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焼夷弾は「地獄の音」 横浜大空襲体験者が語る戦争の悲惨さとは

ココがキニナル!

横浜大空襲を経験した打木松吾(うちき・しょうご)さんに話を聴く。

はまれぽ調査結果!

三春台に住んでいた打木氏は家を焼かれ、多くの遺体を目撃した。焼夷弾は「地獄の音」がしたという。

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ライター:松崎 辰彦

生きている人間を踏みつけて



こうして逃げ出した打木少年だったが、そのときの光景、体験は終生忘れられないものだった。

「逃げる人々がすし詰めだったんです。人と人の間隔がない。道路を走っていくんですが、私のちょっと前のおばあさんが転んじゃったんです。人込みの中で『痛いよ、痛いよ』と叫んでいる。その声が耳に入ってはいるけれども、助ける余裕はない。私も悪いことをしました。そのおばあさんを踏んづけて・・・今だったら考えられないでしょ。まだ人間の肉体を踏みつけたグニャッという感覚を足が覚えていますよ」と昨日のことのように語る。

かつて南太田に横浜高等商業学校があり、人々はそこを目指した。

「グランドが広いんでそこまで逃げたんです。するとようやく空襲警報が解除された。私はお袋が死んでいるんじゃないかと心配になって家に戻りました」
 


当時のことを生々しく語る


家に戻る打木少年の目には道路の端に焼夷弾で焼け死んだ多くの遺体が映った。赤ん坊を背負ったまま死んだ人もいた。おじいさんやおばあさんの遺体もあった。

「・・・地獄ですよ」

幸い母親は無事だった。母親は空襲のとき近所のおばあさんが心配で見に行ったところ、家のふすまに炎がメラメラと燃え移り、その中をおばあさんが右往左往していたので助けて一緒に逃げ出したとのことだった。 
 


打木氏の母親。このときの活躍で顔に火傷を負った


しかし打木少年の家は燃えてしまった。買い置きしていた練炭に火が燃え移ったのだという。その日職場に出勤していた父も帰ってきたが、焼け跡に立って「ああこれでおれは2回裸になったよ」と言った。

「1回目は関東大震災のときですよ。震災のときに親父はレンガの中に生き埋めになって、酒屋の小僧が通りがかって助けてくれたんだそうです」


二度と空襲には遭いたくない

翌日から親戚の家を泊まり歩く生活が始まった。寝起きの場所は確保できても、やはり食べ物には不自由したようである。

「食べ物がないのが一番苦しいです」と打木氏は自身の経験から語る。

「弘明寺の近くに通町(とおりちょう)というところがありますが、そこに罹災(りさい)証明を持って行けば食べ物を分けてくれるというので、親に言われて私が行きました。サツマイモを3人分もらいましたが、アイスクリームのように冷たくて甘いイモで、サツマイモってこんなにうまいのかなと思った記憶があります」
 


横浜市営地下鉄弘明寺駅と蒔田駅の中間あたりに位置する(Googlemapより)

 
「空襲後に遺体がお寺に並べられたんですが、そこに空襲で生き残った人がきて、家族ではないかと一体ずつ見ているんですね。私は目を背けるようにしてその場を離れました。するとそこにトラックで陸軍の兵隊がきて、鳶口(とびぐち)ってご存じですか? 鳶口で遺体をひっかけてトラックに乗せて運び去ったんです。数時間で遺体を処理しました」
 


鳶口とはトビのくちばしのような形状の道具のこと (Wikimedia Commons)


「遺体がゴロゴロ並んでいるところを市民が見て、厭戦(えんせん)気分、反戦気分になってはまずいというので、その前に軍隊がきて迅速に遺体を処理したんだと聞きました」

その後、打木一家は親戚の家を間借りする生活を続けたが、やがて井土ケ谷に新居を用意し、そこに住んだ。

高校・大学と進学した打木氏は、大学卒業後は父親と同じく司法の道を選び、横浜地方検察庁の職員として定年まで勤め上げた。
 


戦争の酷さを訴える打木氏


現在、あの苦しい時代を回顧して何を思うだろう?

「二度とああいう凄惨(せいさん)な空襲なんかに遭いたくないという気持ちだけですよ」

戦時中はゲートル(すねの保護のために下肢に巻く布)を巻いていたのだが「戦争が終わり、『ゲートルをとれ』と言われて、ゲートルを巻き取ったときの解放感といったらなかったね」と戦争体験者ならではの思い出を語ってくれた。
 


ゲートルを足に巻いて立つ兵士(Wikimedia Commons)


戦争中は各学校に配属された軍人による教練などを経験した打木氏。「軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)」(軍人の心構えを説いた文章)の朗読を聞いているときに思わず笑ってしまい、軍人教官にビンタをされたなど、苦い記憶が脳裏から消えぬようである。

「空襲の日、先生が『きょうは横浜が危ない、すぐ帰れ』と言われて学校から帰り、それっきり戻ってこなかった級友も随分います。死んじゃったんでしょうね」と訥々(とつとつ)とした言葉の中に言い知れぬ思いを込めて振り返った。


横浜大空襲祈念のつどいで



2017年5月29日、野毛の芸能ホール「横浜にぎわい座」で毎年恒例の「『5・29』横浜大空襲祈念のつどい」が行われた。

その席で打木氏はマイクを握り、自らの体験を聴衆の前で語った。
 


空襲で亡くなった方々に黙祷を捧げる


聴衆に体験を語る打木氏


打木氏のほかにも、過酷な体験をした方々が当時の記憶を披瀝(ひれき)した。
 


当時教員をされていた方の話は鮮明であった


4歳のときに空襲に遭遇した女性。戦争の記憶の継承に務めている


家族が空襲に遭った人も多い。戦争は個人を、そしてそれに連なる家族をも傷つけた


発言中に感極まって涙ぐむ方もおられ、戦争の傷痕は数十年を経ても癒され難きものであることを実感した。


取材を終えて

 

校長先生(右)が軍隊に入る教師に日本刀を贈呈する


「当時、教員は兵役免除でした。しかしこの先生はみずから軍隊入りを志願しました。この写真は先生の入隊前に学校が生徒たちからお金を集めて日本刀を買い、校長が贈呈しているところです。私はこの子どもたちの中の、後ろの方にいます」

先生はその後、どうなられました?

「・・・飛行機の訓練中に事故で亡くなりました」

当時は各地にこうした知られざる悲話があったことだろう。

戦争体験者の語る戦争は常に具体的で現実的である。

彼らにとって空襲とは「〇〇区××町に横たわっていた焼死体」であり「電柱を覆っていた炎」であって、戦争とは「愛する人の死」であり「ビンタの痛み」であり、そして「飢えの苦しみ」であったことが多くの人の生々しい回顧談からうかがわれるのである。

平和への思いを打木氏は笑いながら言う、“メシの代わりにサツマイモを食わされないように”と。

戦争を体験している人々と戦後に生まれた我々との間には埋め難い断絶がある。埋め
難きことと知りつつ、それでもはまれぽは今後も戦争体験を追いかけていきたい。

─終わり─

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  • ご苦労をされたんですね……市電は此処から先は危ないから、と客を下ろしたんですね……

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