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横浜なのになぜ熊本城主の名前? 中区長者町の飲食店街「清正公通り」の名前の由来は?

ココがキニナル!

清正公通りって加藤清正公を祀る久保山の常清寺とも関係がある?/清正公通は加藤清正とゆかりがある?(maniaさん、円海山さん、shisamanoさん)

はまれぽ調査結果!

近くに熊本の領主であった加藤清正公を祀った社があったことから、1976(昭和51)年に清正公通りと名付けられた。

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ライター:橘 アリー

清正公堂の由来は!?



常清寺は久保山霊園の向かい側にある。
 


地図だとこのあたり
 

久保山からの西区方面の様子。高台で、とても眺めが良い
 

こちらが常清寺
 

お寺の名前の上に「清正公」の文字がある!


さっそく清正公堂について尋ねると、2010(平成22)年に、清正公四百遠忌(おんき/滅後400年目の法要)が行われ、そのときに発行した記念誌に詳しく書かれているとのこと。
副住職の片山さんから記念誌をいただいた。

頂いた記念誌や中区史などの資料と、地域の方から教えていただいた話をもとに清正公堂についてまとめた。

まずは清正公通りに常清寺と清正公堂が作られた経緯などについて調べてみる。
常清寺が長者町に創建されたのは1676(延宝4)年2月のこと。長者町は吉田新田の一部で、同年に吉田勘兵衛によって新田埋め立てが完成する以前は、入海であった。
 


吉田新田の図。黄色の丸の辺りが常清寺のあった場所(『清正公四百年遠気記念誌』より)


常清寺は、新田守護と諸霊供養のために吉田勘兵衛が創建したお寺であるそうだ。
その後、創建から約100年経ち、第10世の住職として熊本から不染院日亮上人(ふせんいんにちりょうしょうにん)が迎えられた。不染院日亮上人が迎えられた時期・理由などの詳細は現在は資料として残っていないので不明である。

不染院日亮上人は、清正公大尊祇(せいしょうこうだいそんぎ。神様として祀られている清正公のこと)を開運の守護神として広く庶民の信仰の対象として広めようとした。そしてまた、病に苦しむ人の治療のために霊験あらたかな淨行菩薩(じょうぎょうぼさつ)を併せて勧請(かんじょう。祭神を分霊して移すこと)して、常清寺の境内に祀った。

これらの正確な年代は不明であるようだが、創建から約100年とのこと、そして日亮上人が亡くなったのが1812(文化9)年のことなので、清正公堂が作られたのは1700年代の後半のことではないだろうか。



何度も火災にあっていた!?



日亮上人が望んだ通り、清正公堂は「清正公さま」と、淨行菩薩は「お淨行さま」と、宗派を問わず不特定多数庶民から親しまれ信仰の対象となった。
 


清正公の偶像(『清正公四百年遠気記念誌』より)


1872(明治5)年になると、人口も増えて周辺地域の開発に伴い、お寺の墓地は久保山へ移転することになる。移転完了後、本堂や清正公堂などが整備されたが、1899(明治32)年の伊勢佐木町の大火により焼失。その後、再建された。
 


関東大震災以前の本堂(『清正公四百年遠気記念誌』より)


大正時代になると、常清寺が長者町界わい地域のシンボルとなっていたそうである。境内には池があり、そこには無数の亀が放たれていたという。

しかしその後も、関東大震災で焼失。また再建されるが、1945(昭和20)年の横浜大空襲で焼失。1950(昭和25)年、久保山に常清寺の仮本堂が建立される。終戦後、長者町近辺は接収(国家などが所有物を取り上げること)されているが、接収解除後、1960(昭和35)年に清正公堂が再建となった。
 


1960(昭和35)年に再建された清正公堂(『清正公四百年遠気記念誌』より)
 

再建された年、清正公350遠忌として伊勢佐木町でパレードが行われたそうだ
(『清正公四百年遠気記念誌』より)


その後、1970(昭和45)年に常清寺の本堂が久保山に再建され、清正公堂は、1978(昭和53)年に常清寺の本堂に移転となった。長者町の清正公堂が移転となった理由は、地域開発のためであるそうだ。
 


清正公堂は常清寺の本堂の中に祀られている
 

清正公が祀られている本堂(『清正公四百年遠気記念誌』より)
 

常清寺境内の祀られている淨行菩薩


以上のような経緯で、長者町から清正公堂は姿を消した。

しかしその後、長者町周辺地域住民からの強い要望があり、1998(平成10)年2月に、清正公堂分院として、長者町9丁目の初代吉田勘兵衛の住居跡に復興された。
 


地図の青丸のところが清正公堂分院の場所
 

立体駐車場の一角に清正公堂分院がある
 

正面から見た様子
 

淨行菩薩も祀られている


清正公堂が現在も祀られていると分かった。

これまで、はまれぽの調査では「昔は在ったものが通りやバス停などの名前としてだけ残っている」ということがあったが、今回は移転しているが清正公堂そのものが残っていた。
これは、開運の神様「清正公さま」が、地域の人たちに永く親しまれ続けてきた証なのではないだろうか。



取材を終えて



関東大震災で清正公堂が焼失した後、境内にあった池を埋めて整地が行われた。池の地固めには東京大相撲の力士が呼ばれ、その中には出羽ヶ嶽文治郎(でわがたけぶんじろう/身長207㎝体重203㎏という巨漢力士)がいたようである。

その後、5~6年経って再建するために池を掘り起こしたところ、甲羅の焼けた亀が一匹出て来た。おどろくべきことに生きていたそうだ。亀は、かわいそうだからとお酒を飲ませて野毛山の行水場(現在の野毛山の展望台の近く)に放されたとのこと。

亀は、震災の後5~6年もの間、地面の中で生きていたことになる。これには「清正公さま」「お淨行さま」のご利益があったのだろうか・・・。

それもキニナルが、どうして亀にお酒を飲ませたのかもキニナル・・・。


―終わり―
 
 
 

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  • オサムさんお元気そうで( ̄▽ ̄)

  • 1960年の清正公堂の建築に工務店を営んでいた祖父が携わっており、実家に上棟式の写真が残っています。

  • 不染院日亮上人が迎えられたのは1818(文化9)年のことで、そして日亮上人が亡くなったのが1812(文化9)年、、、、って、全くもって意味不明。死んだ年の方が古くて、しかも同じ文化9年なんですか?  一応はメディアなんだから、編集部も含めてもっとしっかりしなさいよ!

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