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根岸・旧柳下邸周辺に点在するお屋敷の歴史に迫る!

根岸・旧柳下邸周辺に点在するお屋敷の歴史に迫る!

ココがキニナル!

根岸の旧柳下邸付近には古くからありそうな、武家屋敷風の家が沢山あります。門構えが立派で雰囲気は抜群ですが、どうしてこの辺りにはそんな旧家が多いのか、歴史的な背景が知りたいです。(しげさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

旧柳下邸付近のお屋敷風の旧家には江戸時代以前にさかのぼる歴史が秘められていた。その代表的な一軒を訪ねると、貴重な古文書などが次々と目の前に現れ、さらに敷地の中にはいくつもの驚きの光景が!

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ライター:結城靖博




「旧柳下邸」って何?




JR根岸駅から徒歩10分足らずの「旧柳下(やぎした)邸」は、正確には磯子区下町(しもちょう)に位置する。

この付近は根岸の丘の裾野に沿ってちょうど区境になっているのだ。崖の上は中区、崖下は磯子区。とはいえ、もとをただせば同じ久良岐(くらき)郡根岸村だ。根岸駅も根岸小・中学校も磯子区に属することからも、古くからの「根岸」という土地は現在、二つの区にまたがっていることがわかる。

旧柳下邸の場所


上の地図にある通り、旧柳下邸は根岸八幡神社に隣接している。


根岸八幡神社


神社は根岸の丘の斜面に密生する社叢林(しゃそうりん)に抱かれているが、この豊かな自然林は隣接する旧柳下邸の背後にも続いている。


旧柳下邸


和風の母屋の一部に洋館を持つ「一間(ひとま)洋館」という近代日本独自の建築様式である旧柳下邸については、過去記事で建物内部も含めて詳しくレポートしているので、そちらをぜひご一読いただきたい。

今回のキニナル投稿のテーマはこの建物ではなく、周辺の「武家屋敷風の家」についてだ。とはいえ、この独特な和洋折衷の家が生まれた歴史的背景は今回のテーマとも間接的に関連してくるので、さらっと紹介しておくと…

この家は、明治期に輸入鉄鋼の販売で財を成した柳下平次郎(やぎした・へいじろう)氏が建てた邸宅だ。

幕末に横浜が開港すると、中心地の開港場(かいこうじょう)から少し離れた根岸の高台は、根岸湾を見下ろす風光明媚な場所として、居留外国人たちにとっての手頃な行楽地になった。


絵葉書「本牧・根岸」(横浜市中央図書館所蔵)


1865(慶応元)年、居留外国人のために根岸の丘から根岸湾に至る外国人遊歩道が生まれる。


昔日の面影はないが、正面の細い路地が根岸八幡神社近くのかつての外国人遊歩道


そして翌1866(慶応2)年には、丘の上に日本初の洋式競馬場ができる。


「横浜名所之内 大日本横浜根岸万国人競馬興行ノ図」1872年(横浜市中央図書館所蔵)


こうしたことから、根岸の高台には次第に居留外国人の住宅が建つようになり、そして崖下には彼らの別宅が建ち始める。

さらに維新後の1872(明治7)年には、崖下の西側に運河「堀割川(ほりわりがわ)」が完成し、横浜中心部と南部との往来が飛躍的に改善し、地元民の往来も活発化する。


現在の堀割川


今では、川沿いに車がビュンビュン通る国道16号線が走っているが、かつては桜並木が連なるお花見の名所でもあった。


「横浜根岸堀割ノ桜」(横浜市中央図書館所蔵)


だが今、車がビュンビュン走ることには、大きな意味がある。この堀割川沿いの大通りが今のようになるそもそもの始まりは、1912(大正元)年にこの通りに横浜電気鉄道(市電の前身)が開通したことに起因するからだ。

これにより、崖下の交通の便が大きく発展し、それまで高台に居を構えていた外国人たちが崖下の別宅を本宅に代えていく。こうした外国人の動向にあわせて、当然横浜中心部で財を成した日本人も根岸に邸宅を構えることになる。その典型例が、「旧柳下邸」だったのだ。

