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まぼろし商店街 ~宮前商店街~

まぼろし商店街 ~宮前商店街~

ココがキニナル!

「昔は確かにここにあった!」という商店街を記憶や資料を頼りに再現すると、懐かしい情景がよみがえり、新たなキニナルも生まれる予感が(ねこぼくさん)――第3弾はかつて旧東海道筋だった「宮前商店街」を調査!

はまれぽ調査結果!

今やほとんどマンションの宮前商店街を深掘りすると、参勤交代の道すがら大名にも愛された銘菓や、広重の「東海道五拾三次」にも描かれた茶屋と通じる芸者置屋など、神奈川宿から続く色濃い歴史がよみがえってきた。

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ライター:結城靖博

「ねこぼく」さんから次のような二つのキニナル投稿があった。

「宮前商店街が栄えていた当時、『亀の甲せんべい』という、この地域の名物があったそうです。製造販売していた店がなくなって、名物も消滅してしまったとか。どのような由来があり、いつごろまで売られ、どんな見た目のせんべいだったのでしょうか」

「宮前商店街が栄えていた当時、商店街の中に芸者の『置屋』なるものがあったそうです。置屋とはどのような設備だったのでしょうか。実際に芸者もここにいたらしく、この場所からいったいどこへ通っていたのでしょうか」

実はこの宮前(みやまえ)商店街については、2011(平成23)年2月に「宮前商店街って昔は栄えてたの?」というはまれぽの過去記事がある。

しかし、あれから10年弱経った現在、商店街はさらに変容しているのではないかと考え、「ねこぼく」さんからのキニナル投稿を機にあらためて「まぼろし商店街」シリーズとして取り上げることにした。



赤い楕円内が宮前商店街(
© OpenStreetMap contributors)




まずは2020年現在の宮前商店街へ





商店会の正式名称は「宮前商和会」だが、商店街入り口の立派な看板アーチの表記にならって、今回は「宮前商店街」と呼ぶことにしよう。



京急線神奈川駅の近くにそびえる看板アーチ



これが神奈川駅。こじんまりして可愛らしい


京急の駅舎だけ見るとなんだか牧歌的にも感じる。だが甘く見てはいけない。


別の角度から商店街を望む。赤い矢印の先が看板アーチ


神奈川駅そばの青木橋橋上から見たところ。ここは橋のたもとを起点に第一京浜と第二京浜が分岐する、横浜市内でも有数の交通量の多いエリアだ。

ということは、さぞや商店街もにぎやかなのでは・・・



こちらは看板アーチから目線をグイッと引いた景色


看板の先には、うーん、ほとんど店らしきものがない。

約10年前のはまれぽ記事では、戦後間もない頃38軒ほどあった店舗が、「今は物販店が6軒、残りは飲食店がちらほら」とある。
だが2020年の現在は、行けども行けどもマンションだらけ。店舗といえば・・・



看板アーチの右横に「鈴木理容館」という理髪店があり



アーチをくぐってすぐ左手に寿司店、右手に中華料理店



その先右手に唐突におしゃれなピアノスタジオ



さらに進むと左側にとんかつ屋



その前方のビルには呉服店と精密機器会社の事務所と歯科医院



通りのほぼ中央右手に郵便局を発見。「宮前郵便局」だ



その先左手に小さな中華料理店があり



その向かい近くに居酒屋があり



さらに進むと左手にちょっとおしゃれなカフェ



もう少し行くと左手に文具事務用品店と老舗風な割烹料理店があり



そのさらに先左手に洋服店があった



だが洋服店の目と鼻の先にはもう商店街の終わりを告げる看板アーチが



アーチをくぐると、目の前は大型トラックがビュンビュン走る第一京浜


結局、宮前商店街の二つの看板アーチ、約300メートルの区間に見つけた物販店は、呉服店と文具事務用品店と洋服店ぐらいだった。10年弱前の記事で紹介されていた手芸問屋「小西商店」の姿も見当らない。

