤い屋根が覗く。
その建物は保土ケ谷宿唯一の「本陣(ほんじん)跡」だ
「本陣」とは公家・大名・幕府の役人などの宿泊施設で、保土ケ谷宿では名主・苅部(かるべ)家が代々担ってきた。赤い屋根の建物は江戸期のものではないが、右手の古い土蔵には、貴重な歴史資料が多く残されているという。
本陣跡から先、旧東海道は国道1号線に沿って右手に続く。
本陣近くには、「脇本陣(わきほんじん)」が並んでいた。本陣がいっぱいになったときの予備宿泊施設だが、今残る数ヶ所の脇本陣の史跡は、すべて標柱のみ。
その一つ「水屋(みずや)」の脇本陣跡は、消防署の前。水と消防、なにやら通じる
水屋のすぐ先右手にまっすぐ延びる小道がのぞく
寄り道して小道に入るとすぐ東海道線の踏切で、その先に大仙寺(だいせんじ)がある
この道は寺院に通じる参道だった。そして参道脇には、一般の旅人が宿泊する旅籠(はたご)の「澤瀉屋(おもだかや)」があった。
イギリス人を殺傷した生麦事件後、仕返しを恐れて宿泊予定地の神奈川宿をパスして保土ケ谷宿まで駆け込んだ薩摩藩主の父・島津久光一行は、苅部本陣に宿営する。だが、そこにいることも見え見えなので、夜半、身を案じた久光は本陣を抜け出し、澤瀉屋に身を潜めたという。ただし、今はもうその宿の正確な場所はわからない。
その代わりというわけではないが、脇本陣の並ぶ先に、昔の姿を今にとどめる旅籠「本金子屋(ほんかねこや)」の建物が保存されている。
保土ケ谷宿内で当時の面影を最もよく伝える建造物だ
本金子屋は国道沿い左手にあるが、そこから200メートルほど進んだ右手に、「茶屋本陣(ちゃやほんじん)跡」がある。
「茶屋本陣」とは、本陣に匹敵するほど大きな茶屋で、大名などの休憩所にあてられていた。
でもここも標柱のみ
ところで、上の写真の進行方向の先左手に、こんもりとした緑地帯が見える。近づくと、国道とそれに沿って左側を流れる今井川との間に、遊歩道があった。
今井川側から遊歩道を望む
右側に木が植えられた土盛りがあり、左隣りに小さな石垣。さらにその先に松並木が続く。
石垣と松並木との間には、こんな解説板が
この付近にはかつて江戸から8番目の一里塚(旅程の目安のために街道筋に一里=約4kmごとに設けられた塚)があり、そのそばに保土ケ谷宿の上方見附があったという。
つまり、天王町の商店街にあった江戸方見附からここまでが保土ケ谷宿だったわけだ。
2007(平成19)年に市の事業の一環として、(実物はもっと大きかったようだが)昔のように榎を植えた土盛りの一里塚と、街道筋の松並木が復元された。
史跡前の仙人橋を渡った川向う右手には、小さな神社がある
ここは「お仙人さま」の名で古くから親しまれた外川(とがわ)神社だ
境内脇には江戸時代に栄えた山岳信仰の一つ、湯殿山講を偲ぶ仏像や石碑も
史跡や松並木の復元とこの神聖な場所があいまって、忙しなく車が行き交う国道沿いに突如現れる異空間だ。
今井川沿いの松並木はその後も続き
数分歩くと保土ケ谷町二丁目交差点で道は二又に分かれる
上の写真は途中の岩崎ガード交差点の歩道橋の上から望んだもの。左手に続く幹線道路が国道1号線だが、旧東海道はここで国道を離れ右手の脇道に入っていく。
保土ケ谷駅西口商店街から保土ケ谷町二丁目交差点までは約1.3km。歩いて15分ちょっとの距離だ。
赤いラインが旧東海道、オレンジのラインが金沢道(© OpenStreetMap contributors)
ちなみに、八丁畷(はっちょうなわて)の縄手道以来延々と続いてきた海沿いの街道は、保土ケ谷宿に入る頃から景色を変え、上の地図からもわかる通り、苅部本陣付近からさらにぐっと内陸部へと向きを変える。
おのずと旅人が愛でる景観の主題も、保土ケ谷宿までの海(神奈川湊)から山(富士山)へ取って代わることになる。
江戸を出てから最初の難所・権太坂へ
国道をそれて右の脇道、旧東海道を進む
脇道に入ってまもなく右手に寺院が見えてくる
江戸時代初期に開山した古刹「樹源寺(じゅげんじ)」だ。
境内の庭園が美しい
樹源寺からさらに200メートルほど先右手に、元町自治会館が建つ。
建物の左脇に「歴史の道」の標柱を発見
標柱には「旧元町橋(もとまちばし)跡」と書かれていた。明治期に東海道線の鉄道が敷設されるまで、先に見た中橋と同じように、今井川がこの辺りで街道を横切っていたという。
自治会館を過ぎて数分で、元町ガード交差点に突き当たる。
右手に東海道線の高架が見える
そして左手には現在の元町橋がある
旧東海道はこの元町橋側に続くのだが、この道を200メートルほど歩けば、また国道1号線に合流する。
そして国道を右折すると箱根駅伝でおなじみの「花の2区の難所」、だらだら坂の権太坂(ごんたざか)があるのだが、ここで「ちょっと待った!」と言わねばならない。
昔々、旅人が老農夫に坂の名を尋ねると、自分の名を訊かれたと思い「権太」と答えたことが名前の由来との説もある、このホッコリしたいわれの坂。しかし本当の権太坂は国道沿いではない。
本当の権太坂。そこは元町橋を渡ってすぐ右にあるこの狭い脇道だ
そしてこの坂道こそ、旧東海道だった。
坂はマンションや戸建ての民家が並ぶ住宅地の中を上っていくのだが、
そこは決してだらだら坂などではない
上の写真の権太坂陸橋前後の坂道は、かなりの勾配だ。