旧柳下邸が建てられたのは関東大震災前の1919(大正8)年頃と見られている。ただし、その頃は和風の母屋だけで、一間洋館ができたのは震災後であったらしい。

なお、旧柳下邸は1996(平成8)年に横浜市が敷地を取得し建物を寄付され、現在「根岸なつかし公園 旧柳下邸」として無料で一般公開されている。

また、洋館部分はアニメ『コクリコ坂』で描かれたコクリコ荘のモデルでもある。


「根岸なつかし公園」全景




「旧柳下邸」周辺の現地を訪ねる





さらっと紹介したかったのだが、けっこう長くなってしまった。とにもかくにも、ようやくここから「旧柳下邸」の周辺取材へと移る。

実際に現地を訪ねてみると、キニナル投稿者「しげさん」のご指摘が、なるほど納得できた。まずは、旧柳下邸の前の通りを右に向かってみたのだが、その先にある根岸八幡神社へ通じる路地の左右に立派な門構えの家があった。


ただ右側のお宅は、現在建屋は改築中のようだ



いっぽうこちらは左側のお宅。植木がよく手入れされていて、敷地も広そうだ



さらに八幡神社に続く路地を入っていくと、右手にこんな立派な旧家が


旧柳下邸に戻って、今度は通りの左へ歩を進めると、


旧柳下邸のすぐ隣りにやはり立派な門構えのお宅が



さらに進むとまた見事な門構えのお屋敷が



そこからしばらく歩いた先の右手に建築中の住宅があり



その左隣りに、またまた古風な門構えのお屋敷があった



さらにその先の右手にまた同じような門構えのお宅があり



この家と路地をはさんだ向かい側に祠(ほこら)があった


後日調べてみると、右側のお地蔵さまは「七の辻地蔵」と呼ばれ、実はこの周辺にこんなにも多く旧家が存在しているわけとも関連していることが、のちほどわかる。


七の辻地蔵の先をもう少し行くと右手に「根岸坂下(さかした)公園」が現れる


この手前で「下町」は終わり、住居表示が「坂下」になる。ここから先、町の雰囲気は少し変化する。


中規模のマンションが増え、普通の住宅地っぽくなってくる



だがさらに先へ進むと右手にひときわ大きな和風門が


と思ったら、ここは真言宗の寺院・海照寺(かいしょうじ)の山門であった。

キニナル投稿者「しげさん」が指摘するエリアは、結局おおむね旧柳下邸をはさんで、根岸八幡神社から根岸坂下公園の手前までの「下町」周辺であるようだ。

それにしても、和風門の立派なお屋敷は、ほとんどが旧柳下邸と同じく路地の山裾側に位置している。これも気になるところだ。




なんでこんなに立派な門構えの家が何軒もあるのか?





…ということについて、まずは図書館に行って郷土資料を片っ端から調べてみた。けれども、根岸と居留外国人との関係による地域の発展はいくらでもわかるのだが、あの和風門構えのお屋敷群の存在理由を教えてくれる資料にはなかなか出会えない。

とはいえ少なくとも、あの古風なたたずまいは、旧柳下邸に代表される開港期以降の近代の地域発展とは別の系譜に属するのではないか?そのことを匂わせる資料は見つかった。

複数の郷土資料によると、旧柳下邸の前のあの細い路地は、実はかつての街道「保土ヶ谷道」の旧道だったのだ。「七の辻地蔵」が建っているのもそれゆえであり、江戸時代、根岸村から保土ヶ谷宿へ向かう人々の往来を、このお地蔵さまが見守っていたというわけだ。


七の辻地蔵。余談ながら胴体と頭部の材質が異なるのは近代の廃仏毀釈とかかわるのか?


下町の旧家は近世と通じる――この推理を実証すべく磯子区役所の地域振興課に相談したところ、「下町自治会(しもちょうじちかい)」の会長を紹介していただくことができた。




会長のお宅を突撃。そして目が点となる





下町自治会長・髙橋資卓(たかはし・もとたか)氏邸を訪ねてみると、なんとまさにそのお宅自体が、あの「立派な和風門構えのお屋敷」のひとつだった。


そこは先日の取材で目撃した右隣りが新築建設中のお屋敷


右手の小さな扉を開いて門の中に入ると、いきなり驚いた。


広い庭にある囲いの中に、なんだか白い生き物が見える…!



