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横浜にかつてあった伊勢佐木町・馬車道の映画館の歴史とは? ~戦後編~

横浜にかつてあった伊勢佐木町・馬車道の映画館の歴史とは? ~戦後編~

ココがキニナル!

横浜にかつてあった映画館、例えば関内アカデミーとか、伊勢佐木町東映とか・・・たくさんありますが、その歴史を整理してほしいです(ossangenerateさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

伊勢佐木町・馬車道通りの映画館街は戦争と敗戦の暗い時代を経て、ふたたび黄金期を迎える。だが時の流れはさらに止まず・・・。まだ記憶に新しい人も多いだろう「あの映画館街」の今の姿に迫る。

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ライター:結城靖博


前回の記事は戦前の第一次映画館黄金期までで終わった。
だが大盛況の横浜宝塚劇場前の様子を紹介した同じ年に、日中戦争が始まったとも記した。


1937(昭和12)年の横浜宝塚劇場前の様子(神奈川県立歴史博物館所蔵)


以降、社会は刻々と軍事色を強め、表現への規制が高まっていく。すでに「娯楽の王様」に君臨していた映画への影響も大きくなるなか、ついに1941(昭和16)年12月7日、太平洋戦争が起きる。



戦時下から敗戦期の映画館事情




太平洋戦争が始まると対戦国である欧米映画の輸入が途絶え、洋画専門館は大打撃を受ける。たとえば「洋画の殿堂」と謳われたオデヲン座は「横浜東亜劇場」と名を変え、邦画館に切り替えてしのごうとした。

だが、戦時中検閲を許可される映画は、そのほとんどが戦意高揚の国策映画だ。映画文化は実質的に衰退していく。


『オデヲン座ウィークリー』No.531、p.4-5(横浜市中央図書館所蔵)


『爆撃飛行隊』は太平洋戦争前の1934(昭和9)年の作品だが、典型的な国策映画と言える。しかも、まだ洋画専門館だったはずのオデヲン座で上映していることに注目したい。

しかし太平洋戦争は次第に日本の敗色が濃くなり、やがて本土への空爆が始まる。特に横浜では、1945(昭和20)年5月29日の「横浜大空襲」の被害が甚大だった。市内中心部の大半が焼け野原と化し、約8,000~1万人の死者が出たという。


絵葉書「横浜の戦災」(横浜市中央図書館所蔵)


そして同年8月15日、終戦を迎える。とはいえ、その後も横浜は長く戦争の尾を引くことになる。占領期、焼きつくされた土地だけでなく、戦禍をまぬがれた多くの建物が進駐軍に接収されたからだ。

伊勢佐木町では、たとえば松屋が米軍のメイン・ストア(PX)になり、不二家が将校クラブに使われた。


占領期の伊勢佐木町通り(神奈川県立歴史博物館所蔵)


上の写真は昭和20年代前半の伊勢佐木町通りだ。米兵が闊歩する当時の様子がよくわかる。ちょうど写真左手に「YOKOHAMA PX」の看板が読める。通り向かいの四角いビルは不二家だ。

また映画館では、あの旧オデヲン座(その頃は横浜東亜劇場からさらに横浜松竹映画劇場に改称)は、「オクタゴン・シアター」の名で米兵の娯楽施設に利用された。

サンフランシスコ講和条約が発効し日本の主権が回復したのが1952(昭和27)年。その後徐々に各施設の接収が解除され、旧オデヲン座が「横浜松竹映画劇場」に戻るのは、終戦10年後の1955(昭和30)年のことだ。


吉田橋付近から俯瞰した伊勢佐木町通り(神奈川県立歴史博物館所蔵)


上の写真も昭和20年代前半の貴重な記録だ。戦前まであった伊勢佐木町通り入り口の看板アーチが見えない。これは戦時中、兵器増産用の金属供出のために撤去されたからだ。

なお、伊勢佐木町通りからちょっと逸れるが、占領期のこの近辺でぜひ記憶にとどめておきたい劇場がある。それは「マッカーサー劇場」と「横浜国際劇場」だ。


日ノ出町駅近くの周辺案内マップに記されている劇場跡



場所は平戸桜木道路沿いの現在場外馬券場「ウインズ横浜」がある辺り


1947(昭和22)年3月、横浜で戦後初の市民劇場として誕生したマッカーサー劇場。その2ヶ月後に隣りに誕生した横浜国際劇場。どちらも映画・演劇やコンサートなどが催された。横浜国際劇場は美空ひばりがデビューした地としても知られる。


