横浜の古道を歩く 東海道その4 ―戸塚宿前編―
ココがキニナル!
市内に残る「古道」を調べていただけませんか?「えっ!普段歩くこの道が?」「こんな崖っぷちの道が?」など。家の裏の小道が昔は重要な街道だったとか、凄く浪漫があります。(よこはまうまれさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
横浜の古道を一筋一筋丁寧に歩くことで、ピンスポットのガイドでは得られない「旅する感覚」を再現。まずは王道の東海道。その第4回は武州・相州の国境を越え、江戸を出て最初の宿泊地だった戸塚宿へ至る。
ライター:結城靖博
近世の大動脈・旧東海道を、横浜の端から端まで歩き通す今回の企画。
(© OpenStreetMap contributors)
前回、江戸から京に上る旅人が最初に出くわす難所・権太坂を無事越えた筆者は、ついに『東海道中膝栗毛』の弥次さん喜多さんも初日の宿泊地に選んだ戸塚(とつか)宿にたどり着く。
戸塚宿は起点・日本橋からおよそ十里半(約42km)。驚くことに、江戸時代の一般の旅人たちは、この距離を一日で歩き通した。1時間の平均歩行距離が一里(約4km)として、ペースを落とさずひたすら歩けば、日本橋から戸塚宿までは10時間半。
だが、そうは問屋がおろすまい。腹も減れば足も疲れ、いたるところに名所もある。物見遊山と休憩をまじえれば、おそらく日が昇り始めるころ江戸を発った旅人は、夜のとばりが下りるギリギリの時刻にようやく戸塚宿にたどり着いたことだろう。
そんなことも心に留めながら、いざ戸塚宿へ向かうとしよう。
国境を越えると、そこは長い下り坂だった
前回の終点、権太坂を上りきった境木小・中学校前のT字路付近
今回の旅はここから始まる。
T字路を右手に折れると、さらになだらかな上り坂が続く写真奥の道。ここを少し進むと、道は左右にカーブしながらやがて平坦になる。
通りにはいかにも街道にふさわしい建物もあるが、右手のそれは民家
その民家の先すぐ左手に、少し大きな木と解説板があった
「境木立場跡」と書かれている
「立場(たてば)」とは、宿場間に置かれた休憩所のようなものだ。とくに境木(さかいぎ)の立場は、権太坂の難所を上りきった後ほっと一息つくと、目の前に絶景の見晴らしが広がり、旅人たちにとって人気だった。
初代広重筆『五十三次名所図会 五 程ケ谷 境木立場鎌倉山遠望』(横浜市中央図書館所蔵)
上の浮世絵では鎌倉山を望んでいるが、江戸庶民の信仰の対象であった富士山や大山(おおやま)の眺めも良かったという。
そして立場の茶店の名物は、粟でこしらえた牡丹餅(ぼたもち)だった。
解説板に描かれた牡丹餅の絵図
さらに、この立場跡のすぐ先右手に、地蔵堂がある。
境木地蔵尊。創建は1659(万治2)年
地蔵堂の中のお地蔵様にはこんな言い伝えがある。――江戸時代初期、鎌倉腰越の浜に打ち上げられた地蔵像を江戸へ運ぶ途中、この付近で牛車が止まり動かなくなった。そこでここに置いていかれた地蔵像を祀るためにお堂を建てると、やがて参詣者が増え、周囲の商家も繁盛した、と。
いっぽう地蔵堂の前には、1本の木柱が建っている。
「武相国境之木」「これより武蔵国保土ケ谷宿 一里」とある
写真では見えないが、裏側には「これより相模国戸塚宿 一里九丁」とも書かれている。
木柱は2005(平成17)年に復元された、武蔵国と相模国の国境(くにざかい)を示す傍示杭(ぼうじくい)だ。この地蔵堂の前は武相国境にあたり、そして現在は保土ケ谷区と戸塚区の区境でもある。
「境木」の地名もそこから来たもの。だが一説では、「境木」は地蔵堂境内にある大ケヤキのことを指すとも言われている。
そのケヤキは今も境内にある
また、かつて本堂の裏手には、この峠に至るまでに行き倒れた無縁仏を葬ったお墓がいくつもあったという。
だが今は、境内裏手は通行止めになっており、様子はわからない
この国境から先、境木地蔵尊前の道は下の写真の右奥へ伸びて、まもなく交通量の多い環状2号線と交差する。
しかし旧東海道は、左手の矢印の道に続く