陸橋を越えて間もなくすると勾配はやや緩やかになり、右手に高校の校舎が見えてくる。
県立光陵高校だ
権太坂は、この辺りまでを一番坂と呼ぶ。ということは、その先に二番坂があるわけで・・・
「やれやれ」と一息つく高校正門の先で、坂はまた上り始める
一番坂ほど急な勾配ではないが、二番坂は長い。
権太坂は、旧東海道の中で江戸から発って初めての難所と言われていた。あまりの坂のきつさにここで行き倒れる人馬もあり、坂の途中には2メートル四方・深さ7メートルの穴が掘られ、息絶えた人馬を葬る「投げ込み塚」があったという。
ここが東海道であった時代、坂はもっと急峻だったようだ。下の浮世絵の背景の絵柄から、そのことが多少わかるだろうか。
暁斎周磨筆『東海道名所之内 権太坂』(横浜市中央図書館所蔵)
二番坂を10分近く歩くとようやく道は平坦になり、やがて目の前に境木(さかいぎ)小・中学校の校舎が並ぶT字路とぶつかる。
正面左が中学校、右が小学校。右角には市営バスの折り返し場がある
坂の入り口からここまで、約1.3km。ここでようやく権太坂が終焉した。
前記した「投げ込み塚」はすでに元の場所にはなく、このT字路を左に下ったところに現在は供養碑が設けられている。
T字路を左折して1分ほど下った辺り
道の左脇にひっそりと碑が建つ
いっぽう旧東海道は、境木小・中のT字路を右折して続く
この先は、ほどなく境木地蔵尊に至る。
そこは、かつての武蔵国と相模国の国境。また現在の保土ケ谷区と戸塚(とつか)区の区境でもある。つまり、そこからいよいよ戸塚宿ワールドが始まるのだ。
というわけで、東海道保土ケ谷宿編はこの辺りで締めるとしよう。
保土ケ谷町二丁目交差点の分岐点から境木小・中のT字路までの距離は2km超。徒歩30分あまりの行程だ。
赤いラインが旧東海道(© OpenStreetMap contributors)
そして本稿の環状1号線西口ランプ交差点から境木小・中学校までの全行程は約6.5km。権太坂の難所を考慮すれば、2時間近くの歩きを覚悟しておいたほうがいいかもしれない。
(© OpenStreetMap contributors)
取材を終えて
現在の国道1号線は東海道とも呼ばれる。だがこの東海道は近代になって敷かれた新道だ。とはいえそれ以前の旧東海道も、実は江戸時代初期の宿駅制度によって新たに敷設された新道だったと本稿で述べた。それ以前には山間を通る「古東海道」があったのだ。
保土ケ谷宿の宿内は、それまで田畑・原野だったところに新たに生まれた新町。それはある意味、近代になって突如神奈川の中心地となった旧横浜村の成り立ちとも似ている。
こうしていつの時代も、都市は変遷していく。
そんなことも思いながらの保土ケ谷宿編の旅だった。
続く第4回はいよいよ戸塚宿へ入る。そして東海道横浜市内大縦断が完結する予定だ。
しかし、戸塚宿を経てから藤沢との市境に至る道程はかなり長い。果たして1本の記事に収まるだろうか・・・。
などという若干の心配も抱きつつ、どうか次回も乞うご期待!
―終わり―
取材協力
横浜市中央図書館
住所/横浜市西区老松町1
電話/045-262-0050
開館時間/火~金9:30~20:30、その他9:30~17:00
https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/tshokan/central/
参考資料
『横浜の古道』横浜市教育委員会文化財課編集・発行(1982年3月刊)
『横浜の古道(資料編)』横浜市文化財総合調査会編集、横浜市教育委員会文化財課発行(1989年3月刊)
『改訂版 神奈川の宿場を歩く』NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会編著、神奈川新聞発行(2008年9月刊)
『横浜歴史散歩』横浜郷土研究会編集・発行(1976年7月刊)
『近郊散策 江戸名所図会を歩く』川田壽著、東京堂出版発行(1997年7月刊)
『私たちの横浜・よこはまの歴史(第2版)』横浜市教育委員会発行(2003年4月刊)
『横浜旧東海道 みち散歩』横浜市文化観光局発行(2019年1月改訂版刊)
『横浜旧東海道保土ケ谷宿 歴史とひとにふれあうよりみちこみちマップ』(2018年3月改訂版刊)
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@@さん
2021年07月21日 00時50分
権太坂~光陵高校~境木中学校は、通学路だったなあ。懐かしいです。
不動丸さん
2021年03月21日 10時40分
めちゃくちゃ面白かったです!
恥ずかしながら、旧東海道と古東海道があること、旧東海道だと思ってた道が古東海道だったこと、保土ケ谷区民になって10年目で初めて知りました。権太坂も違う坂だったんですね〜
今度本家権太坂を通ってみようと思います!(車でヽ(^o^;))
よこはまうまれさん
2021年03月05日 13時06分
よこはまうまれです。レポートありがとうございます!改めて思うのは、現代は何もかもが人間に合わせて便利になってます。確かに楽な生活かもしれませんが、大動脈の東海道も当時の最先端技術を駆使した街道だったとは言え、道作りも旅も時間の流れも自然に合わせていたんですね。今見ると羨ましい気もしますね。