なので、通りのはす向かいには劇場跡を臨むように美空ひばり像が建っている


マッカーサー劇場は、主権回復まもない50年代半ば過ぎに「横浜吉本映画劇場」に変わるが、横浜国際劇場は約20年間営業を続けたようだ。


「横浜国際劇場プログラム」1954年(横浜市中央図書館所蔵)




第三の復興――ふたたび映画館黄金時代へ




占領期が終わると、徐々に伊勢佐木町の街には民衆の活気がよみがえり始める。
明治の大火からの復興、震災からの復興、そして第三の復興だ。

松屋は松屋に、不二家は不二家に、旧オデヲン座も名は変われども大衆のための映画館に戻り、看板アーチも再建され、50年代後半にはネオン輝く不夜城「ザキ」が還ってくる。


「夜の横浜・伊勢崎町[伊勢佐木町]通」(横浜市中央図書館所蔵)


上の絵葉書は、50年代後半と推定される伊勢佐木町通り入り口の様子だ。

この時期、この界隈の映画館はおよそ40館を数えたと言われる。

残念ながら、戦後黄金期と呼べる当時の映画館街の写真は入手できなかった。だが、県立歴史博物館の武田さんからご教示いただいた『シネマ・シティ ―横浜と映画―』の巻末資料をもとに1958(昭和33)年当時の映画館マップを作ると、次のようになる。


『今昔マップon the web』より加工(基図測量=昭和20年)


「1.横浜宝塚劇場 2.横浜東宝劇場他 3.テアトル横浜 4.オリオン座他 5.横浜花月劇場 6.横浜大映劇場 7.横浜日活映画劇場他 8.横浜松竹映画劇場 9.横浜ピカデリー劇場 10.横浜第二東映 11.横浜東映劇場 12.横浜新東宝 13.横浜レアルト 14.横浜日劇他 15.横浜大勝館他 16.横浜銀座 17.三吉映画劇場 18.ヨコハマニュース劇場 19.野毛劇場 20.横浜文化劇場 21.横浜国際劇場他 22.日の出劇場 23.光音座 24.かもめ座」

40館には及ばないが、前回記事の戦前黄金期よりもはるかに多くの映画館が伊勢佐木町界隈に密集しているばかりか、日ノ出町~桜木町ほか、周辺にも広がっていることがわかる。

また、映画館名を見ると気づくことがある。大手映画会社の名を冠した劇場が目立つことだ。あの「朝日座」や「喜楽座」はどこへ行ったのか?

下は前回記事に載せた昭和前期の映画館マップだ。


『今昔マップon the web』より加工(基図測量=昭和6年)


オデヲン座が「横浜松竹映画劇場」に変わったことはすでに述べたが、大正時代から始まる映画館の配給会社への系列化は、戦後になるとさらに進んだ。
横浜日活映画劇場は旧喜楽座、横浜東映劇場は旧朝日座、横浜ピカデリー劇場は旧世界劇場だ。

いっぽう筆者が映画少年だった1970年代は馬車道も「映画館街」という印象だったが、それはこの通りに「横浜東宝会館」があったからだろう。
下はちょうどその頃、1976(昭和51)年の横浜東宝会館前の写真だ。


馬車道通り横浜東宝会館前(神奈川県立歴史博物館所蔵)


戦前にできた横浜宝塚劇場は、実は1969(昭和44)年に閉館している。

70年代にはすでに横浜東宝会館だけがこの通りにあった。にもかかわらず「馬車道=映画館街」のイメージが強かった理由は、この地上4階・地下1階の建物の中に、当初4つ、その後5つのスクリーンが入っていたからだ(横浜東宝シネマ1・同2・横浜東宝・横浜東宝エルム・横浜スカラ座)。つまりここは、今で言う「シネマ・コンプレックス」の先駆けだったのだ。