そこへ向かう前に、ちょっと寄り道。
矢印の道の左隣りにあるこの狭い坂道を下ると
入り組んだ民家の中をくねくねと進んだ先に、見ておきたい場所がある。
そこは萩原代官屋敷・道場跡
この平戸(ひらど)の地を領した旗本の代官・萩原家の屋敷跡だ。
幕末は空前の剣術ブームの時代でもあった。そのころの当主・萩原太郎行篤(ゆきとく)は直心影流(じきしんかげりゅう)の免許皆伝。ここに道場を開き、多くの弟子を抱え、諸国の武芸者が他流試合に訪れた。その中にはあの新撰組組長、天然理心流四代・近藤勇(いさみ)もいたという。
敷地の裏手には今も鬱蒼とした竹林が茂る
思わず、時代劇に出てくる剣客(けんかく)が、竹をバッサバッサと伐りつける姿を想像してしまったりする。
さあ、気持ちを切り替えて本道に戻ろう。
先ほど矢印で示した旧道をあらためて正面からとらえる
足を踏み入れると、なかなか傾斜のきつい下り坂だ
この坂の名は「焼餅坂(やきもちざか)」。坂の傍らの茶店で焼餅を売っていたからとも、人気の看板娘がいた茶店をほかの店の老婆が妬んだからとも伝えられている。
立祥(二代広重)筆『東海道五拾三駅 六 戸塚 焼餅坂』(横浜市中央図書館所蔵)
上の浮世絵からもわかる通り、坂の途中からは絶景の富士山が望めたようだ。
やがて急坂が終わると、比較的平坦な道が住宅地の中を縫っていく
そしてまもなく、左右が小高い台地にはさまれた場所に至る
ここは「品濃(しなの)一里塚」だ
上の写真の標柱や解説板に「跡」とないことに注目してほしい。そう、この江戸から発って9番目の一里塚(旅人の旅程目標や休息を担う場所)は、神奈川県下でほぼ唯一現存する本物の一里塚であり、県の指定文化財にもなっている。
一里塚は常に街道の両脇にあったのだが・・・
こちらが戸塚宿へ向かう筆者の左手にある一里塚
そしてこちらが右手の一里塚
この右手の一里塚には、かつて巨大な榎が植えられていたそうだ。一里塚の大樹の下は旅人の休憩地の役割も果たしていたが
右手の一里塚の上は現在公園になっていて、そこにこんな木陰があった
江戸時代の旅人にとっての安息の場と、ふとイメージが重なるような場所だった。
それにしても一里塚は大きい。江戸側から入って市内最初の市場(いちば)一里塚からこれまでずっと「跡」をたどってきたが、実際の一里塚に出会ったのは初めてだ。
当時の江戸幕府の規定では、一里塚は5間(約9メートル)四方・高さ1丈(約1.7メートル)だったが、品濃一里塚の右手の塚は、直径11メートル・高さ5.5メートルだという。対する旧街道の道幅が狭いだけになおさら大きく感じるが、確かにこれなら、かなり遠目からでも認識できたにちがいない。
境木小・中学校のT字路から品濃一里塚までの距離はわずか700メートル程度。寄り道しなければ徒歩10分もかからない。
下の地図の赤いラインが旧東海道、紫のラインが萩原道場跡への寄り道ルートだ。
(© OpenStreetMap contributors)
幹線道路を縫うように閑静な住宅地を進む旧道
品濃一里塚をあとにして戸塚方面へ進むと、旧東海道は民家の間をうねうねと続いていた。右手には住宅地の向こうに交通量の激しい環状2号線が通っている。
だが旧東海道は静かなものだ
やがて道は大きく右に曲がり、その先が二股に分かれていた。
左の道のほうが太いが、手前の案内板が旧東海道は右だと教えてくれる
右手に入ると、旧東海道はさらに赤い矢印で示した左側の細い道に続く
右側の道は急な下り坂の先が環状2号線と合流している
旧東海道への入り口横にはこんな標柱があった
ここは「品濃坂上(しなのざかうえ)」。
品濃坂とは、戸塚宿から保土ケ谷宿へ向かう旅人にとっての最後の難所だったようだ。保土ケ谷宿から戸塚宿へ向かう人々にとっては権太坂が、そして戸塚側からは品濃坂がそれぞれ控え、お互いその先に絶景の境木立場があったというわけだ。
だが現在の品濃坂は環状2号線によって分断されている
狭い急階段の先の長い歩道橋を渡り、環状2号線をまたいで旧東海道は続く。
歩道橋の降り口で、また親切に標識が行き先を案内してくれる