「ヤギの『はちべえ』です」


と、ちょうど庭先にいらしたご当主の髙橋さんが教えてくれた。

「雑草を食べてくれるかなと思って2年ほど前から飼っているけど、あんまり食べないね。ただのペットです」

確かにペットだ。犬みたいに無茶苦茶なついている。「この子を連れて、よく根岸森林公園にも散歩に行くんだよ」とのこと。

お屋敷の住人はさぞかし厳(いか)つい方なのかなと思いつつ恐る恐る門を潜ったのだが、お会いしてみると、笑顔が素敵な、実にフランクな方だった。


誘われるままにお屋敷の中へ入ると



今度はワンちゃんが出迎えてくれた


この子の名は「なな」。「はちべえ」と「なな」…なるほど。ななちゃんは、もう10歳になるという。とにかく取材中つねに髙橋さんを追いかけて、そばを離れない。飼い主がいかに愛情を注いでいるかがわかった。


続いて、グランドピアノがどーんと据えられた応接室に招かれる


グランドピアノがあるわけは、奥様が音大出身で音楽関係の仕事をされていたからだそう。とにもかくにもここで、じっくりとお話を伺う。

髙橋さんは「過去帳は残っているが、家系図は燃えてなくなってしまった」と前置きしたうえで、「もともとの先祖は藤原氏で、京から落ちのびてこの地へ来た。鎌倉時代にはすでに小作人を多く抱える豪農として、当地の庄屋を務めていたそうです」と話す。


これは「ちょっと待っててね」と言って屋敷の奥から出してきた物


昔々、根岸八幡神社に奉納された縁起を伝える額の写しなのだが、


確かに「髙橋傳右衛門藤原正族」とある


かつて髙橋家は、代々当主は「傳右衛門」を名乗っていたのだという。


「昔は門の表札もこれを掲げていた」と見せてくれた


「今、この地域に和風門を構える家は、皆うちと同じで、かつての豪農の子孫ですよ」と髙橋さんは言う。「旧柳下邸のような近代以降の邸宅とは関係ない」とも。

「それはやはり、旧保土ヶ谷道の沿道であったこととも関係しているのでしょうか?」と筆者が問うと、また「ちょっと待っててね」と言って、どこかからすごいものを持ち出してきた。


それは、これ。江戸時代の高札(こうさつ)である


高札とは、幕府が定めた掟・禁制などを民衆に伝えるべく板書して掲げた「御触れ(おふれ)」だが、これが掲げられる高札場は、当然ながら人々の目に付きやすい地域の中心地に設置された。

「うちの家の前に、この高札が掲げられていたんです」と髙橋さんは言った。


書かれた文言に寄ってみると「天明八年」とある。1788年だ


髙橋家をはじめとする和風門構えが今なお建ち並ぶ旧保土ヶ谷道のこの一帯が、江戸時代まで地域の中心部だったことを証明する重要な資料だ。

ご自身が子供の頃には、家の周囲はもう今とあまり変わらない光景だったが、両親から聞いた話では、昔は通りの向かい側は田畑ばかりが広がっていたとのこと。だから髙橋邸を含む旧保土ヶ谷道の山裾側に旧家が集中しているのだろう。


「ちょっと待っててね」とまたまた言って持ち出してきたこれは、なんだ?


大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)が裁いた根岸と本牧の土地争いの時に作られた地図だという。全部広げると畳4畳以上の大きさだそうだ。


「地図の裏側に判決文が書かれているんだよね」とのこと



確かに「大越前」の署名がある。大岡越前守のことだ


この古文書が髙橋家に残されていることも、同家が江戸時代この地域を代表する庄屋だったことを証しているだろう。


このほかにも髙橋さんはかつてお蔵にあった古い資料を次々と見せてくれた


「ここは県立歴史博物館か?」と思ってしまうほどだったが、


なかでも面白かったのはこれ



それと、これ


黒い長方形のものは版木。そして右隣りのものが、髙橋さんが試しにこの版木で刷ってみたもの。「大安丸(たいあんがん)」という薬についての、店に掲げた看板のようなものだったのではないかと髙橋さんは推察する。

