弘明寺は西遊記の三蔵法師が建てたって本当?
ココがキニナル!
弘明寺って西遊記の三蔵法師が建てたって本当ですか?先日弘明寺特集を拝見したばかりですが、また調査していただけると嬉しいです。(ハマっこ3代目さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
弘明寺の創建に関わっているのは「西遊記の三蔵法師」とは別人だった。しかし、もう一人の三蔵法師である善無畏三蔵が建てたかは定かでない。
ライター:ほしば あずみ
複数いた三蔵法師
まず、善無畏三蔵は西遊記の玄奘三蔵とは別人であることを改めて教えてもらう。
「三蔵法師とは天竺や西域のサンスクリット語で書かれていた経典を漢語に翻訳した訳経僧の尊称なんです。ですから何人もおられます」
訳経僧でもっとも有名なのが玄奘三蔵で、たとえば日本でもよく知られている「般若心経」は彼の翻訳であるとされている。
そして玄奘の没年は666年。弘明寺創建より90年ほど遡る。
では善無畏三蔵とは?
彼はインドの生まれで、多くのサンスクリット経典を中国へもたらした人物らしい。
シバカラシンハという名前の王子で、その名を漢語に訳し善無畏という。
中でも「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」「大日経(だいにちきょう)」を漢訳し伝えた功績が知られており、日本ではインドから中国を経て空海(弘法大師)によって密教が国内に伝えられるまでの8人の祖師、「真言八祖」の一人として、真言宗の寺院で祀られている。
真言八祖の善無畏三蔵。右手人差し指を立て袈裟の裾を握っているのが定番ポーズ
なるほど、西遊記の三蔵法師ではないが、三蔵法師が弘明寺を建てたというのは間違いではないという事になる。と思っていたらお寺の方から意外な言葉が。
「弘明寺の寺伝では開基(寺院を創始した僧侶)は行基(ぎょうき)とされています」
行基? 行基菩薩とも呼ばれる、全国を行脚し庶民に仏の教えを広め、奈良の大仏建立にも力を尽くした僧侶、それが行基。
その行基がなぜ突然でてくるの? 善無畏三蔵はどこにいった。
弘明寺を建てたのは、善無畏三蔵ではない!?
天下泰平祈願のため各地を巡っていた行基がこの地にやってきたのは天平9年(737)の事。
その時彼が彫ったのが本尊の十一面観音とされており、それが弘明寺の起こりである、と伝えられている。
では善無畏三蔵はいったい何なのか。
「善無畏三蔵は行基が来る17年前、この地を訪れ結界を張って浄域としたとされているんです。境内にある七ツ石がその霊石とされています」
善無畏三蔵によって浄められた地を行基が訪ね、そこに草庵をつくって御仏を彫ったのが弘明寺のはじまり。
善無畏三蔵は、いわば聖地のベース作りをしたという事らしい。
ちなみに、善無畏三蔵の没年は735年、98歳だった。
行基が来る17年前にここに結界を張ったとすれば720年ごろ。渡来は晩年ということになる。
そんな高僧が、そんな高齢で本当に日本にやって来たのだろうか。
「日本の歴史書には善無畏が来朝したという記録はどこにもありません。でも実は善無畏三蔵が渡来した、寺を訪れた、という言い伝えは全国にあるんです」
縁城寺 (京都府京丹後市) | 717年 (養老元) | 善無畏が千手観音像を安置 |
安居寺 (富山県南砺市) | 718年 (養老2) | 善無畏によって開かれのち行基が伽藍(がらん)を造営 |
久米寺 (奈良県橿原市) | 718年 (養老2) | 善無畏が仏舎利(ぶっしゃり)と大日経を納め国内最初の多宝塔を建立 |
全国に残る善無畏伝説の一例。弘明寺の善無畏伝説は720年。時代的にも一致する
実際に来朝したという記録はないものの、伝説的に語られる。それは何を意味しているのだろう。
お寺の方は、
「あくまでも推測の域はでませんし証拠となるものもありませんが」