だが、そんな「映画の神殿」のようだった横浜東宝会館も、2001(平成13)年に閉館する。


そして今、その跡地にはリッチモンドホテルが建っている


ちなみに横浜宝塚劇場は、馬車道通りをはさんで、横浜東宝会館のはす向かいにあった。


現在そこは「横浜市市民文化会館 関内ホール」だ




映画館街のビフォー・アフター ~その1~




1950年代後半の写真は入手できなかったが、映画館がいっぱいだった頃の戦後の伊勢佐木町の写真がなんとか入手できないか模索した。

その結果、横浜の映画史研究家、故・丸岡澄夫(まるおか・すみお)氏が立ち上げた映画同好会「シネマトーク」の現代表・磯貝友康(いそがい・ともやす)氏から、1995年頃の伊勢佐木町界隈の映画館を写した貴重な写真を提供していただくことができた。

それをこれから紹介していくことにしよう――2021年現在の光景とともに。


まずはこの写真から(写真提供:磯貝友康氏)


接収解除後復活した横浜松竹映画劇場(旧オデヲン座)は、1973(昭和48)年に閉館し、複合商業施設「ニューオデオン」に変わる。
ところが、1985(昭和60)年に同ビル9階に「横浜オデヲン座」がオープンする。

上の写真はその頃の光景だ(写真右下に小さく劇場案内の看板が見える)。

だがその「横浜オデヲン座」も2000(平成12)年に閉館し、その後ニューオデオンビル自体が下のような姿に変わる。


ビル全体が「ドン・キホーテ」になっている


上の写真をよく見ると、伊勢佐木町通りをはさんでドンキのはす向かいに、屋上に黄色いボウリングのピンが乗ったビルがある。ここは1958年当時のマップで横浜日活映画劇場だった場所、つまり旧・喜楽座だ。

明治後期から映画上映を始めた横浜を代表する芝居小屋・喜楽座が、日活の直営となったのは1930(昭和5)年のこと。その後建物は「横浜日活会館」となり、戦後は「日活」の名を冠した劇場名を目まぐるしく改称した末、1995年頃は次のような名称になっていた。


1995年頃の「横浜日活会館」(写真提供:磯貝友康氏)


当時、2つのスクリーンを有した「横浜オスカー」。だがこの映画館も、2002(平成14)年に閉館している。


そして現在の横浜日活会館


パチスロ店とカラオケ、ボウリング場などの遊戯施設が入る。しかし、ビルの壁面に掲げられている「NIKKATSU KAIKAN」の表示が、今も往時を偲ばせる。

また、日活会館側から見て伊勢佐木町通りの右はす向かいにかつてあった朝日座が、1958年当時「横浜東映会館」になっていたこともすでに書いた。1995年頃のそこは・・・


まだ「横浜東映会館」だった(写真提供:磯貝友康氏)


朝日座も東映の系列下に置かれた後、戦後は「東映」を冠した劇場名をたびたび変え、上の写真当時は、「伊勢佐木町東映劇場」と「伊勢佐木町東映2」の2つが入る建物だった。


だが今そこはパチンコ店「スーパーハリウッド」に変わっている


映画館が閉館したのは2006(平成18)年のことだ。

ふたたび旧オデヲン座に目を移すと、長者町通り(横浜駅根岸道路)に面していたオデヲン座の左に大正時代「世界館」ができ、そこが、すでに記した通り1958年のマップでは「横浜ピカデリー劇場」と名を変えていた。

筆者は1970年代前半に、ここで封切間もない『燃えよドラゴン』や『エクソシスト』を観た記憶がある。そしてその頃、伊勢佐木町で最も大きな劇場がここだったという印象も。


1995年頃の「横浜ピカデリー」(写真提供:磯貝友康氏)


懐かしい! 70年代に筆者が通っていた頃もこんな感じだった。
だがここも1998(平成10)年に閉館し・・・


今は「グラン・アルベーラ横濱・関内」というマンションが建つ

また、ピカデリーとオデヲンが隣接する長者町通りの右側、京急・日ノ出町駅寄りの数ブロック先には、1995年頃、「横浜松竹」があった。


1995年頃の「横浜松竹」(写真提供:磯貝友康氏)


ここは1958年のマップでは「横浜大映劇場」と表記されている。その後「横浜松竹」と「横浜セントラル」の2館運営になったのち、やはり1998年頃閉館している。


そして今、ここもまた「キコーナ」というパチンコ店だ


なお、磯貝氏提供の写真には「横浜東宝会館」もあったので、あわせて紹介しておく。


1995年頃の「横浜東宝会館」(写真提供:磯貝友康氏)




