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中区に流れる見えざる川!? 歴史とともに姿を変えた「千代崎川」とは?

ココがキニナル!

中区にある千代崎川の歴史を調べてください。(たつのりさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

千代崎川はかつて中区に存在した河川。歴史と共に姿を変えて、現在は小港の河口付近にのみその姿を見ることができる。

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ライター:松崎 辰彦

なぜ震災後に工事が行われたか



震災の後に工事が決定されたということは、おそらく揺れによって川の水が氾濫し溢れたのだろうと考えたくなるが、実際はそうではないという。

「実は反対に川の水がせき止められたために工事が決まったのです。震災で土砂崩れが起き、川が土砂でせき止められて水が流れなくなったことがきっかけです」

1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災は横浜にも甚大な被害をもたらし、特に火災により広範囲が延焼した。
 


がれきの山が一面に続く関内方面の様子(画像提供:横浜市史資料室)


桜木町駅周辺(画像提供:横浜市史資料室)


それはここ千代崎川周辺でも同じだった。下流付近で火災が発生したが、頼みの川の水は上流で起きた土砂崩れによりせき止められ下流まで到達せず、炎を前に人々は手をこまねくしかなかった。

しかし意外なところから救いの手は現れた。当時、千代崎町付近にあったキリンビール工場のタンクが崩壊し、大量のビールが水の替わりに千代崎川に流れ込んだのだ。下流の人々はビールを炎にかけ、消火に成功した。
 


千代崎町・諏訪町にあったキリンビール工場
(画像提供:長沢博幸 原典『麒麟麦酒株式会社50年史』)


「土砂崩れになると川の水がせき止められてしまうことが分かり、川の流れを改修する計画が持ち上がりました。川をまっすぐにすれば氾濫もおきず、流れが早くなるのでせき止められる確率も少なくなりますから」



千代崎川はかつて氾濫した



水がなくなるばかりではなく、千代崎川は氾濫の記録をも持っている。

「1920(大正9)年に洪水が起きたそうです。8万6000坪(28万4297平方メートル、横浜スタジアム約11個分)が被害に逢い、2100戸が浸水したと記録にあります」

震災後は堤防決壊、水路内の土砂堆積のためますます洪水時の被害が大きくなった。

震災後の改修ではそれまで比較的高地にあった流れを、排水を促すために低地に移すこと
が構想され、そのためもとは支流だった流れを本流にするなどの工夫が行われた。また水
路の断面を拡大し、護岸は間知石(けんちいし:四角錐形の石材)を積み、裏はコンクリ
ートを詰めた錬積み(ねりずみ)を行うなどの工事が実施された。
 


立野橋より 護岸に間知石の模様が見られる 
(画像提供:長沢博幸 原典『中尾台中学創立20周年記念誌』)


当時としても相当の努力を払ったことがうかがえる。


個人で橋を架ける



長沢さんの回想は続く。

「いつのころからでしょうか、昭和19年の航空写真にはあるようですが、川にいくつもの橋が架けられました。といっても個人で架けてしまうのです。当時は家が川のギリギリに建っており、対岸から自分の家に入るだけのために、勝手に橋を架ける人が多くいました」

 

個人で橋を勝手に架けた和新橋(右下)・竹泉橋(左上)間の12橋(画像提供:長沢博幸)


橋どころかさらに大きなことをする人もいた。

「前出の立野橋の写真を見てください。画面奥、川の上に橋があるでしょう? これは橋ではなく個人が勝手に作った大きな蓋です。当時ここに映画館があり、お客用に館主が作ったと思われます」

戦中戦後の混乱の中でも人々はたくましく生きていたのである。



生活の近代化が千代崎川を暗渠にした



1962(昭和37)年に千代崎川は全面的に川面に蓋をする覆蓋(ふくがい)工事が行われ、ほぼすべてが地下化された。これにより千代崎川は人々の生活圏から姿を消し、追憶の中に流れる川となった。
 


現在の千代崎川を眺める長沢さん


「この時代に暗渠となったのには理由があります。この周辺はもともと外国人居住者が多く、さらに2年後の1964(昭和39)年には東京オリンピックを控えていました。そこで課題となったのがトイレの水洗化です。大がかりな工事が必要となりますが、下水をどうやって処理施設まで誘導するかが問題となりました。そこで千代崎川を経路にするアイデアが構想されましたが、問題は当然強烈に漂うであろう臭気でした。そこで蓋をしてすべて地下化してしまえばということになり、覆蓋工事が行われたわけです」

生活の近代化とともに千代崎川も消えたのである。

「この工事以前、震災後改修時より暗渠化されていた所もありました。その部分を中に入って歩くのはまさに探検でした。日も差さないその箇所はヘビも生息し、コウモリもいました。中を歩いていた子どもがコウモリに飛び掛かられ、手にしていたロウソクの火を消されたことがあったそうです」

 

落合橋・宮前橋間の暗渠探検 コウモリがロウソクの灯を消した(画像提供:長沢博幸)