歩道橋を降りたすぐ右手の道を覗くと、また民家をはさんで分岐していた
旧東海道はこの二股を左に入る。
道はなおも住宅地の中、長いだらだら坂を下る
ようやく平坦になると、街道右手に小さな河川が現れた
川の名は平戸永谷川(ひらどながやがわ)の支流、川上川(かわかみがわ)。街道と川の両サイドにはやはり民家が連なる。
この道を4、5分歩くと、目の前に大きな通りが見えてきた
交錯する道路は国道1号線、つまり現在の東海道だ。交差点名は東戸塚駅入口。
だが旧東海道は、国道を突っ切ってさらに前方へ続く
国道1号線を過ぎた辺りから、街道からようやく住宅地の空気が薄れ始める。
まもなく、今度は水路が左手に変わる。この川は川上川の本流・平戸永谷川だ
その先に橋が見える。
たどり着いた橋の名は「赤関橋(あかせきばし)」
この橋上から先の、現東海道(国道1号線)と旧東海道との関係が面白い。
上の写真の、橋を越えた右手が国道で、左手の細い道が旧東海道。つまり旧道は、ここで国道と合流するかに見えて、サッとたもとを分かって左に折れる。
身をひるがえして去っていく旧東海道の後を追うとこんな姿
だが、プイッと横を向いたかと思うと、ものの数分でまた旧道は国道に接近
いかん、街道を歩き過ぎて、だんだん道が擬人化してきた。
とにもかくにも、旧東海道はここ秋葉立体が頭上に交差する地点でふたたび国道と接し、そして合流する。
品濃一里塚から秋葉立体までの距離は2kmちょっと。歩いて30分あまりだ。
インパクトの大きかった品濃一里塚を過ぎてからここまでの間は、史跡といえるものはあまりないようだ。しかし、幹線道路をそれた住宅地の中をいにしえの街道を偲びながらのんびり歩くには、程よい距離の散策コースといえる。
(© OpenStreetMap contributors)
その後の街道にはシブい史跡が点在
国道1号線に合流した旧東海道は当然ながら車がビュンビュン通る
そして国道の右手には大きな企業の工場が目立つ
山崎製パンの工場を過ぎてまもなく、「王子神社前」という交差点に行き着く。
交差点の左手に、奥に長く続く細い道がある
ちょっとここで、また寄り道してみたい。
奥へ進むとさらに道は細くなり、しかもなかなか急な上り坂だ
この坂道を上りつめると、右手にふっと古社が姿を現す。
ここは「王子神社」だ
神社の祭神は、後醍醐天皇を中心に鎌倉幕府を倒した「建武の中興(けんむのちゅうこう)」の立役者・護良親王(もりよししんのう)。この古社には、親王にまつわる興味深い伝説が残っている。
護良親王はその後足利尊氏と対立し、鎌倉の東光寺の土牢に幽閉されたのち殺害される。だが斬首され、さらされたその首を、親王の側女(そばめ)が夜半ひそかに奪い取り、当地の豪族・斎藤氏に救いを求めたという。
その護良親王の首が、この本殿下に葬られているそうな・・・
見たところ現在は無人の神社のようだが、
立ち去り際、参道を丁寧に掃き清める若者に遭遇
今なお地元の崇敬を集める神社であることが、うかがい知れた。
国道に戻るとやはり右側は企業の大きな建物が目立つ
そしてまもなく不動坂の大交差点にたどり着く
交差点の手前、国道沿い右手に案内板が掲げられていた
「柏尾の大山道入口」とある。
大山道(おおやまみち)とは、江戸時代に広く信仰を集めた相模国・大山阿夫利(あふり)神社へ通じる道のことだ。「柏尾の」と書かれているのは、参詣者が関東全域に広がっていたので、各地に「大山道」があったからだろう。
かつて、この街道沿いの分岐点には、一の鳥居が建っていたという。
入り口脇には「大山前不動」の標柱があり
なだらかな坂を下ると、すぐ右手に不動堂が建っていた
このお堂は1667(寛文7)年に造立されたもの。そばに据えられた「従是大山道」の道標にも歴史を感じる。
むろん国道の交差点名「不動坂」も大山道の不動堂に由来する
上の写真では逆光と車の影で見づらいが、国道1号線は不動坂交差点で左右に枝分かれする。右手の直進コースが通称「ワンマン道路」とも呼ばれるバイパス。左に折れる道が戸塚駅へ続く従来の国道1号線だ。
ところで、なぜ「ワンマン道路」と俗称されたのか?