映画館街のビフォー・アフター ~その2~




ここまで1995年頃の写真を紹介してきた映画館は、かつて「封切館」とか「ロードショー館」などと呼ばれた大手映画会社系列の劇場だ。

だがこの界隈の映画館が、そんなメジャーどころだけで占めていたはずはない。そこには封切作品を公開する劇場とは別に、独自に作品を選定し上映する「短館系」、または昔懐かし「名画座」、あるいは「ミニシアター」と呼ばれる場所があった。

磯貝氏から提供していただいた写真の中には、その代表的な劇場も含まれていた。


そのひとつが「関内アカデミー」(写真提供:磯貝友康氏)


羽衣町のバス停と有隣堂の間にあったという印象のこのミニシアターは、常に良質な作品を上映し、かつて、コアな映画ファンにとって聖地のような場所だった。

だがここも、2004(平成16)年に閉館している。


今、そこはシーフードレストランだ


また伊勢佐木町2丁目には「横浜ニューテアトル」があった。


1995年頃の「横浜ニューテアトル」(写真提供:磯貝友康氏)


同館は1955(昭和30)年に「テアトル横浜」として開館し、70年代初めに「横浜ニューテアトル」に改称。松竹系の二番館から次第に独自路線のラインナップに移行し、2018(平成30)年の閉館時最後の作品は『ヨコハマメリー』だった。


2021年現在、磯丸水産の右隣りの茶色い壁面箇所が旧「横浜ニューテアトル」


さらに、伊勢佐木町通りの西のはずれには、かつて全国的な知名度を得た名画座があった。『私立探偵 濱マイク』のロケ地となった「横浜日劇」だ。


1995年頃の「横浜日劇」(写真提供:磯貝友康氏)


1953(昭和28)年に開館した同館は、当時最先端だったシネマスコープを導入し、洋画の名作を安価に2本立てで上映する名画座として長く映画ファンに愛された。

だが2005(平成17)年に惜しまれつつ閉館。閉館後「昭和の横浜を象徴する存在」として、日劇再生運動が高まるが、建物の老朽化がネックとなり、結局2007年に取り壊しが決まる。

取り壊し前に特別上映会が開かれた。その演目は『ニュー・シネマ・パラダイス』だ。


今そこには、マンション「ライオンズ横濱伊勢佐木」が建つ


磯貝氏から提供いただいた写真の中には「横浜光音(こうおん)座」という映画館もあった。


(写真提供:磯貝友康氏)


場所は伊勢佐木町通りから少し離れた京急・日ノ出町駅の程近く。ここは、成人映画の製作会社・大蔵映画の直営館として昭和30年代に開業以来、ずっとこの地でいわゆる「ポルノ映画館」として君臨してきた。
そして今そこは・・・


なお、健在である


ここまで磯貝氏の写真をもとにビフォー・アフターを紹介した映画館は、全部で10館だ。その中で、今も存続している映画館は、この光音座のみだった。


© OpenStreetMap contributors)


上のマップは取材した10館の場所を表示したものだ。そこに2つの★マークの映画館を加えておいた。理由は、この2館が「今なおこの地域で興行を続ける『希望の星』」だからだ。



良質の映画を上映し続ける2つの希望の星




そのひとつ、「シネマ ジャック&ベティ」は上のマップでわかるように、旧「横浜日劇」のはす向かいにある。


通りの左側・茶色いビルが旧・日劇、赤い矢印がジャック&ベティ


同館は1952(昭和27)年、「横浜名画座」としてオープンし、「洋画は日劇、邦画は名画座」と謳われる地域密着型の映画館として愛された。そして90年代初頭に洋画中心の「ジャック」と邦画中心の「ベティ」の2館形式となり、今の館名に生まれ変わる。


現在は2館に洋画・邦画の区別は特にないようだ


だが、経営難から2005(平成17)年、一度閉館の憂き目を見る。ところが地元の映画ファンに後押しされ、地域活性化プロジェクトの一環として再生し現在に至る。
今も、質の高い映画をジャンルを問わず上映するミニシアターとして、根強い人気を持つ。

もうひとつの星、「横浜シネマリン」は、1958年のマップでは「横浜花月劇場」と表記されている。その頃、長者町通りの向かいには旧オデヲン座の横浜松竹映画劇場や旧世界館の横浜ピカデリー劇場があり、映画の街・伊勢佐木町通りの中心地に位置していた。