そして、その下の写真は、大安丸の広告だ。かつて、京都まで薬を卸しに行っていたという。

「昔の庄屋さんは時間的に余裕があったから、農業以外にいろいろなことに手を出していたんでしょう。うちの場合は、薬を作って売っていたようです」


髙橋家の門は「薬医門(やくいもん)」と呼ばれていたという


「これも、薬を作っていたからですかね」と髙橋さんは言う。


なお、髙橋家の門には「乳鋲(ちびょう)」がある


これは、特別な家にしか使うことができない、格式を示す証しなのだそうだ。

それにしても、「ちょっと待っててね」と言って次々と現れる貴重な資料はいったいどこから魔法の壺のように現れたかというと、


平屋のお屋敷には屋根裏があり



見事な梁が渡されたその空間に、貴重な古資料がそこかしこに積まれていた


なお、このお屋敷は、1928(昭和3)年に建てられたものだという。


立派な屋根瓦と白壁が目を引く


もともとは茅葺屋根のいかにも庄屋風の造りの古民家だったそうだ。しかし、1923(大正12)年の関東大震災で倒壊し、震災後に建て直した。

ただ、震災当時横浜市内の多くの場所で発生した火災の被害は免れたという。髙橋さんのお宅にたくさんの古い資料が残されているのはそのためだろう。

しかも、その後の戦時下の大空襲の際も、幸いにもこの山裾の一帯は火事にならなかったそうだ。これは髙橋家の薬医門をはじめ、この周辺に和風門構えの家が今も多く残る理由の大きなひとつに違いない。




引き続きワンダーランドのような驚愕の屋外を見学





一通りお話をうかがった後、「お稲荷さん、見る?」と訊かれ、「へっ?」と思いつつもあとに従う。


外に出ると、初めに屋敷の隣りに建築中の大きな家について説明を受ける


ここも髙橋さんの敷地内で、現在建てているのは長男夫婦が営む予定の「総合診療所」だそうだ。ご夫婦揃ってお医者さんで、2022年春開業の予定という。やはり江戸時代の薬作りの血筋が生きているのだろうか。

そして、この建築現場の裏手に、「旧家のお屋敷のシンボル」とも言えそうなものがあった。


今は冬を迎えてビニールシートに覆われているので外観からはわからないが



中に入ってみると、そこは数十尾の錦鯉が泳ぐ池だった


だがこの池は、高価な錦鯉を泳がせ餌をまいて悦に入る――という豪邸のステレオタイプな景色とはいささか趣が異なる。

「普通の錦鯉を稚魚から飼育して、いい錦鯉に育て上げていく。その過程を楽しんでいるんです」と髙橋さんは言う。この趣味の世界にのめり込んでもう60年以上。今では「全日本愛鱗会神奈川県支部長」も務めている。


そういえば応接室に飾られていたこの数々のトロフィー


先端に魚の装飾があるので「釣りを趣味にしているのかな?」と思っていたが、実はさまざまな錦鯉の品評会での受賞歴を語るものであった。

とはいえ、ここまでは「ふむふむ、そうですか。それはそれは…」という印象だったのだが、その後さらに敷地の奥へ奥へと誘われるにつれ、筆者の表情は次第に驚きを隠せなくなる。


錦鯉の池のあと案内されたのはここだった。屋敷の真裏に当たる



導かれたそこは、なんと第二次世界大戦当時のまま残されている防空壕だった


深くて広い。そして暖かい。「一年中17℃を保っているんですよ」と髙橋さんは言う。


ここは防空壕内の一番奥まった場所だ


「庭に樹齢80年の桜がありましてね。ご近所の皆さんとお花見をした後、よくここでお茶を飲むんです」と髙橋さんは愉快そうに語る。

ご当人はそんな暢気なことを言っているが、これほどしっかりと昔のまま残された防空壕なんて、横浜市内にもそうそうないのでは? 「歴史的建築遺構」として文化財に指定されてもおかしくない空間だ。

現に、近隣の小学校の社会科見学としても利用されているそうだ。それはもう、当然ですね!