それは1950年代、「ワンマン宰相」と呼ばれた吉田茂首相が大磯の私邸へ帰る途中、いつも戸塚駅前踏切の大渋滞に巻き込まれ、これに業を煮やして駅をスルーする弾丸道路を造らせたからとか。
それはさておき、ならば旧東海道は左手の従来の国道1号線に通じているのかと思いきや、それもちがう。
旧東海道は従来の国道に沿ったさらに左脇の道に続く
左側の旧東海道を進んでいくと
まもなく左折する道に遭遇
この脇道の奥に、またしても立ち寄ってみたい場所がある。
住宅地の中の細道を左に右にちょっと折れながら分け入ると、
こんな場所に突き当たる
木陰にひっそり佇む石碑を発見。近づいて正面に回り込むと、
「護良親王首洗井戸」と書かれている
そう、ここはさきほど立ち寄った王子神社の本殿下に埋められた護良親王の首を、親王の側女が奪い取った後、洗い清めたと言い伝えられる場所だ。
そして伝説の井戸は、今もこうして存在している・・・
ちょっとブルっとしたところで、ふたたび旧東海道に戻るとしよう。
街道をさらに先へ進むと、右手に古風なレンガ造りの建物を発見
周りを見回してみても、とくに建物の由来を説明するようなものは見当たらない。だが、ここは「鎌倉ハム」発祥の地だ。明治の中頃、柏尾村の名主だった齋藤満平(さいとう・まんぺい)が、当地で外国人専用ホテルを経営していたイギリス人カーチスから製法を学び、この地でハムの製造を始めた。
レンガ造りの建物は製造・冷蔵施設だったそうで、今では一般に「鎌倉ハム倉庫」と呼ばれている。
「鎌倉ハム」といえばてっきり鎌倉で生まれたものとずっと思っていたが、実はそうではなかった。
その後明治時代後期には、当地に「鎌倉ハム」を名乗るハム製造会社が次々に誕生したという。つまり、「鎌倉ハム」は商品名というよりは、今で言う地域ブランドだったわけだ。
レンガ造りの建物のすぐ先に「さいとうハム製造本舗」の看板がある
この店も創業者・齋藤家と関係があるのだろうか。そんなことを思いながら店を右手に見つつもうしばらく進むと、川に面した交差点に突き当たる。
横たわる川は舞岡川(まいおかがわ)、橋の名は元舞橋(もとまいばし)
旧東海道はこの橋の手前を右手に折れて続く
すると200メートル足らずで、また別の橋にたどり着く
今度の橋は大きい。それもそのはず、上を通る道は国道1号線だ。ここでふたたび旧道は現在の東海道と合流するのだ。
橋の名は「五太夫橋(ごだゆうばし)」。いわれは徳川家康の関東入国(1590年)にさかのぼる。家康は戦国の世に滅んだ小田原北条氏の施策を高く評価し、北条方の遺臣たちを積極的に登用した。その一人だった石巻五太夫がこの地で江戸入りする家康を出迎えたのだという。
さあ、ここまで来れば、いよいよ戸塚宿も近い。
橋を渡って1分ほど歩くと、左手に宝蔵院(ほうぞういん)の門前が現れる
その門前を横目にさらに進むと、すぐ先で「江戸見附前」という交差点に至る
この辺りにかつて戸塚宿の江戸方見附(えどがたみつけ=江戸側からの宿場の出入り口)があったのだ。
交差点手前の国道沿い右側、イオンの前に見附跡もある
そこには風格漂う石碑も建つ
秋葉立体下の国道1号線との合流点から戸塚宿江戸方見附跡までの距離は約1700メートル。王子神社や首洗井戸への寄り道を除けば徒歩20分程度だ。
(© OpenStreetMap contributors)
そして、境木小・中学校からここ江戸方見附跡までは約4.5km。これまた寄り道しないでサクサク歩けば、1時間ちょっとでたどり着くか。とはいえあっちこっちと見て回れば、やはりかなり充実した時間を過ごせる。
(© OpenStreetMap contributors)