むしろ、かつて「ちらほら」と報告されていた飲食店のほうが、5、6軒とはいえその存在を主張していた。

「ねこぼく」さんの投稿にあった「亀の甲せんべい」の店も芸者置屋も、そこにはなかった。



いっぽうで、道沿いには開港当初フランス公館だった甚行寺(じんぎょうじ)や



同じく開港当初イギリス士官の宿舎に充てられた普門寺(ふもんじ)や



源頼朝に由来する鎮守社・洲崎大神(すさきおおかみ)があり


やはり、街道筋の歴史の深さが感じられる通りではある。
それらの寺社がすべて神奈川駅寄りの商店街入り口から見て左手にあるのは、旧東海道の東側が江戸時代までは海だったからだ。



つまり高島町も横浜駅も海の中だった(『今昔マップon the web』より)




戦中の商店街地図を前にして古老から話を伺う





こうした宮前商店街の歴史と現状について宮前商和会に問い合わせたところ、地域の歴史にくわしい人物として、青木町町内会副会長の上原義行(うえはら・よしゆき)さんをご紹介いただいた。

上原さんのお宅は宮前郵便局向かいの坂を上った先にあり、その自宅近くのカフェでお会いすることができた。



この坂を上りきると幸ケ谷(こうがや)公園がある



眺望と緑が美しい公園だ


園内には「幸ケ谷公園コミュニティハウス(愛称チェリーハウス)」もある。また、この高台一帯は戦国時代の名高い合戦の一つ「権現山(ごんげんやま)の戦い」の舞台ともなった古戦場跡だ(詳しくは過去記事を参照)。

さらに、公園の奥にかつて俳優・上原謙(うえはら・けん)の邸宅があり、その息子・加山雄三(かやま・ゆうぞう)はその家で生まれたことも地元では有名な話らしい。

とまあ、いろいろと曰くつきの場所なのだが、今はもう一人の上原さんに話を戻そう。



ハンチング帽がおしゃれな上原義行さん


青木町町内会副会長兼第五班班長の上原さんは、御年88歳。市の環境事業推進委員でもあり、幸ケ谷公園の公園愛護会会長、横浜市緑の協会青木町内会長などを兼務し、町の緑化・防犯推進、学童見守りなどまだまだ精力的に活動している。

生まれは東京・砂町(すなまち)だが、7歳の時に引っ越してきたので、青木町で暮らして八十有余年になる。1940(昭和15)年頃、太平洋戦争直前からこの町を知る。

実は上原さんがこのカフェを待ち合わせ場所に指定したのは、店のマスター・中村太郎(なかむら・たろう)さんが、古い時代の宮前商店街の地図を保管していたからでもある。



マスターが出してくれた地図を広げて懐かしげに見つめる上原さん


地図には「宮前町 昭和18年~20年初頃」と記されていた。ちょうど太平洋戦争の半ばから終戦直前頃の宮前町だ。その頃、上原さんは10代初めの少年だった。

マスターによれば、この大きな地図の制作者は地元の人。ただ、まだ制作は更新中のため地図そのものを記事に掲載することはできないという。そこで、地図を見ながら、上原さんに戦時中の宮前町を回想してもらった。

「子どもの頃は、商店街の端から端までズラッと店が並んでいた。なにしろ、この狭い区間に銭湯が2軒もあったんだから」と上原さんは言う。

確かに上原さんの言う通り、地図を見ると隙間なく店で埋まっている。「茅木屋(かやぎや)って名前のデパートもあったんだよ」やはりそれも地図に記されていた。そこは現在の郵便局の隣り辺りだ。