そのほか水辺にはさまざまな生き物がおり、中でもトンボは夏から秋への移り変わりを示す空の使者であった。

「夏の夕暮れどき、街灯に虫が群がり、さらにそれを目当てにトンボも集まりました。川の両側に竹竿にモチを塗ったお手製の捕獲器を手にした子どもたちがあつまり、トンボの中でも大きなギンヤンマを狙うのです。1匹のギンヤンマが現れると数十人で競い合って捕まえるそうで、毎日誰かしら川に落ちたそうです」
 


トンボとりで橋から落ちた 上野橋付近(画像提供:長沢博幸)


「もともと千代崎川はきれいとは言えない水質でした。周辺の人が生ゴミをよく捨てていました。それでときどき外部から人が来て川の中に入り、清掃をしていました」

現在では千代崎川本流だった暗渠と平行して別に下水道管が掘られ、暗渠と分担して雨水・下水を流している。さらに暗渠から河口を経ずに水を海に流すバイパスも作られているので、雨天による水量増加で暗渠が決壊するという事態は案じなくてもよいようだ。

「たしか私の記憶では1964(昭和39)年ごろに山手駅が水浸しになったことがありました。そうしたこともあって治水には力を注いだのだと思います」と長沢さんは回顧する。

 

雨になると川の水位が急速に上昇する。それを見ている少女。市場橋で(画像提供:長沢博幸)



さらなる工事が行われている 



暗渠になった千代崎川だが、その後も工事が続いている。

「2009(平成21)年~2011(平成23)年には宮前橋から立野橋間でボックスカルバート(下記写真)を埋設する工事が行われました。言わばコンクリートのトンネルです」

見えざる水路のより一層の安全を期してのことであろう。作業中の記録が残されている。
 


作業場所(画像提供:長沢博幸)


ボックスカルバート降下(画像提供:長沢博幸)


ボックスカルバート(画像提供:長沢博幸)


開国前から流れ続け、人々の暮らしを見守ってきた千代崎川。横浜の歴史とともに、その姿を変えてきたのだった。


記念碑が立てられる



2011(平成23)年7月9日、「千代崎川の碑」除幕式が行われた。
 


除幕式(画像提供:長沢博幸)


「千代崎川の碑」建立は長沢さんが提唱し、上野町一・二丁目南部町内会青木重行(あおきしげゆき)会長、同東部自治会厚浦千尋(あつうらちひろ)会長、伊波洋之助(いなみようのすけ)市会議員(当時)らの尽力により実現したものであった。

千代崎川そしてその橋の歴史的な経緯を説明板に記し、震災復興橋である上野橋と西ノ谷橋の親柱を残して千代崎川ならびにそこにかかる幾多の橋の思い出を未来に向けて留め、本牧の歴史の深さを知らしめる事業であった。

当日は青木町内会長、厚浦自治会長、伊波市議、横浜市管路部長、立野小学校生徒そして
地元の有志が集まり、長沢さんを進行役として、碑がお披露目された。

現在はyoutubeで見ることができる

 


取材を終えて


千代崎川は地元民に多くの思い出を残して地上から消えた川である。
一つの川にはさまざまなドラマがあり、生活の記憶がある。

河口近くの「涙橋」は当時この近くに屠牛場(とぎゅうじょう)があり、そこに連れて行かれる牛がこの橋で涙を流したから、とのこと。

橋の名前にも、思いがけない挿話がある。
 


かつての涙橋、屠牛場、千代崎川の位置関係
(画像提供:長沢博幸 原典『THE FAR EAST』1870.12.16)
 

北方小港にあった屠牛場(画像提供:長沢博幸 原典『新鐫横浜全図』)

 
時とともに記憶は薄れる。けれども横浜のおよそ中心部を流れたこの川の歴史は、記念碑や記録として、これからも継承されていくことだろう。


─終わり─
 

参考文献
長沢博幸『本牧・北方・根岸』

参考サイト
『千代崎川の歴史』
https://tiyozakirekisi.wordpress.com/
 

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  • これは興味深い歴史の発掘でしたね。取材敢行お疲れ様でした。他にもまだまだ見えざる河川は横浜市内に沢山ありそうですが、関内~石川町の首都高横羽線が案外わかりやすいかもでキニナル。はまれぽ圏外では、皆さんが嫌いな傾向の都内には、中央道高井戸IC以東や、中央線各停水道橋駅辺りにも、様々な謎がありますね。川が堰止められた件ですと、最近では新潟県中越地震に前例がありましたが、真に酷い状況でした。

  • 山元町の南側に沿って細長く低地が続いてる。あれが川だったんだな

  • 本牧の裏通り部分で、妙な上下線分離道路になっていたり、ここ、経緯を知らないと「もしや?廃線跡?」という雰囲気も漂わせる、なかなか味のある景観です。山元町から小港を結ぶ小さなガソリン軌道を妄想してみたり・・・「柏葉から山元町にかけては、急坂のため、坂を登れない時には、乗客が数人降りて押して登った」・・・などと。

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