横浜シネマリン側から臨む現在の旧オデヲン(右)と旧ピカデリー(左)



長者町通り側から見た横浜シネマリン


横浜花月劇場は、1955(昭和30)年に吉本興業が開業した映画館だ。同館は60年代前半にいったん閉館したのち、オーナーを替え「イセザキシネマ座」となる。その後、1989(平成元)年に「横浜シネマリン」と名前を変え現在に至るのだが、その過程には「ジャック&ベティ」と同様の苦労があった。



横浜シネマリンの現オーナーを取材




今年(2021年)4月、横浜シネマリンの現在のオーナー・支配人である八幡温子(やわた・あつこ)さんを取材し、今なおこの地で興行を続けているお立場から現在の映画館事情について話を伺った。


「横浜シネマリン」入り口


筆者とほぼ同世代の八幡さんだが、実は学生時代から熱心な映画ファンだったわけではないという。むしろ、社会人になってから観る機会が増え、東京に勤めていたので岩波ホールにもよく通った。そして横浜では、関内アカデミーが好きな映画館だったそうだ。

横浜で生まれ育った八幡さんは、結婚後に茅ヶ崎に移る。
「でも茅ヶ崎には映画館がなかったので、自然と横浜方面に足を運びました」という。この界隈にまだ多くの映画館があった1990年代のことだ。


八幡温子さん。館内ロビーにて


だがすでに紹介したように、90年代終わり頃から、松竹・東宝・東映・日活といった大手映画会社系列の従来型の映画館がこの地から次々に撤退していく。
いっぽう巷ではこの時期、大規模複合上映施設「シネマ・コンプレックス」が増え始める。


映画館が姿を消した現在の伊勢佐木町通り(旧賑町だった3丁目付近)


そのシネコンも「動画配信サービス」という鑑賞形態の変容とともに、現在は全般に苦戦を強いられているように筆者には見える(もちろん短期的にはコロナの影響もある)。

「でも、横浜にはまだまだたくさんシネコンがありますよ」と八幡さんは言う。

確かにみなとみらいには13スクリーンを誇る大型シネコン「横浜ブルク13」や「イオンシネマみなとみらい」があり、また一昨年(2019年)にはミニシアター系の「kino cinéma 横浜みなとみらい」もオープンした。


桜木町駅前に建つ複合商業施設コレットマーレの「横浜ブルク13」入り口


そして横浜駅周辺には、もはや老舗感漂う「ムービル」に加えて、昨年、9スクリーンを有する「T・ジョイ横浜」が新たにできた。


8~10階に「T・ジョイ横浜」が入る横浜駅西口の「横浜タワー」


だが、いずれもみなとみらいであり、横浜駅だ。
結局、かつてのシネマ・シティの中心地だった伊勢佐木町界隈に今あるのは、ミニ・シアター系の「ジャック&ベティ」と「横浜シネマリン」だけ、ということになる。


地下の劇場入り口へと続く横浜シネマリンの階段


「2004年頃、横浜の短館系の映画館が一気に5館つぶれたんです」と八幡さん。

短館系とは、全国一斉公開の封切館とは異なり、独自に作品を選定し上映する映画館のことだ。
5館の中には、八幡さんがよく通った「関内アカデミー」や「横浜日劇」、「シネマ ジャック&ベティ」も含まれていた。3館のその後については、すでに記した通りだ。

同一経営者だった5館の元従業員たちが労働争議団体として結集し、その後映画館再生を目指すサークル「横浜キネマ倶楽部」に発展する。

一映画ファンにすぎなかった八幡さんはそのサークルに参加し、やがて事務局長となる。さらに、2014(平成26)年に経営難に陥った「横浜シネマリン」を個人で買い取り、オーナーに。そして市の助成金制度を利用して老朽化した施設をリノベーションし、閉館の危機を救った。
サークルに頼らなかった理由は、合議制では現実的な再生は困難と考えたからだという。