今は黒いマンションが建っているこの辺りに茅木屋があったらしい


上原さんと、地図に記載された店の数を数えてみた。すると、商店街の通り沿いだけでも左右あわせて100軒近くにのぼった。

精肉店、青果店、酒店、家具店、写真館、洋服店、呉服店、靴店、時計屋、荒物屋、足袋店、パン屋、薬局、楽器店、レコード店・・・ありとあらゆる業種が並ぶ。

書店の「有隣堂」の名も発見。銀行も数店舗ある。その間々に蕎麦屋やカフェなど飲食店がポツポツと。だが、圧倒的に物販店のほうが多い。

現在商店街の中にある5、6軒の飲食店は、どれも戦後できた比較的新しい店で、上原さんの子ども時代にはなかったという。

では昔から続く店はないのだろうか? 「記憶にある限り、戦前から続く店は洋服店の『河村』ぐらいかな」と上原さんは言う。



そこは先ほどチェックした第一京浜側の看板アーチ近くの店だ


この店は戦前は呉服店で、戦後一時店を閉めた後、洋服店として再開したそうだ。店内をよく見ると、今も着物の反物らしきものも飾られている。

「そんなにたくさんあった店が、どうしてなくなってしまったんでしょうね?」と尋ねると、「そりゃ、戦災で全部焼けちゃったからだよ」と上原さんの答えが返ってきた。

古い商店街の地図が仮に昭和20年初の様子を描いているとしたら、1945(昭和20)年5月29日、米軍のB-29爆撃機による無差別攻撃で横浜全市が壊滅的被害を受けた「横浜大空襲」は、それからわずか数ヶ月のちのことだ。



絵葉書「横浜の戦災」(横浜市中央図書館所蔵)


上原さんによれば、宮前商店街は空襲で全焼してしまったが、死者は1人も出なかったという。なぜなら住民は青木橋の下に逃げて、降り注ぐ焼夷弾の難をまぬがれたからだ。

この日本初の跨線橋だった青木橋についてははまれぽの過去記事で紹介している。だが、戦時中そうした避難所としての役割も果たしたという史実は、今回初めて知った。



神奈川駅舎から望む現在の青木橋


「では、そんな商店街が戦後どのような経緯で復活したのですか?」と問うと、「そんなものは、ない」と上原さんにきっぱり言われた。「宮前商店街は、戦後復興ができないまま、今に至ってしまったんだよ」と。

確かはまれぽの過去記事では、戦後間もない頃38軒ほど店があったとある。それは事実なのだろうが、思えば100軒近く、いやカフェで拝見した地図に記されたメイン通りの周辺まで含めれば、その何倍にもなる戦災前の店舗数と比べれば、その数は少ない。

江戸時代の神奈川宿の流れを汲み発展した宮前商店街は、戦後復興のいとまもないまま一駅隣りの横浜駅周辺の目覚ましい開発に圧され、商業地域としての座を譲ることになったのだろう。



ただ、現在ある商店街の看板アーチが、やけにきれいで立派なのはなぜだろう?


「それはね、商店街一帯のマンションを手掛けた地元の建設会社が、地域への恩返しの意味で最近新しく改修してくれたのさ。確か去年だったかな」そう上原さんは教えてくれた。

「でもね、そんな商店街も年に一度だけは、昔のにぎわいがよみがえるんだよ」
そう言って、上原さんの目がキラリと光った。

だがそれについてはしばし置くとして、上原さんと古地図のおかげで判明した「ねこぼく」さんの二つの謎について報告しよう。



「亀の甲せんべい」の謎を解く



上原さんは「亀の甲せんべい」が売られていた店の場所も覚えていた。そこは、洲崎大神の鳥居の斜め向かいで、現在は駐車場になっている辺り。



現在は「三井のリパーク」の駐車場


店の名は「浦志満(うらしま)」。その店の子どもは上原さんと同級生だったという。

「でも、浦志満は普通の和菓子屋で、自分が子ども時代に遊んでいた頃は、まだ亀の甲せんべいは売ってなかったと思う」
かくいう上原さんの記憶は、まったく正しかった。

実は宮前商店街、というより神奈川宿の「亀の甲せんべい」はとても有名な歴史的銘菓で、関連資料も多く存在する。

上原さんは、幸ケ谷公園コミュニティハウスが資料をたくさん持っていると教えてくれた。そこで、後日同施設に問い合わせてみた。



幸ケ谷公園内のコミュニティハウス。愛称「チェリーハウス」


すると、同施設から20年近く前に神奈川新聞で連載された『亀の甲せんべい物語』という記事のコピーを入手することができた。

また神奈川図書館にも、『亀の甲せんべい資料集』というベタなタイトルの資料集があり、その一部はネットにも公開されていた。

それらを総合すると、「亀の甲せんべい」の起りは、1717(享保2)年にさかのぼる。この年、神奈川宿の「若菜屋(わかなや)」という菓子店でこのせんべいが売り出され大変な評判を呼び、東海道を行き交う旅人から参勤交代の大名までこぞって買い求めたという。

