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弘明寺近くの蛇のようなクネクネ道の正体は?

ココがキニナル!

弘明寺近くの大岡小学校の横の道が蛇のようにクネクネな理由が知りたいです!(はまれぽ初心者さんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

近くの交差点で、スピードの出しすぎで事故を起こす車が多いため、減速させる目的で作られたスクールゾーンと重なっていることも関係あると思われる

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ライター:小方 サダオ

なぜ広いスペースができたのか?



そこで投稿のクネクネ道と川沿いの不自然な曲がり角をした道に関して詳しく調べるために、南土木事務所を訪れた。

 

移転前の南土木事務所
 

投稿のクネクネ道に関して伺うと「1996(平成8)年に国庫補助事業として協議会を設置し、南区の“コミュニティ道路(住宅地内にある歩行者の安全性に配慮して作られた道路)”の1ヶ所として作られたものです。道路が蛇行しているのは、車のスピードを落とさせて歩行者の安全を確保するためです」と答えてくれた。

次に「大岡川プロムナード」の整備と関係があると思われた、不自然なカーブと歩道の広いスペースに関して伺うと「2007(平成19)年3月に大岡川プロムナードは完成しました。しかし整備する以前から広いスペースはあり、大岡川プロムナードの整備のために作ったものではありません」と答えてくれた。

 

蛇行する形で作られた小学校前の道路
 

ここであらためて、図書館で手に入れた大正時代と1972(昭和47)年の地図を比較してみると、鋭角に曲がっていた川の流れが変わった可能性があることに気づいた。

 

川が鋭角に曲がっている。広い歩道の部分(青矢印) (『横浜市全図』・1918〈大正7〉年以降震災前推定)
 

川の流れが緩やかになっている(『南区明細地図』1972〈昭和47〉年)
 

イメージ図。1918年ごろは現在の側道に沿った川の流れだった
 

そこで川の流れについて伺うと「詳しいことは分かりませんが、急に曲がっていた以前の川の形は、意図的に緩やかに変えたか、自然に緩やかな形に変わったのではないでしょうか。そのため川の側道に広いスペースが出来たものと思われます」

 

対岸からの以前の川の曲がり方のイメージ図
 

以前は階段のあたりに食い込む形で曲がっていたようだ
 

上流から運ばれた砂が堆積するスペースだったのかもしれない
 

「また対岸の住宅の近くまで川が迫っていることも、川の流れが変わった証拠なのかもしれません」と答えてくれた。

 

対岸の角にある住宅に川に迫っている (Googlemapより)
 

広いスペースの対岸の住宅の前
 

その場所だけ道路が急に狭くなり、車が通れない
 

その角を過ぎると道は広くなる
 

鋭角だった川の流れは、護岸の整備時に意図的に緩やかに変えたか、もしくは自然に緩やかに変わったために、川の内側(水辺の遊歩道側)は広くなり外側(住宅側)は狭くなったようだ。その内側の三角形の広い空間を歩道に整備したので、ここだけ歩道が広いのだろう。

 

前出の階段のある川の内側(緑矢印)が広く、川の外側(青矢印)が狭い(Googlemapより)
 

大岡小学校の手前で大岡川が鋭角に曲がっている(Googlemapより)
 

横浜市環境創造局のホームページによると「大岡川は全長約14kmの二級河川」だという。

地図上で見ると、大岡小学校前の場所は大岡川が鋭角に曲がっている直前の地点であり、勢いのついた上流からの水流がぶつかって川の流れが変わり、形が変形しやすかった特別な場所なのかもしれない。

現在の不自然に曲がった道は、以前の川沿いの道の名残のようだ。

 

1955(昭和30)年ごろの大岡川の様子(『南区がたどった70年の軌跡』)
 

大岡川についての文献『南区がたどった70年の軌跡』には「戦前から大岡川は横浜港につながる海上運送路で、荷を積んだ『はしけ(河川などで貨物を運ぶ船)』が頻繁に行き来していた。大岡川の川縁はコンクリートではなく、道路から川岸の石垣まではなだらかな土手であった」とある。

川岸が土手で崩れやすかったこともあり、コンクリート製の護岸などと違い、川の流れは変わりやすかったのかもしれない。

次に大岡川を管理している、横浜治水事務所河川第二課の長倉信一(ながくら・しんいち)さんに、前出の資料を見てもらいながら話を伺うと「以前の川の流れを護岸工事の際に変えた可能性はありますが、資料が残っておりませんので詳しいことは分かりません」と答えてくれた。



周辺住民に話を伺う



ここで当時の大岡川の様子について、以前の記事で取材させていただいた、岩田質店の店主にお話を伺った。

歩道上のスペースに関して伺うと「現在の護岸工事は1964(昭和39)年~1965(昭和40)年ごろに行われたと思います。1967(昭和42)年~1968(昭和43)年ごろには、そこだけ道路が広かったため、消防器具の置かれた小屋が建っていました」と答えてくれた。

 

大岡川にかかる戦前の観音橋
 

大岡川の流れに関して伺うと「台風で水かさが増し、あふれる川でした。1969(昭和44)年の私が小学6年のころ、台風によって氾濫があり一帯が浸水しました。建設中の市営地下鉄の駅の構内に水が入ってましたが、その後は浸水しなくなりました」

「昔は小学校のあたりは田んぼでしたので、川が今の形でなかった可能性はあります。以前の大岡川が田んぼの用水路のような川だったとしたら、流れは変わりやすかったのではないでしょうか」

 

1959(昭和34)年、鶴巻橋から望む大岡川
 

「弘明寺の古文書に『川沿いの船着き場のどこに船を停泊するか、戦国時代に船の位置争いの解決に関する資料』があります。そのため当時は川沿いに停泊場所があるほど川幅が広く、商店街あたりの場所は、川を埋め立ててできた場所もあるのかもしれません」

「また東日本大震災の時には傾いてしまったお店がありましたが、埋め立てのために地盤が弱かったことが影響したのかもしれません」

 

東日本大震災時に傾いた店があったあたり
 

「自分の家を建築する前、地質調査をした際には『7メートルまでズブズブ』という結果が出たため、深い杭を打たなければならなくなりました」と答えてくれた。

大岡川の流域である弘明寺周辺の人たちは、鋭角に曲がっている特別な場所などの理由で流れを変えてきた大岡川の影響を受けてきたようだ。



取材を終えて



横浜港につながる交通の要所でもあった大岡川は、その規模からか流れを変えてきた川であり、顕著に変わった場所の名残が「水辺の遊歩道」への階段のある歩道上に残されているのだ。

また投稿の道路は意図的に作られたものだが、ゆったりと流れる川の隣りの道路は「自然にできたクネクネ道」といえ、曲がり角が多いと車のスピードが落ち、交通安全に一役買うことを教えてくれている気がした。

 

横浜港へと注ぐ大岡川
 


―終わり―
 
 

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  • 祖母と叔父のお墓がある日野公園墓地まで、年末に歩いて行った(片道2時間)時に通りましたが、自転車が爆走していなければ、桜祭りでも一部使われていて、散策に良い道ですね。

  • 交通安全のためにカーブさせた道も、川沿いの遊歩道も、いわゆる「界隈性」が感じられてなんとも言えない味わいがあるように思います。それにしても戦国時代の船着場の話題が弘明寺で出てくるとはオドロキ!

  • 蒔田公園の横もくねっていますよね

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