随所にシネマ愛を感じる「横浜シネマリン」の落ち着いたロビー


「確かに今、映画館はシニア層に支えられていて、若い人の中には『ネット配信で充分だから映画館なんていらない』と平気で言う人もいます」と八幡さん。
「でも」と続く。
「応援してくれる人もちゃんといる。その人たちに『おーっ!』と感心してもらえるような企画力を磨いて、これからもきめ細かく丁寧に作品を選定し上映していきたい」
そして、「今はコロナ禍の影響も大きいけれど、粛々とやっていくだけです」とキッパリ。


建物の裏手に当たる大通り・鎌倉街道沿いの劇場案内。昭和の香りが漂う


八幡温子さんの行動力と意志の強さは驚くばかりだ。
こうした情熱を持った映画人がいるかぎり、この街はなおも歴史あるシネマ・シティの光を放ち続けるだろう。そう確信しつつ、横浜シネマリンを後にした。



取材を終えて




伊勢佐木町界隈から映画館が減少していった理由は、単に映画館あるいは映画業界全体の構造的な経営不振だけが影響しているわけではない。

以前筆者がピアゴイセザキ店閉店の記事でも伝えたように、伊勢佐木町という盛り場の衰退も大きく関係しているだろう。そうでなければシネコンの台頭期に、伊勢佐木町にもどんどん進出してきておかしくなかったはずだ。

ところで、現在「映画鑑賞」の方法は、劇場と動画配信という2つに分化している。むろん、ほんのちょっと前までの在宅鑑賞は「レンタルショップ利用」が主流だった。しかし動画配信サービスの急速な普及で、昨今は「一昔前」感が強い(かく言う筆者は、いまだに「一昔前」派だが)。

こうした中で、最新のシネコンなどでは、3Dや4DXといったその場でなければ得られない体感型上映システムを導入し、動画配信との差別化を図ろうとしている。
いっぽう従来型のミニシアターでは、シネコンや動画配信で流通されにくい作品を扱う方向をいっそう強化し、やはり差別化に努めている。

見方を変えれば、映画ファンにとっては、それだけ鑑賞方法が多様化したけっこうな時代だともいえる。

とはいえ、封切館で同じ映画を繰り返し観たり、名画座で違った映画を4、5本立て続けに観て一日過ごした70年代の映画少年からすると、「思えば遠くに来たもんだ」という感もないわけではない・・・。


―終わり―


取材協力

神奈川県立歴史博物館
住所/横浜市中区南仲通5-60
電話/045-201-0926
開館時間/9:30~17:00(月曜休館)
http://ch.kanagawa-museum.jp/

横浜市中央図書館
住所/横浜市西区老松町1
電話/045-262-0050
開館時間/火~金9:30~20:30、その他9:30~17:00
https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/tshokan/central/

横浜シネマリン
住所/横浜市中区長者町6-95
電話:/045-341-3180
https://cinemarine.co.jp/

「シネマトーク」代表・磯貝友康氏

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」
埼玉大学教育学部 谷謙二・人文地理学研究室
http://ktgis.net/kjmapw/

※各博物館・図書館は感染症対策のため開館時間や休館日、利用方法などを変更している可能性がございます。詳しくは公式HPをご確認ください。


参考資料

『映画生誕110年 シネマ・シティ ―横浜と映画―』横浜都市発展記念館・横浜開港資料館編集、横浜都市発展記念館発行(2005年1月刊)
『ときめきのイセザキ140年』横浜開港資料館編集・発行(2010年10月刊)
『中区わが町 中区地区沿革外史』“中区わが町”刊行委員会・中区役所発行(1986年1月刊)
『伊勢ぶら百年』伊勢佐木町一・二丁目商和会編集、伊勢ぶら百年編集委員会発行(1971年8月刊)


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  • 横浜ピカデリーで鑑賞したフィールドオブドリームスがいい想い出です。ロードショーの最後のほうで最終回であったため観客が7,8人しか居らず、ラストシーンが球場に向かう車のベッドライトの長い列がとても幻想的で美しかったのが強烈に印象に残り、感動して映画館を出た景色さえ今でも鮮明に想い出せるほどの自分にとっての最高の洋画となっています。

  • 日劇のあった場所とJ&Bの十字路には昔のアーチがあったことを思わせる、ポールがいまだに残ってる。

  • 今ではTジョイ横浜でちょくちょく映画みてます。どうしても近くて便利、もしも見たい映画が上演されてなかったら後でテレビ放送されるのを待ってます。ぐうたらなのでごめんなさい。

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