若菜屋は1989(平成元)年まで、宮前商店街の中に存在していた。その店の貴重な写真が、横浜市中央図書館に残されている。



『亀の甲せんべいを売る若菜屋』1976年3月28日(横浜市中央図書館所蔵)


そして、下の写真が上原さんの記憶する若菜屋があった場所だ。


そこは洲崎大神の鳥居の左横辺り


270年以上続いた老舗菓子店「若菜屋」が1989年に閉店したあと、伝統を継いで「亀の甲せんべい」の販売を始めたのが「浦志満」だった。

その時系列から考えれば、上原さんの子どもの頃は、確かにまだ浦志満では「亀の甲せんべい」を売っていないことになる。

ところがその浦志満も2005(平成17)年に閉店し、300年近い歴史を誇った神奈川宿の銘菓を売る店はついになくなってしまった。

では、そんな「亀の甲せんべい」とはどんなものだったのだろう。
「素朴な瓦せんべいで、亀の甲羅の形をしていて、足や頭も付いていたかな。そんなに大きなものじゃないですよ」と、上原さんは回想する。

その後調べた結果、神奈川県下でまだ「亀の甲せんべい」を販売している店を発見した。それは、鶴見にある「あさひや」だ。
 


JR鶴見駅から徒歩15~20分



住宅地の中にポツンと佇む小さなお店


店の看板には「亀の甲せんべい」と確かに大きく書かれている。だがこの店では、亀の形のせんべいを作るのを3年前にやめていた。

今や、店内に掲げられた鶴見区指定の「つるみみやげ認定書」にプリントされた写真から、かつてのせんべいを偲ぶしかない。



赤い矢印で示した菓子が亀の形の「亀の甲せんべい」



親切な店主は、昔使っていた金型を見せてくれた



現在の「亀の甲せんべい」は、折りたたんだ生地の中にチョコなどを挟んだ半月形


ただ生地の製法は、亀の形だった頃と変わらないという。食してみた。瓦せんべいと言っても決して硬すぎず、甘みを抑えた優しい味わいだった。

「あさひや」は、3代続く店で、元は伊勢佐木町に店を構えていて、若菜屋とは関係ないという。2代目が諸般の事情で昭和初頭にここに店を移転したそうだ。

しかし、元々若菜屋で売られていた「亀の甲せんべい」は、こんな凝った形をしたものではなかったようだ。神奈川新聞の連載記事には、若菜屋伝来の元祖「亀の甲せんべい」は、無地の丸い瓦せんべいに反りをつけただけのシンプルなものだったとある。



ということは、こんな感じ?(筆者作・お粗末!)




「芸者置屋」の謎を解く



さて、続いては「芸者置屋(げいしゃおきや)」だ。

この「置屋」についても、上原少年の目にはしっかりと焼き付いていた。「確か『桂月(けいげつ)』とかいう名前だったと思う」と上原さんは振り返る。



「それはこの辺」と地図で示した場所はデパート「茅木屋」の右隣り


あら、例のおしゃれなピアノスタジオがある辺りだ。

そもそも、芸者置屋とはいかなるものか? それは料亭や待合、茶屋にいる客の求めに応じて芸者や遊女を差し向けるために、彼女らを抱えている店のことだ。

「遊女」は売春を目的とする娼婦だ。宿場町には売春宿は付き物。その場所を「遊郭」と称し、神奈川宿界隈にも江戸時代には神奈川遊郭、さらに明治に入ると反町遊廓(青木町遊廓)、また少し横浜駅寄りには幕末に誕生した港崎(みよざき)遊郭の後継、高島町遊郭など、この周辺は色街としての歴史も濃厚だ。

だが上原さんは「桂月は格式のある店だった」と言う。ならば、京都・祇園(ぎおん)の舞妓(まいこ)さんのように、高級料亭に赴き芸を披露することを業とする「芸妓(げいぎ)」の置屋だったということか。