防空壕の一隅には、自家製の梅酒を寝かせている場所もあった


そのうちの6年越しの1本をいただいたが、とろっとろの濃厚で深い味わいだった。

壕の外に出た後、続いて案内されたのは、防空壕の上の台地に位置する、ここ。


なんと自宅の敷地内に古風な伏見稲荷神社があった!



こちらがさきほど言っていた「お稲荷さん」



そしてこれが石塔の横に刻まれた年記


「明和二年」と読める。1765年、江戸時代中期だ。少なくともこの頃には髙橋家がこの地に存在していたことがわかる。


お稲荷さんのその先には、さらに「原野」のような場所があった


ここは、思わず小さなテントを張って「ひとりキャンプ」をしたくなるような空間だ。「昔はよくここで焚火をしたのですが、今は消防法が厳しくなって火を焚くとすぐ消防車が飛んできます」と笑う。残念だ。

「この崖の上が根岸の丘ですが、その丘の縁までがうちの土地です」とのこと。

取材の後半は下町自治会長邸の凄さにすっかり目を奪われた格好だったが、その過程で今回のキニナル投稿者「しげさん」の謎も解けてきたのではないだろうか。

要は、あの立派な門構えの家々の系譜は、江戸時代以前にまでさかのぼるということ。根岸という土地には、開港以降の横浜の近代史とは異なるもっと古い歴史がある。それは鎌倉~金沢~磯子~根岸という地理的なつながりの中で、源氏や北条氏が権勢をふるった鎌倉・室町時代とも結びつく深いものだったに違いない。




取材を終えて




下町自治会長・髙橋さん宅の坪数は約700坪だそうだ。その中にこれほどの空間が秘められていようとは、想像もつかなかった。

このお宅をあらためて丁寧に取材すれば、それだけで1本の記事が書けてしまいそうだ。かつて街道だった旧保土ヶ谷道沿いとはいえ、今ではあんなに細い路地のその脇に、あれほどの世界が広がっているなんて…。

いやはや、やっばりまだまだ横浜には見るべき場所がたくさんある。つくづくそう感じる取材だった。

それにしても…屋根裏へ続く急階段や起伏の多い敷地内を身軽に先導してくださった髙橋さんは、1940(昭和15)年生まれ。姿勢もよく行動的なその姿は、とても80歳を超えているとは思えなかった。お屋敷もさることながら、そこに暮らす住人にも驚かされた次第だ。

―終わり―


取材協力

横浜市中央図書館
住所/横浜市西区老松町1
電話/045-262-0050
開館時間/火~金9:30~20:30、その他9:30~17:00
https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/tshokan/central/


参考資料

『磯子の史話』磯子区制五〇周年記念事業委員会編集・発行(1978年6月刊)
『横浜・中区史』中区制50周年記念事業実行委員会編集・発行(1985年2月刊)
『いそご見てある記』横浜市磯子区役所編集・発行(1986年3月刊)
『横浜市立根岸中学校創立50周年記念誌』横浜市立根岸中学校発行(1996年11月刊)
『あるっくいそご』横浜市磯子区役所編集・発行(1999年10月刊)
『ハマの建物探検』横浜シティガイド協会編著、神奈川新聞社発行(2002年6月刊)
『やぶにらみ磯子郷土誌』葛城峻著、磯子区郷土研究ネットワーク発行(2015年2月刊)


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  • すごい!もうすごいとしか言いようがない。よく手前の道は通っていたが、こんなにすごいところだったとは。

  • 大変楽しく読ませていただきました。昔の横浜というとどうしても開港前後の歴史が中心となりますが、これはそれ以前のまさに横浜の原風景ですね。高橋さん宅から出てくるお宝の数々には本当に驚きです。感動です。そして80歳になる高橋さんがベイスターズのマスクをしている写真を見て、「わー、やっぱ横浜人だー!」と何だか嬉しくなってしましました。

  • 歴史ファンとして大変興味深い記事でした。かつて副業として薬を作り卸していたのは、新選組副長土方歳三の実家と全く同じですね。

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