本稿は、この戸塚宿の入り口という切りのいいところで終わりとしたい。なぜなら、藤沢市との市境までは、このあと戸塚宿宿内(しゅくうち=宿場の中心地)を通り抜けて、さらにまだまだ続くからだ。
本来、筆者はこの東海道の旅を4編にまとめたかったのだが、前回の終わりに抱いた不安が的中。やはり4回では、終点にたどり着くことができなかった。それだけ横浜市内を縦断する東海道には、見どころが多いということだろう。
次回こそ横浜市内の東海道完全踏破を目指して、ひとまず本稿を閉じることにする。
取材を終えて
今回の戸塚宿に至る道中でもっとも印象的だったのは、県内で唯一完全な形で残る品濃一里塚だ。
第1回の鶴見の市場一里塚から始まって、台町(だいまち)の神奈川一里塚、保土ケ谷一里塚と見てきたが、それらはいずれも「跡」や「縮小サイズの復元」。
実際の一里塚は、街道の両脇に幅5間(約9メートル)、高さ1丈(約1.7メートル)の土盛りをし、その上に榎などの大樹を植えることが幕府によって定められていた。
その本物の持つ迫力を、品濃一里塚で初めて実感することができた。しかも、それとは対照的になんと街道の狭いことか。実物の一里塚に左右をはさまれているのだから、街道の道幅もおそらく当時のものに近いだろう。
冬の日差しが斜めに差し込む昼下がりの濃い陰影の中で、土を踏みしめる旅人の草鞋や馬のひづめの音、あるいは木陰で休息をとる人々の微かなざわめきなど、「街道のリアリズム」をじわりと感じる住宅地の中の異空間だった。
―終わり―
取材協力
横浜市中央図書館
住所/横浜市西区老松町1
電話/045-262-0050
開館時間/火~金9:30~20:30、その他9:30~17:00
https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/tshokan/central/
※感染症対策のため、開館時間を変更している可能性があります。詳しくは公式HPをご確認ください。
参考資料
『横浜の古道』横浜市教育委員会文化財課編集・発行(1982年3月刊)
『横浜の古道(資料編)』横浜市文化財総合調査会編集、横浜市教育委員会文化財課発行(1989年3月刊)
『改訂版 神奈川の宿場を歩く』NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会編著、神奈川新聞発行(2008年9月刊)
『横浜歴史散歩』横浜郷土研究会編集・発行(1976年7月刊)
『近郊散策 江戸名所図会を歩く』川田壽著、東京堂出版発行(1997年7月刊)
『私たちの横浜・よこはまの歴史(第2版)』横浜市教育委員会発行(2003年4月刊)
『横浜旧東海道 みち散歩』横浜市文化観光局発行(2019年1月改訂版刊)
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ともにゃんさん
2022年05月08日 21時25分
まんまるさん はじめまして ともにゃんと申します私は、戸塚区に住んでいた当時 古い地図には 鎌倉郡と記してありました。まんまるさんの言う通りです。
ひろぴょん!さん
2021年03月25日 07時07分
20年暮らした横浜。昨年7月まで15年暮らしていた東戸塚エリア。ウォーキング、ランニングが趣味だったので懐かしさ満載。権太坂から環状2号近くまでは結構な勾配なので、疲れが蓄積する長旅で行き倒れてしまうのも分かるような気がします。感慨深く読ませていただきました。ありがとうございました。
まんまるさん
2021年03月21日 11時07分
今の戸塚区泉区栄区はかつて鎌倉郡だったはずです。今の鎌倉市ではないというだけで、鎌倉ハムが鎌倉発祥で問題ないと思いますが。