しかし、そんな料亭が近くにあったのだろうか? そう、あったのだ。いや、今でもあるのだ。



それは、ここ。160年弱の歴史を誇る老舗料亭「田中家」


「桂月」と「田中家」の位置関係を下の図に示した。

今でこそ太い線路に分断され青木橋をはさんでくの字に結ばれた東側・青木町と西側・台町(だいまち)の旧東海道だが、土地が切り通され鉄道が開通し青木橋ができたのは1870(明治3)年のこと。それまではまっすぐつながる1本の街道であったことが、一目でわかるだろう。



© OpenStreetMap contributors)


この「田中家」の創業は幕末の1863(文久3)年。街道筋の「さくらや」という茶屋を買い取り開業された。その前身の店「さくらや」は、なんと歌川広重の『東海道五拾三次』にも描かれている。


歌川広重『東海道五拾三次之内 神奈川台景』(横浜市中央図書館所蔵)


小さくてほとんど見えないが、街道筋に並ぶ茶店のうち奥から2軒目の看板に「さくらや」と書かれている。

料亭「田中家」となってからは、米国総領事ハリス、伊藤博文、西郷隆盛、高杉晋作など幕末から明治の歴史を彩る錚々たる人物たちが店を訪れた。夏目漱石の書もたくさん残っている。

けれども、この店でもっとも有名なエピソードは、坂本龍馬の妻・おりょうが、龍馬亡き後一時期この店で仲居として働いていたことだろう。

下の写真は震災復興期に撮られたものなので昭和初期と思われる。田中家の現在の写真と比べて、いかに規模が大きかったかがわかる。



『神奈川駅ヨリ望メル田中家割烹店(古賀写真館撮影)』(横浜市中央図書館所蔵)


ただ、宮前商店街の置屋から通った芸者が、仲居のおりょうと会っていたわけではない。おりょうがいたのは明治の初め、「桂月」ができたのは上原さんの記憶では戦後のことだからだ。

とはいえ、芸者姿の女性が宮前商店街の中を通って田中家の方角に向かう姿を、上原さんは今も忘れていない。

「以前は台町の坂沿いに田中家のほかにも何軒か料亭があって、『桂月』の芸者はそれらの店へ通っていたんだよ。昔は置屋の前にズラリと黒塗りのセダンが並んでいたのを覚えているな」と上原さんは懐かしむ。

ちなみに桂月から田中家までは、青木橋を渡る道をたどって500メートル足らず。徒歩5分ほどの距離だ。



今でも「田中家」の並びの少し坂下に、もう1軒大きな料亭がある


店名は「滝川」。ただしこの店の創業は戦後まもない1947(昭和22)年だ。年代的に、「桂月」の芸者はここにも通っていたにちがいない。

では、そんな置屋がいつなくなったのだろうか? 上原さんの記憶では「自分が30歳ぐらいの1960年代の高度経済成長の頃まではあったはず。70年代のオイルショック以降姿を消した感じかな」とのこと。

実は横浜にはかつて「横浜芸者」と総称されるほど多くの芸者が存在していた。その伝統文化を復活すべく、3年前の2017(平成29)年に「横浜芸妓組合」が組織された。

そのホームページによれば、神奈川や鶴見、綱島温泉などの花街を中心に昭和30年代には52軒の置屋があったという。宮前商店街の置屋もまさにそのうちの一つだったのだろう。



古老の目が輝いた、年に一度のにぎわいとは?