と前置きをしたうえで、いくつかの説を教えてくれた。
■混同説
「天平時代、東大寺に菩提僊那(ぼだいせんな)僧正という方がいました。この方は東大寺大仏開眼の導師もつとめたインド出身の高僧です。この方と善無畏三蔵を混同したという事も考えられます。
また、同じ頃奈良の大安寺には当時朝鮮、ベトナム、中国、インド等国際色豊かな渡来僧いました。そういった渡来僧が各地を訪ねたりすると、当時の人々には外国のえらいお坊さん=善無畏といった感覚があったのかもしれません」
大柄な日本人が外国に行くと「スモウレスラー」だと思われたりするようなものだろうか。
東大寺外観
■古密教のシンボル説
「善無畏三蔵の伝説が残るのはいずれも真言宗の古刹です。真言宗は唐に渡って密教を学んだ弘法大師によって開かれましたが、それ以前にも日本には密教は伝わってきているんです。
弘法大師以前のいわゆる古密教は、もっと呪術的、仙術的なもので、原始修験道とでもいうか、修行で全国の霊場をめぐっていたようです。そういった古密教で尊ばれていた経典が「虚空蔵求聞持法」や「大日経」、これはいずれも善無畏三蔵が訳したお経です。
修行場をめぐる古密教の一派が訪ねた足跡を、後の人がそのシンボル的な存在として善無畏三蔵が訪ねたと言い伝えたものもあるかもしれません」
弘明寺は、日光二荒山(にっこうふたらさん)や出羽三山(でわさんざん)といった修験道の霊場に至る途中にあり、修行の地のひとつとして信仰されていたのかもしれない。
出羽三山神社の大鳥居
まとめ
弘明寺を建てたのは西遊記の三蔵法師ではなかった。
もう一人の三蔵法師、善無畏三蔵がこの地に来たかどうかも伝説の域をでない。
だが天平時代から1300年も続く信仰は、実際に来たとか来なかったとかを超越した力を持っているように思う。お寺の方も仮説を述べた後、このようにつけくわえた。
「いずれの説も証明する手立てはありませんし、またいずれも善無畏三蔵ではない、という事の証明にもなりません。あくまで信仰の対象で、寺伝として語られているので、史実と照らし合わせるような事はしません。みなさまもそれを信じてお参りされているのですから」
弘法大師以前に日本に伝わっていた密教の名残なのかもしれない弘明寺創建の伝説。
西遊記のような活劇はないが、歴史の不思議を味わいにあなたも弘明寺を訪ねてみてはいかがだろうか。
―終わり―
Kyleさん
2014年07月12日 12時51分
楽しく拝見しました。弘明寺の七つ石は私も現地で見たことがあります。弘明寺は星供養を行う真言宗の寺ですが、七つ石は北斗七星の「七」に因んで善無畏三蔵によって置かれたのではないかと思います。この寺の背後には、高台があって今は公園になっています。この古代寺院は、この高台を中心とする三次元的な星曼荼羅であり、胎蔵曼荼羅ではないかと想像できます。善無畏三蔵は実際に日本に来ていた可能性が高いと思います。虚空蔵求聞持法と大毘遮那経(大日経)は彼の手による漢訳経典ですが、それに基づいて胎蔵曼荼羅はできています。奇しくもちょうど彼が日本にやってきたこの時代に、行基によって立体的な金剛界曼荼羅が造られています。善無畏三蔵は日本各地にその足跡を残していますが、彼が造ったものは、立体的な胎蔵曼荼羅であったように思います。空海はそれに触発されて、大悲胎蔵の灌頂と最新の胎蔵曼荼羅を求めて入唐しているように思います。
通りすがりさん
2012年03月20日 23時11分
このライター、「読者目線にあわせた」つもりかも知れないが、教養がなさすぎるだろう…もう少し仏教をかみ砕いて読者に知らせろよ…
通りすがりさん
2012年03月20日 23時00分
「玄奘三蔵というと女性のイメージが…」なんてねーよ。ライター、いくら読者に目線合わせるからって、読者はそこまで無教養じゃねーよ。もう少し教養つけてから書けよ。