「ねこぼく」さんの二つの謎が解けたところで、上原さんが目を輝かせながら「年に一度だけよみがえるんだ」と言っていたことに話を戻そう。

それは、毎年6月初旬の金曜日から日曜日までの3日間続く洲崎大神の例大祭だ。周りに提灯を付けた重さ2トン、高さ5メートルの神輿を朝8時から一日がかりで37町内を練り歩くことから「ちょうちん祭り」とも呼ばれる。



『洲崎神社の例大祭2』(横浜市中央図書館所蔵)


上の写真は1976(昭和51)年6月6日に撮影された祭りの様子だ。


そして夜7時、神輿の提灯に明かりが灯される(写真提供:中村太郎氏)


これは、上原さんとお会いしたカフェのマスター・中村さんが撮影した最近の「ちょうちん祭り」の1枚。

この祭りで重要な点は神輿の巡行だけではなく、年に一度、この3日間だけは、あの閑散とした宮前商店街の通り沿いに100店もの露店が並ぶところだ。



こちらも中村さんにご提供いただいた写真


約10年前のはまれぽの記事でも、この祭りのにぎわいについて驚きをもってレポートしていたが、それは今なお続いているのだ。

写真を撮った中村さんは言う。
「地元のお年寄りの方々も、お祭りの時になるとビックリするほど生き生きするんですよ」

だが残念ながらコロナ禍のために、今年は6月12日に社殿で関係者のみの例祭が執り行われただけで、提灯神輿の巡行も商店街の出店も中止となった。

来年こそは、この歴史ある町に、まるで地霊がよみがえるかのようなにぎわいを見せる3日間が、復活することを願わずにはいられない。

最後に、今回の取材に関連した宮前商店街の主な場所を以下に示しておく。



© OpenStreetMap contributors)




取材を終えて





上原さんとお会いしたカフェの中村さんは、5年前によその土地からここ青木町に来て店を開いた。お歳を聞くのを忘れたが、見たところまだ若々しい。

「この町の古くからの住人の方々にとっては、ちょうちん祭りは生活の一部のように見える」と中村さんは語った。
「祭りがないと体内時計が狂ってしまって、命にかかわるダメージを受けているようにさえ感じます。ここはそんな町です。だから自分も、まず祭りを第一に考えて、この町の文化継承に協力していきたい」と言う。

シリーズ第2弾の片倉町で「大丸ストリートフェスタ」に情熱を注ぐ佐藤テレビ音響社の店主とイメージが重なった。やはり商店街、そしてその周辺地域の住民にとって、「祭り」とはきわめて大きなキーワードなのだろう。



―終わり―



取材協力

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」
埼玉大学教育学部 谷謙二・人文地理学研究室
http://ktgis.net/kjmapw/

幸ケ谷公園コミュニティハウス
住所/横浜市神奈川区幸ケ谷4(幸ケ谷公園内)
電話/045-441-3788
開館時間/月~土9:00~21:00 日・祝日9:00~17:00
休館日/第3水曜日・年末年始(12月29日から1月3日)
http://kana-sisetu.jp/cm-kou/guide/kou-guide.html

横浜市中央図書館
住所/横浜市西区老松町1
電話/045-262-0050
開館時間/火~金9:30~20:30、その他9:30~17:00
https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/tshokan/central/

あさひや
住所/横浜市鶴見区下末吉1-10-1
電話/045-583-5269


参考資料

『ある東海道名物・亀の甲せんべい物語』神奈川新聞(2001年1月4日~25日付、10回連載)

横浜市ホームページ・神奈川区図書資料データ『資料でたどる亀の甲せんべい』
https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/tshokan/kanagawa/digital/tosyosiryou.files/0001_20180820.pdf

横浜芸妓組合
https://geigi.yokohama/


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  • 大変面白く拝見しました。自宅がすぐ近くの栄町なもので、京急神奈川駅もたまに利用します。一つ気になったのは、国道1号線(第二京浜)と国道15号線(第一京浜)の分岐点が青木橋たもとと書いてあったところです。分岐点は青木橋たもとではなく、青木通り交差点(青木橋から坂を下ったところ)だと思うのですが。ほんの数十メートルに目くじらを立てるのは申し訳ないのですが、青木通り交差点は青木橋たもととは言い難い場所です。Wikipediaでも国道15号線の終点は青木通り交差点であるとしています。

  • 亀の甲せんべい、還暦間近の夫が懐かしがっていました。洲崎神社の近くにあるお店で、程よい大きさ、記事のように瓦煎餅のような味だったそうです。また数件先に京浜堂という剣道の道具を売っているお店があったそうです。私は亀の甲せんべいのお店が閉店することを新聞記事で読んだ記憶があります。

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